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 吹奏楽部が鳴らす金管楽器の音を聞きながら校内を出た。今日も我が天文部の活動はない。幽霊部員だらけで活動できない、というのが正しい。隕石でも降ってくればさすがの部員たちも重い腰を上げるかと考えたが、そうなったら学校そのものが無くなりそうなことに気が付いて妄想をやめた。

 バスに乗り込んでスマホを開く。流石は友人がいない僕のスマホなだけあってなんの通知も来ていない。我ながら寂しい高校生活を送っていると思うが、一年と半年も過ぎてそれを変えようと行動を起こす気にもなれなかった。


「次は×○――」


 運転手の声でスマホをしまい、カバンを手に取った。バスを降りる。雲一つない空に一番星が浮かんでいた。一番星――つまり金星は、宵の明星なんて名前でも呼ばれる。望遠鏡で覗くと日によっては月のようにかけて見える。地球から、月の次に近くにあるのが金星だ。と言っても1億5千万キロも離れたそこは硫酸の雨が降る。そんなとてつもないスケール感に思いを馳せながらとぼとぼと歩く帰り道は冷たかった。そろそろオリオン座が綺麗に見えるころだ。おそらく頭上にあって太陽にかき消されているであろう三連星の光を思い浮かべながら路地を曲がった。家に着くとカレーの匂いがして、玄関を開けるとその匂いはさらに強くなった。


「ただいま」


 僕がそう言うと、キッチンの方から母の声がした。洗い物をしていた母に空の弁当箱を渡して、リビングのソファに座った。テレビをつけて適当な番組をザッピングする。この時間はニュースしかやっていないらしい。お天気のお姉さんが愛嬌を振りまきながら画面を指していた。


「――明日は皆既日食です! 20時頃に月が地球の影に隠れはじめ、赤いお月様が観察できますよ! そして四日後にはオリオン座流星群も観察できます! この一週間の天体ショーには注目です!」


 元気なお姉さんと自分との温度感の差に胃もたれしそうになった。僕は黙ってチャンネルを変えた。しかし、変えても話題は月食のことだったので、おとなしくテレビの電源を切った。テーブルについて早めの夕飯を食べる。時刻は17時。まだ日も沈まないうちからご飯を食べられるのは、ひとえに部活がないおかげだった。

 皿にライスと半々に分けられたルーをスプーンで掬い、ライスにかけてからそれを再び掬って口まで運ぶ。いつも通りのカレーの味だった。もう一口カレーを掬うと、ジャガイモが星形にくりぬかれていて、母の手間を感じさせた。母親という生き物は、息子がいつまでも三歳くらいだと思っているのか、僕がずっと昔にねだった星形のジャガイモをいつまでも続けていた。そのジャガイモをかみ砕いて飲み込む。幼稚園の頃は自分の体に星が流れ込んでいくようで嬉しかったのを覚えている。


「ごちそうさま」


 皿を流し台に下げて僕はリビングを出た。

 僕の部屋の真ん中には大きな望遠鏡があって、かなりの場所をとっていた。しかし、レンズはドアの方を向いていて、窓の外は映していない。ホコリも積もって使われていないのが誰の眼にも明らかだった。十年前、小学生の時に祖父が酔った勢いで買ってきたものだった。数年前まではよく使っていたコイツも、今ジャム用の長物。一応高価なものらしいから取っておいてはいるが、正直、扱いに困っていた。けれど、すっと放っておくのも寂しい。今日辺り、また使ってみようか。

 僕はそう思い、望遠鏡をベランダに持っていくことにした。重たい望遠鏡を担ぎ上げて、ベランダに引っ張り出す。月でも見ようかと大体の角度を調整した。昇ったばかりの月は低い空に浮かび、ミカンのように薄らと赤く染まっていた。

 月の真下には林らしき木々が生い茂って、月の下半分を枝葉で隠していた。望遠鏡を覗くと、大きくなった月が顔を出した。肉眼で見る月と望遠鏡の中の月を見比べて、深呼吸を一つする。肉眼で見る月はその優美さをその肌に浮かべ、銀の筒の中の月は荒れた地肌をありありと見せつけ僕を圧倒しているかのようだった。これ以上倍率上げたら吸い込まれてしまいそうな恐ろしさがそこにはあった。僕は一旦レンズから目を外し、ぼおっと空を見上げた。

 その瞬間、空の端が白くなって、空が切り裂かれるように星屑が降ってきた。

 流れ星だ、運がいい。と思っている間にも、その星屑は燃え尽きず、ヒューっと甲高い音を立てて、月の下半分を隠していた林に落ちていった。あまりに一瞬のことに僕は目を疑った何の意味もないのに望遠鏡を覗いてみたりして、数分後にようやく現実を呑み込んだ。そして落ち着いた後、あの流れ星の落ちた林に行ってみようとベランダから出て上着を手に取った。急いで階段を下りてスニーカーを履いた。

 玄関を開けると冷たい風が体を突き刺した。かかとをつぶして履いたスニーカーを履き直し、アスファルトを蹴る。街灯の薄明かりが後ろに飛んでいく。月はもうさっきよりも高い。林へと続く道は、その月明かりがあってもなお薄暗かった。僕は鬱蒼とした林の中に足を踏み入れた。一応、アスファルトで整備されているものの、アスファルトは割れ、その隙間から雑草が伸びていた。その雑草が足にあたってズボンの裾に何かの種がくっついた。僕はそれを気にも留めずに足を進める。あの流れ星はどこだろう。

 この割れたアスファルトの道にはないかもしれない。

 そう思いスマホの明かりを林の中に向けた。ゾワリとした。この道を外れてしまえば、そこにはぬかるんだ落ち葉がたまっている。スニーカーで歩くようなところでないのは明らかだ。だが僕は足を踏み出した。落ち葉から水が染み出してきて、スニーカーと靴下が濡れたのがわかる。足先が冷たくなって、背中の筋肉がゾクリと跳ねた。踏み出す足は止めなかった。ざくり、ざくり、と落ち葉を踏む音が僕の生唾を飲む音と混ざって聞こえた。

 上を見上げると、木に隠れた空に星が輝いているのが見える。葉の隙間から小さな瞬きが見えた。

 林の奥へ奥へと進んでいく。一歩進むごとに心臓の音がうるさくなった。それは決して疲労などではなく、確かな高揚感だった。

 一心不乱になって歩いている時だった。

 左の方からガソリンと音がした。小動物かと思って注意を払うと、どうやら小動物ではないらしい。音や影からして人ほどの大きさはありそうだった。

その影が近づいてくる。女性だとわかった。向こうはこちらに気づいているのか、いないのか、歩を止めた。

僕は気になって、もう少し近づいてみることにした。

ガサガサと落ち葉をかき分ける。それとその音に気がついたのか、影がこちらをむいた気がした。


「誰かいるんですか?」


 その声はやはり女性で思っていたよりも若い声だった。むしろ幼さすら感じる。

 僕はさらに近づいて懐中電灯を向けた。


「きゃっ――」


 スマホの明かりに照らされて浮かび上がったのは、青白い女の顔だった。その表情は恐怖に染められていた。

 その表情を見て自分が驚かせてしまったのだと気がついた。僕は申し訳なくなってスマホのライトを下げた。すると彼女の手元が出されて縄をもった白い腕が見えた。

――縄?

僕はその縄と、この鬱蒼とした森によからぬ想像をしてゾッとした。


「えっと……」


 女性は困ったような顔をしていた。それもそうだろう。しかし僕も困っていた。衝動的に近づいてみたものの、その後のことを全く考えていなかった。失敗した。そう思った。


「あ、ええと……」


 僕は口を開いたものの、何を言えばいいか分からず、


「流れ星、見ませんでしたか?」


 と、そんなことを聞いてしまった。我ながらひどいコミュニケーション能力だ。


「な、流れ星?」


 そう返答されて僕は黙ってしまう。ああ、なんて言えばいいんだ。口角がヒクついた。


「いえ、あの……。この森に堕ちていくのが見えたもんですから……」

「あ、そ、そうなんです、ね……」


 そう言って彼女は苦笑していた。僕もハハハという掠れた笑いしか出てこなかった。彼女が苦笑であっても笑っていたのがせめてもの救いだった。右頬にできたえくぼが印象的だった。


「それじゃあ私はこれで」


 彼女は森に突如現れた不審者から一刻も早く離れたかったのだろう。早口でそう言って、その場から立ち去ろうとした。


「あの!」


 しかし、僕は彼女を行かせてはならないと思った。それは僕の気持ちの悪い妄想だったかもしれないが、こんな時間に一人でこんな場所に居る人間を放っておくわけにはいかなかった。


「え……?」

「あ、いや、すいません」


 どうにかして彼女をとめる方法考えてみるも何も思いつかない。口の中がパサパサに乾いて変な汗が背中を伝った。

「流れ星……。あっ、さっき言ってた。……いいですよ」


 彼女ははじめ訝し気な顔をしたが、すぐに微笑んで了承してくれた。僕は安心すると同時に、背中の汗が急激に増えていくのがわかった。いつの間にか上がっていた体温が冷えたらしかった。


「流れ星、落ちたんですか?」

「はい、たぶん、あっちの方に」


 僕から離れて後ろを歩く彼女は、僕よりも頭一つ分。身長が低く、かなり小柄で華奢だった。触れれば折れてしまいそうなほど、病的に細く、白い。


「――」


 僕は話題に困り彼女に、なぜここに? と聞こうとしてやめた。あまりに直球過ぎるその質問は僕の口から出ることはなかった。もし想像通りの答えが返ってきたとしても、僕はうまく会話を続けられる自信がなかった。


「そういえば名前聞いてませんでしたね」


 言葉に詰まる僕をよそに、彼女はそう言った。


「名前……、あ、夜野礼二っていいます」

「夜の0時?」


 僕が振り返ると、彼女は首をかしげていた。


「親がシャレでつけた名前で……」


 ハハハ、と自己紹介での決まり文句を出すと、彼女もふと口に手を当てて笑った。


「いい名前だね」


 彼女が言う。それが社交辞令でも、僕はうれしくなった。


「私は、天城美空。天城越えの天城に、美空ひばりの美空」

「いい名前ですね」


 ぼくがそういうと天城さんはありがとうございますと一言だけ言って黙ってしまった。静かな森に気まずさだけがあった。

 ザクリ、ザクリ、と二人が落ち葉を踏みしめる音が聞こえて、ざわざわと枝の揺れる音が降ってくる。彼女の息遣いがうしろから少し聞こえてきて、僕のうるさい心臓の音は体の奥底を揺らしている。

 歩けど歩けど、流れ星が落ちたような跡は見つからなかった。


「なさそうですね」


 十何分歩いて天城さんは、そう言った僕の言葉に賛同して、


「もう帰りましょうか」と、そう言った。


 しかし、そう言ってしまって、急に不安が襲ってきた。彼女このまま一人で帰らせてしまって、もし想像通りのことが起きてしまったら。僕は足がすくんだ。


「ええと、あの。やっぱり――」

「大丈夫ですよ」


 僕が彼女を引き留めようとしたその瞬間、彼女は僕の言葉を遮った。


「大丈夫です。一人で帰れます。ちゃんと帰りますから」


 僕の必死さが伝わったのだろうか。それとも彼女は元々本気ではなかったのか。どちらにせよ、僕は深く安心した。ため息が漏れる。


「聞かないでくれてありがとうございました。それじゃあ」


 そう言って、天城美空はスマホの地図を見ながら踵を返した。

 聞かないでくれてありがとう――。その言葉はずっと聞こうとしていた。僕に呪いのようにまとわりついた。ある種、拒絶のようなその言葉に、また心臓の音がうるさくなった気がした。


 次の日は授業中もずっとあの少女のことを考えていた。そのせいで集中できていなかったからだろうか。廊下のなんでもないところでつまずいて、さらに運悪くロッカーの角にしたたかに頭をぶつけて、保健室に行く羽目になってしまった。


「失礼します」


 そう言ってドアを開けた僕の顔にはまだ血がべっとりとついて、中にいた保険医が目を見開いた。


「どうしたの?!」


 若い保険医がすぐさま飛んできて、患部に触らないようにしながら僕の顔を覗き込む。


「転んでロッカーに突っ込みました」


「そうなのね……。とりあえず止血しましょうか。……そこに座って?」


 保険医に促されるままパイプ椅子に座り、僕の額にガーゼを当てる保険医の白衣のボタンを眺める。

 白衣を押し上げる隆起への興奮を抑えるため、僕は目の前の白衣から目をそらすことにした。

 ガーゼが当てられて少し痛む頭を気にして身じろぐと、保険医は無理やり頭を掴んで彼女の正面に持って行く。保険医や医者の意外な無理やりさはどこも一緒なのだろうか。足首を捻挫して整体に行った時も、僕が動くと力ずくで位置を直された記憶がある。

 頭を掴まれてしまって、目だけで保健室の中を眺める。保健室はワケアリの生徒を匿う。こともあるからだろうか。柔らかな色のカーテンや、パーテーションがこれでもかと置かれていた。きっと個人のスペースを確保するためだろう。もしかしたら、女子生徒が着替えるために使ったりもするかもしれない。そんなことをつらつらと考えていると、一番奥のベッドの周りのカーテンが、がさりと動いた。奥のベッドだけカーテンが閉められていて、下の隙間から脱がれた上履きも見える。先客が休んでいたらしい。上履きの色からして三年生であることはわかった。


「マヤちゃん、誰か来たの?」


 女の声だった。上履きの大きさからしても驚きはなかった。しかし、保険医にため口はおろか――保険はその親しみやすさと若さからため口を使われることも少なくはない――下の名前を気安く呼んでいることから、カーテンの奥の彼女が頻繁にここを訪れていることは容易に想像できた。


「美空ちゃん、起きちゃった? 今ね、けが人の手当て中」

「んー……」


 再びガサガサと音がして、カーテンの奥は静かになった。

 僕は驚いていた。妙に規模絵がある声に美空という名前、あの少女だまさか同じ。しかし僕は動けずにいた。昨日、名前を聞いただけの関係性で声をかけように躊躇われてしまう。少しでも身動きを取ろうとすると頭の位置を調整してくる保険医の存在も相まって、動く気にもなれなかった。

 音のしなくなったカーテンの向こうの彼女は寝てしまったのだろうか。


「はい、おしまい、血も止まったみたいだし、大したこと無さそうね。でも頭の怪我だから念のため病院は行った方がいいわよ。親御さんに連絡しようか?」


 僕は天城美空のことが気になってしかたがなかった。保険医が何か言っていても、少しも頭に入ってこない。


「どうしたの? 大丈夫?」

「あ、はい。えっと、早退ですか?」


 ようやく僕は我に返った。意識が保険の方に戻って、保険医の胸を意識しないようにしていたのを思い出した。それを思い出した瞬間に耳が熱くなるのが分かる。


「頭痛かったりはしない? 違和感があるなら、すぐ病院に行ったほうがいいと思うけど、様子見で休んでく?」

「あ、はい。じゃあそうします」


 少しでも彼女のことが知りたくて、僕は気付いたら頷いていた。接触できる可能性を少しでも上げたかった。

 僕は保険医に指示されるままベッドにもぐりこんだ。天城美空が居るベッドとは反対側のベッドだった。

 消毒臭い毛布をかぶってスマホを開く。検索のタブの下には、僕にサジェストされたネットニュースやウェブページが転がっている。そのうちの一つを適当にタップして眺める。そのページには今日の星空の様子が取り上げられている。そうだ。今日は皆既月食の日だった。昨日のニュースで天気のお姉さんが紹介していたのを思い出した。夜、家に帰ったらベランダから眺めよう。

 そんなことを考えながらネットサーフィンをしている間に、だんだんと眠気が来て、僕はそれに抗わずに素直に目を閉じることにした。


 どれほど寝ていただろうか。僕は消毒臭いリネンを剥がして身を起こした。カーテンの向こうは静かだった。遠くから人の声がするのは保健室の外からだろうか。

 僕は上履きを履いてベッドから立ち上がる。ベッドが軋んで音を上げた。それは静かな保健室によく響いた。

 ベッドの脇のカーテンを開けると、向こうの壁に掛けられた時計が目に入る。目の悪い僕は手元にあるはずのスマホを探して枕の下から見つけると時間を確認した。スマホを持ち上げればパッと画面が付いて時間が表示される。もう下校時刻を過ぎていた。外から聞こえて来る人の声にも納得がいった。

 部活の声出しを意識の端で聞き流しながら、保健室の外に出て廊下を歩く。授業が終わった学校の廊下も保健室同様に静かだった。窓の外ではテニス部がサーブの練習をしていた。教室に入るとなれない静けさに包まれていて、あかりについていないそこ。は妙に薄暗い黒板と反対側にあるロッカーから荷物を取り出して背中に背負った。

 ペラペラの上履きで廊下を歩く。普段からかかとを潰して履いているから、かかと周りがおぼつかない。パカパカと不安定な上履きを昇降口で履き替えてスニーカーを履く。いつもなら誰よりも早く帰路につく僕だったが、帰宅部よりも後、部活がある者よりも早いという中途半端な時間に帰るというのは、変な新鮮味があった。

 コンクリートを踏みしめると、体が強い分と軽い感じがした。保健室で良く寝れたのが大きいのだろうか。すっきりした頭で歩く通学路はまた普段とは違うようにも見える。

 風は冷たいくらいだった。秋もそろそろ終わりを迎え、長い冬がやってくる。季節ばかりが廻り、自分は置いていかれているようにも感じる。

 バス停にバスが来た。学生の帰宅にも社会人の帰宅にも中途半端な時間だからか、車内はいつもより空いていた。

いつも降車するバス停が近づいてきて、バスの運転手の声と車内アナウンスが被って聞こえた。負の加速度とともにバスはとまる。体が前につんのめるその勢いを利用して、席から立ち上がった。運転手に定期券を見せて、その四角いバスから降りた。今は何でもない空を見上げる。この後数時間後には、平然と浮かぶ月が赤く染まると考えると、なんだか不思議な気分になった。月食のことを考えたら、自然と速足になった。


 僕は今日も寝不足だった。昨日は月食に夢中になってしまって、結局いつも通り寝られなかったのだ。睡眠が足りずにぼーっとする頭で授業を受ける。ノートを取ろうとしても、教師の言うことがうまく頭に入ってこない。内容を掴もうとしても、霧のように実体がないように感じた。

 一時間目の授業を終えて、それ以上の疲労感があった。僕は何とはなしに教室の外に出て、深呼吸を一つした。窓の外に視線をやる。ふとテニスコートの前を通り過ぎる人影を見た。あ、と声が出そうになった。天城美空だった。

 僕は寝不足だったからだろうか。無意識のうちに彼女のことを追っていた。階段を駆け下りて、テニスコートに向かう。しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。辺りを見渡す。移動教室で使う特別教室棟の方に、女子生徒の後姿があった。あれか。僕は速足で近づいた。決して向こうには悟られないように。それでいて見失わないように。彼女を追って特別教室棟の階段を四階まで登ったところで、ストーカー紛いのことを自分がしているのに気が付いて足を止めた。天城さんは五階へ上がっていく。僕は考えるのをやめて再びその後を追った。この棟は五階建てで、天城さんが向かったのは五階で確定した。五階には何があっただろうか。確か、音楽室と化学実験室。それと化学準備室だったか。音楽を選択していない僕はこの階に頻繁に来ることはほとんどない。化学実験室も授業ではほとんど使われていなかった。

 五階に上がると、一番奥の教室に入っていくスカートと生白い脚が見えた。その教室には『天文部』という看板が掛けられていた。僕は納得がいった。事実上の休部となっている天文部の部室であれば、授業時間であっても人が来ることはない。保健室に頻繁に訪れているだろう彼女からしたら、絶好のサボりスポットなわけだ。

 僕は天文部の部室を開けた。ずいぶんと久々にここを訪れる。入部して以来だから、一年半ぶりだろうか。そんなことを思って目隠し代わりになっているスチールの棚を避けて奥へ進むと、ばっちりと天城美空と目が合った。


「きゃああああああああ」


 耳をつんざく悲鳴。二時間目の開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。



 悲鳴を上げたあと半狂乱になった彼女を何とか落ち着かせ、僕は弁明することになった。


「……最悪」


 そう言われて、僕は申し訳ないことをした、と胸が苦しくなった。自分の興味本位だけで彼女を怖い目に合わせてしまった。


「すみません、驚かせてしまって」


 僕は素直に詫びた。


「……」

「授業中なのにこんなところに来てるのが気になって……」


 言い訳がましく、僕はそんなことを口走った。


「……君だってそうじゃん」


 彼女の指摘に時計を見た。二時間目の授業が始まる時間を十分は過ぎていた。どのみち、集中はできないのだ。僕は二時間目に出ることは諦めた。


「……君は毎回こうだよね。驚かされてばっかり」


 そう言われて、僕は一昨日のことを思い出した。その時も暗がりから突然現れた僕が驚かせてしまったのだっけ。


「……礼二くん、だっけ。謝罪が済んだらさっさと出てってよ。わかったでしょ、私はこんなとこで授業をサボる不良ですよう」


 天城さんはホコリを被ったソファの上で僕に背を向けた。


「それでいうと僕も不良になっちゃうんですけど……」

「……うるさいなあ! 私も君も不良! それでいいでしょ! 天文部でもない君にとやかく言われる筋合いはない!」


 怒声を上げた天城美空はその苛立ちを隠そうともせずに、ソファをぼふんと叩いた。ホコリが舞い上がって天城美空はむせた。こんなに棘のある人だったかと僕は記憶の中の彼女と照らし合わせてみる。記憶の中の彼女はもっとしおらしかったはずだ。


「……あの、僕、天文部なんですけど……」


 とやかく言うつもりはないが。と、心の中で付け足す。


「……は?」

「部長です」


 形式上は、であるが。


「……はあ?」


 天城美空は訝し気な表情でこちらに振り向いた。充血した眼で睨まれて、僕は一瞬たじろいだ。しかし事実なのだ。


「……だったらなんなの。どうせろくな活動もしてないでしょ」


 天城美空は開き直った。実際その通りであるから何も言い返せないし、そもそも、天城美空がここでサボっていようが僕は構わないのだ。僕は僕の好奇心を満たしたかっただけだし、僕だってこうして授業をトんでいるのだ。天城美空に説教垂れる資格なんて持ち合わせていない。


「よければ、天城先輩の話を聞かせてもらえませんか」


 天城美空が私欲でこの部室を使うように、僕も私欲を満たすことにした。この人への興味は尽きなかった。


「……はあ? きもい。出てって」


 再び背中を向けた天城美空は強い口調で拒絶した。


「一昨日、持っていた縄で、何をしようとしてたんですか」

「……」


 小さく丸まった背中は無言だった。


「ここに来てること言いつけて施錠してもらいますよ……」

「はあ?! 脅すとかサイテー!」


 ソファに寝そべったまま、ぐるりとこちらに向いた天城美空のスカートがめくれ上がり、彼女の白い太ももが覗いた。


「……はぁ……」


 彼女はひと際大きなため息をつくと、ソファに座り直しスカートを整えた。


「想像通りよ」投げやりに彼女は言う。

「自殺よ。自殺。死にたいの私は。これで満足?」


 予想通りの答えに、僕は拍子抜けだった。


「自殺なんて、しない方がいいですよ」

「はぁ?! るっさいわねぇ!」


 関係ないでしょ。と彼女はぽつりと言って窓の方を見た。そりゃあ、死にたくなるほどつらいことだってあるだろうが、それで簡単に命を投げ出してしまうのは、なんと言うか、ひどく勿体ない気がするのだ。

 ――物憂げに窓の外を眺めるこの少女は、一体何を背負っているのだろうか。

 この部屋は五階ということもあって、街並みを一望できた。秋晴れの下に、物静かな街があった。


「なんで死のうと思うんですか?」


 僕は天城美空に尋ねた。


「なんでなんでなんでって、君は二歳児かなんかなの? 君には関係のないことでしょ? 普通自殺しようとする人間にそんなこと聞く? デリカシーってもんがなさすぎ。モテないでしょ、君」


 矢継ぎ早にそう言われて、僕は何も言い返せなかった。開けられた窓から冷たい風が吹き込んでくる。


「……生きててよかったなんて思うこと、ないじゃない」


 窓の方を見て、そう呟く彼女は瞑目する。


「学校に行けなくなって、たまに教室に入れば腫物扱い。行かなきゃ行かないで世間からは落ちこぼれ扱い。私の居場所なんてどこにもないでしょ。そんなんで生きていきたいって思う人間なんていないわよ」


 その独白は秋の風に流されていく。


「なんで――」


 そう言いかけたところで、またか、と言う顔で彼女は僕を見た。僕はとっさに口を噤んでしまった。――なんで学校に来れなくなったんですか、そう聞き直そうとしたところで、二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。


「……はい、帰った帰った」


 そのチャイムを聞いた天城美空は、シッシッ、と手で僕を追い払うようなジェスチャーをした。これ以上は僕と会話するつもりはないようだった。僕に三時間目までサボる度胸が備わっていれば、このまま粘ってみるのもありかと思ったが、僕にそんな度胸はないので、すごすごと退散した。


 次の日の二時間目も僕は天文部の部室に居た。どうやら天城美空は二時間目はここに来るというのがルーティーンのようだった。


「……また来たんだ」


 そして、どういうわけか、昨日ほど拒絶されてはいないようだった。


「結構気持ち悪いことしてる自覚はある? ストーカーと変わんないよ、ソレ」


 しかし相変わらず彼女の言葉には棘があった。


「……まあ、いいけど。どうせ来たんなら面白い話してよ」


 そんな無茶ぶりを彼女からされて、僕は固まった。なにか話題はないかとあたりを見渡してみる。昨日と同じところが開けられている窓の向こうを見た。真っ青な秋晴れが広がっている。


「天気、いいですね」

「……ぷっ――、ははは! お見合いかよ!」


 天城美空が噴き出して笑いだした。僕の何気ない一言が彼女のツボに入ったらしく、彼女の笑い声が部室に響いた。破顔した彼女の笑顔は花のように美しかった。


「……ふぅ。あー、笑った。久々だ、こんな笑ったの」


 ひとしきり笑った後、彼女は目じりの涙をぬぐいながらそう言った。彼女の長いまつ毛が濡れ、東向きの陽に照らされてキラリと光った。


「そういえば、君、天文部なんだよね?」


 天城美空がこちらに向き直り言った。


「はい、そうです」

「星は、好き?」

「え、はい、まぁ……」


 突然そんなことを問われて、僕はなんて答えたらよいか分からず、中途半端な答え方をしてしまう。


「私も好き」


 そう言って彼女は窓の外の空を見上げた。今頃は、春の星座が太陽にかき消されているはずだ。


「死ぬことを星になるって言うでしょう? だから、私も星になるんだ。好きなものになれるのよ。素敵じゃない?」


 どこかうっとりとした表情でそう言う彼女は窓の方にその細い腕を伸ばした。腕が逆行となって、その輪郭が陽の光に包まれる。そのせいで余計に細く見えた。


「……」

「なによ」


 僕が彼女の言葉を聞いて呆けているのを見て、彼女は胡乱げな顔をした。


「いや、意外とロマンチストだな、って思って」

「うるさい!」


 そう言って彼女はまた笑った。


 それから少し会話を交わした僕たちは、昨日のように二時間目終わりのチャイムで別れた。僕は三時間目を受けに行き、彼女はそのまま部室に残り暇をつぶすんだそうだ。


「なあ、三年の不登校の先輩知ってるか?」

「誰それ。不登校なんじゃ知らないよ」


 後ろの席から、そんな男子生徒同士の会話が聞こえてきた。そんな私語にも教師は注意する素振りは見せずに、淡々と授業を進めていく。


「その先輩がどうしたんだよ」


 話題をふられた方の生徒、仮に鈴木くんとしようか――決して名前がわからないわけではないが、顔を見ず、声だけで誰かはわからない。僕のクラスメイトとの関係はその程度のものだ――が聞き返した。


「それがさ、最近学校に来るようになったらしくってさ」

「うん」


 そこまで聞いて、天城美空のことが頭をよぎった。


「すっげぇ美人らしいんだよ……!」

「へぇ! マジ! おっぱいは? 大きい?」

「いや、そこまではわからん」

「なんだよ」


 そんな下世話な会話に、僕は天城美空のことだろうな、と確信した。実際不登校の生徒がこの学校に何人いるかは知らないが、美人、と話題に上がるくらいなのは天城美空くらいのものだろう。

 ――ちなみに彼女の胸はそんなに大きくない。この男子生徒たちよりも彼女のことについて知っている気になれて、僕は少し優越感を抱いた。それと、肌は白くて、綺麗だ。


「あ、そういえば俺も聞いたことある」

「へぇ、どんな?」



 男子生徒たちの会話は続いた。


「その人、天文部の亡霊って呼ばれてる人じゃねぇ?」

「亡霊?」


 その言葉に、僕も気になって板書する手を止めた。


「いや、なんか三年の先輩に聞いたんだけどさ」


 鈴木くんがそう前置きして話しだす。


「その人、天文部だったらしいんだけどさ」


 もう一人の会話を始めた方の――こちらは佐藤くんとでもしよう――がうん、と相槌をうつ。


「その人がなんかトラブルを起こしてさ、そこから天文部がほぼ休部状態らしいんだよね」

「へぇ。っていうか、天文部なんてあったんだな。ウチの学校」


 天文部の僕でも知らないそんな噂に、僕は耳を疑った。確かに、そう考えるならいろいろなことに納得がいく。トラブルを起こしたのだとしたら不登校にもなりかねないし、そもそも佐藤くんのように天文部の存在を知らない人だっているのだ。そんな中、天文部の部室の場所を知っていたのは、天文部とかかわりのある人間じゃなきゃありえなかったのだ。


「その人の呪いで、天文部の連中がどんどん幽霊部員になるんだってさ」

「へぇ。それで亡霊」


 そこまで聞いて、僕は再びペンを持った。彼女のことを知ったような気になって、それどころか、鈴木くんや佐藤くんよりも知らないじゃないか。僕は少し自己嫌悪した。興味本位で彼女に近づいておいて、何も知れていないことにもどかしさを感じた。


 三時間目が終わってすぐに、僕は教室を飛び出した。さっき聞いたことについて聞いてみなければならない。そう思い、僕は天文部の部室へと急いだ。打ちっぱなしのコンクリートの階段を駆け上がる。すぐに息が切れて、四階までで一旦足が止まった。移動教室でこの棟のどこかの教室に向かう一年生の女子とすれ違い、笑われる。その蔑むような笑い声が胸に刺さり、じくじくと痛んだ。

 僕は弾む息を整えながら、階段を一段ずつ昇る。やっと五階までたどり着くと、その一番奥にどんよりとした天文部の部室。僕は部室のドアを開けて奥に入った。


「先輩……?」


 呼びかけても返事はない。トイレにでも行っているのだろうか。少し待っても、先輩が戻ってくることはなかった。四限が始まるチャイムを聞いて僕はソファから立ち上がり教室に戻った。四時間目は厳しいことで有名な先生の担当で、遅れていった僕は目の敵にされ、授業中、何度も当てられてしまった。


 昼休み、もう一度天文部の部室に行くが、先輩はいなかった。僕にはもう一つ心当たりがあった。保健室だ。

 職員室の奥の渡り廊下を特別教室棟の方に曲がらずに、まっすぐ行って階段を降りるとすぐ保健室だ。僕は保健室のドアをノックして中に入った。


「どうしましたかー?」


 若い保険医がデスクの向こうからそう尋ねる。保険医は弁当を食べ始めるところだったようで、その弁当箱の蓋を閉めた。


「あ、君。頭怪我した……。その後は大丈夫?」


 保険医はつい最近処置したばかりの僕の顔を覚えていたらしく、僕の顔を見るやそう言った。


「あ、はい。なんとも」

「そっかそっか。よかった。それで、今日はどうしたの?」


 僕はそう尋ねられて、なんと答えるべきか言葉に詰まった。


「あの、天城美空、さんは来てませんか?」


 僕は少しの逡巡のあと、素直に聞いてみることにした。


「……美空ちゃんのお友達……?」


 僕が聞くと、保険医は訝し気な表情を見せた。


「今日は来てないわよ」

「そうですか」


 僕はその言葉に保健室をぐるりと見渡してみる。その言葉の通り、すべてのベッドが使われていない。


「美空ちゃん、最近保健室にも来てないんだけど、何か知ってる?」


 先輩は今日は来ていないどころか、保健室にも顔を出していないようだった。天文部の部室に居ることは話していないのだろうか。まあ、保険医だって学校側の人間だし。言ってしまうと施錠されてしまう可能性もあるだろうから、言っていないのは想像に難くないが。


「学校には来てますよ」


 僕は肝心の部分はぼかしつつ答えた。


「そうなの? 私、何かしちゃったかな」


 ぽつりと保険医が呟く。天城美空とこの保険医の関係性について、何も知らない僕は何も言えなかった。僕はでは、と軽く会釈をして保健室を出た。


 放課後にも天文部の部室へ行ってみたが、この日はついぞ天城美空を見つけることはできなかった。


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