二千年にわたり閉ざされてきた尾呂血神社の本殿の扉がついに開く
第十章 誘い
その晩、大輔は寝床に入ると暗い天井を見つめながら美穂に関する一連の出来事を反芻してみることにした。美穂は父の葬儀の後、恵美子から夫の浮気の相談を受け盗聴を提案する。そして啓一に忍ばせ回収したレコーダーからとんでもない事実を知ってしまう。恐らくそれは啓一の浮気とは別のもっと重大なことだったはずだ。好奇心旺盛な美穂はそのことを更に深く調べるつもりで大輔に「もう少しこちらに滞在します」と電話をしてきたのだろう。そして渡し舟以外の方法で神島に渡り、天狗岩に遺品を残したまま姿を消す。そういえば啓一がもし本当に人知れず巳八子と逢瀬を重ねているとするならば、どうやって巳八子のもとに渡っているのだろうか。まさか逢瀬の度に重男の舟を使うわけにはいかないはずだ。美穂は啓一と同じ方法で神島に渡ったのではないだろうか。確か啓一に忍ばせたレコーダーはGPS付きだったと恵美子が言っていた。ということは、美穂はGPSを解析することにより啓一の移動経路を把握できたはずだ。正一の言う通り、どこかに秘密の地下坑道のようなものがあるのだろうか。突然、静香が見たというススキ原のお化けの話を思い出す。マムシがいると言われ誰も近づかない場所、しかし実際にはマムシなどいない。村人を近づけないために作られた巧妙な噂。何を隠すため?美穂の遺品が発見された前の日に誰かがそこに潜んでいた。マムシなどいないことを知っている者。それは誰だ?
その時、卑埜忌村の通信環境が圏外だということを思い出した。電波の届かない中で美穂はどうやってGPS付きレコーダーを再生したのだろうか。美穂ちゃんと恵美子ちゃんが連れ添って峠に向かうところにばったり出くわした。源三の言葉が蘇る。そうだ、美穂はレコーダーを再生するために、電波のつながる峠まで上ったのだ。しかし、恵美子も一緒だったということは、恵美子もその時に再生内容を聞いているはずだ。恵美子は内容を聞いていないと言っていた。何故そんな嘘をつく?
翌日、朝食を済ますと大輔は再びススキ原に向かうことにした。お化けが明かりを携えていたと静香が言っていたことを思い出し、念の為、女将に懐中電灯を借りた。
尾呂血神社分社の手前の道を入り、しばらく進むと前方に草地が広がる。まとわりつく野良犬たちを押しよけながら草地を横切り、昨日静香が指さした方角に向かってススキ原を分け入って進む。ススキは大輔の胸程の高さまであり、足元が良く見えないので慎重に歩かなければならなかった。どこかにマムシが潜んでいたら大変なことになるが、鈴ばあと静香の言うことを信じるほかなかった。
三十分ほどうろうろとススキの中を探索していると、いきなりつま先がゴツンと何か硬いものに当たった。密生するススキをかき分けて下を覗くと、足元に井戸を発見する。古い石造りの井戸で、木の天板で蓋がされている。蓋は持ち上げると簡単に開き、その下にぽっかりと暗い空間が広がっている。よく見ると、井戸の内壁には鉄の梯子が打ち付けられている。大輔は懐中電灯を首からぶら下げると、梯子を下りてみることにした。かすかに尻の下から風が吹き上げてくるのが分かった。やがて井戸の底に辿り着く。水は枯れており、靴底が固い地面を捉えた。見上げると遥か上方には入り口の丸い光。どうやら先ほどからの風は井戸底の横壁から漏れ出ているようだ。懐中電灯をそちらに向けると、光の輪のなかに鉄の扉が浮かび上がった。一メートル四方ほどの錆びついた扉だ。取っ手を掴みそっと押してみると、ギギッという音と共に簡単に開いた。途端に扉の向こうから湿った風が勢い良く吹き出してくる。奥の闇に向かって懐中電灯を照らすと、坑道のような道が延々と続いているのが目に入った。これが秘密の経路か?心臓の鼓動が速くなる。大輔は深呼吸を一つすると、坑道の中へと足を踏み入れた。
天上の高さは二メートル程あり、ちょうど立って歩くことが可能だった。人為的に掘られた坑道なのか、それとも、元々自然に形成されていた鍾乳洞に手を加えたのだろうか。懐中電灯に照らされた壁はテカテカと濡れており、ヌメヌメとしたヤスデの大群が這っている。時折、小さなコウモリが驚いたように奥へと飛び去っていく。地面は大小さまざまな礫石で覆われていたが、時折現れる砂地には確かに人の足跡が残っていた。誰かがこの坑道を行き来しているのだ。それは大きさからして、男の足跡のようだった。湿った風は暗い前方から音もなく流れてくる。
懐中電灯の光だけを頼りに三十分ほど真っ暗な坑道を進むと、急に左右の壁が横に広く掘り広げられた場所に辿り着いた。同時に、何か礫石とは異なる固い物が靴底に当たった気がした。立ち止まり懐中電灯を地面に向ける。何やら金属の破片のような物があたり一面に散らばっている。一片を拾い上げて光を当ててみる。かすかに湾曲した分厚い緑青色の金属片。この錆び方は恐らく青銅だろう。よく見ると、表面には縦横に格子のような文様が描かれている。かなり古いもののようで、ところどころひどく腐食している。更に周囲の地面を照らしてみると、同様の破片がそこら中に散乱していた。中にはもう少し原型を残している大きなものもあり、それは釣り鐘のような形をして地面に半分ほど埋まっている。先ほどの湾曲した金属片は、この釣り鐘の一部分だったのだろう。不意に、中学時代に教科書で目にしたことのある写真が頭に浮かんだ。銅鐸。確かにあたりに散乱している青銅の破片は銅鐸の一部分に見える。破片の数から推定すると、恐らく数個分の銅鐸になるだろう。しかし、何故ここに古代の銅鐸が埋もれているのだろうか。
更に五分ほど歩くと、前方から流れてくる風にかすかな香木の匂いが混じっていることに気がついた。伽羅だろうか、覚えのある香りだ。そのまま歩き続けると、坑道はついに行き止まりに達し、正面の壁は鉄の扉で塞がれていた。お香の匂いを帯びた風はその扉の向こうから流れてくる。そっと鉄の扉を押してみると、簡単に奥へと動いた。思わずごくりと唾を飲み込む。扉を押し開きその先を照らすと、そこには石積みの壁に囲まれた狭い空間が広がっていた。どうやら井戸の底のようだ。先ほどと同じように壁には鉄の梯子が埋め込まれている。懐中電灯を上に向けると、遥か上方の蓋が映しだされた。高鳴る心臓の鼓動を抑えながら梯子を上った。
木の天板をそっと押し上げると急に明るい光が射しこんでくる。思わず目を閉じた。目が慣れるまでしばらくかかったが、やがて視力が戻ってきた。再び蓋の隙間から外の様子を窺う。どうやら深い森の中のようだ。あたりは濃い霧で覆われ、鬱蒼とした樹々の吐き出す濃密な酸素で満ちている。むせかえるような森林香に交じって伽羅の香りが匂い立つ。注意深く周囲を観察したが、人影は見当たらない。そっと井戸から這い出して苔むした地面に降り立つ。再度、周囲に誰もいないことを確認してから、伽羅の香りの流れてくる方向へと進むことにした。
十分ほど歩くと、尾呂血神社の背面が見えてきた。やはりそういうことか。ここは神島で、湖畔との間に地下坑道がつながっていたのだ。正一の言った通りだった。
その時、背後から突然、人の声がした。
「王子か?」
驚いて振り向くと、一人の小人が大輔を見上げていた。白い頭巾に白装束、そして肩にはスコップ。聖様だ。小人は体に比して不釣り合いなほど大きな顔を大輔に向け、瞳をまん丸く見開いている。
「王子だな、王子だな」
小人はその小さな指を大輔にまっすぐ向けると、満面の笑みを浮かべた。一体、王子とは何のことだ。小人の言っていることがまったく分からず、大輔は小人を見つめたままその場で固まっていた。
その時、森の中を一陣の強い風が吹き抜けていく。白い頭巾が風に飛ばされ小人の頭部が露わになった。それを見て大輔は思わずぎょっとした。小人の額には十センチほどの生々しい縫い跡が赤黒く盛り上がっていたのだった。何か見てはいけないものを見てしまった気がした。小人が慌てて頭巾を拾いに走り出した隙に、大輔は一目散に井戸に向かって走り出した。途中、後ろを振り返ると、小人の姿はもう見えなかった。
やがて先程の井戸に辿り着き、体を潜り込ませる。そして丁寧に天板を閉じて梯子を下りた。井戸底に降り立ち鉄扉を照らすと、先程は気づかなかったが扉の外側にはかんぬき型の鍵が設けられていた。坑道に入り扉をもとの状態に閉じ、再び暗い坑道を戻る。ススキ原側の鉄扉には、内側にかんぬき型の鍵が設けられていた。つまり神島側からだけ、双方の鉄扉に鍵をかけられるということだ。
井戸を出て草地を抜ける。腹が減っていることに気がついた。
門脇食堂に着くと店の前の空き地にはもう車は一台も停まっていなかった。案の定、扉を開けると客は誰もいない。まだ食べられるかと聞くと、良枝がさばさばとした笑顔で迎え入れてくれた。カウンターに腰を下ろし、厨房の中の源三にカレーを注文した。
まだ興奮冷めやらぬ大輔は、先程の坑道のことを源三たちに聞いてみたい衝動に駆られたが、一方でそれは源三たちの信じる大切な何かを壊してしまうような気がして、結局黙ってカウンターに置かれた水をただ見つめていた。
カレーを食べ終わる頃、厨房から源三が声を潜めて話しかけてきた。良枝はレジ横で客の置いていった雑誌を暇そうにめくっている。
「あんた、静香と一緒に鈴ちゃんに会ったんだってな」
もう伝わっているのか。静香にとばっちりがなければよいのだが。
「はあ、三人で四葉のクローバー探しをしていたところ、急な雷雨に襲われ、鈴ばあのあばら家で雨宿りをさせてもらいました」
源三は満足そうに頷いた。
「そう言えば、鈴ばあに娘時代の写真を一枚、見せてもらいました。親友の千代さんと一緒に倉瀧重吉さんを挟んで写っていました」
「千代か、懐かしい名前だ。あの二人はいつも一緒だったからな。あの頃は二人とも色白のべっぴんだった。倉瀧の兄貴もあの二人のことは随分可愛がっていたもんだ」
源三はしばらく目を細めて宙を見つめていた。
「あの二人、恩義を感じていたのだろう。倉瀧の兄貴があんなことになっちまったあと、留吉翁に引き取られた重男の面倒をその後も随分と見ていたよ。なんたって当時重男はまだ十歳そこそこだったからな。よくお菓子を持参しては一緒に遊んでやっていたものだ。千代も優しい子だった」
「確か千代さんは若くしてお亡くなりになったのでしたっけ」
稗田がそう言っていたことを思い出す。
「ああ、確か倉瀧の兄貴が亡くなって三年ほど経った頃だ。ある朝、湖に浮いていたんだ。可哀そうに、どうしちまったっていうんだろうな、一体。その後、村でしっかりと千代の葬儀をして、再び湖に返してやったのさ。残された幼い啓一君も不憫だったなあ。なんせその数年前に父親の健介も山の事故で亡くなっていたのだから。まったく、木こりとは因果な職業だよ」
源三はそう言うと眼を閉じて黙ってしまった。
夕方早めに部屋に戻り、白波の立つ尾呂血湖を窓から見下ろしていた時のことだ。ふと、背中に人の視線を感じた。振り返ると、襖の隙間から覗く丸い瞳と目が合った。静香だ。
「どうしたの?そんなところから覗いてないで入っておいで」
大輔に促されて、ジャージ姿の静香が襖を開ける。手には学校のノートらしきものを抱えている。
「宿題かい?手伝ってあげようか」
静香はおずおずと大輔の隣に座ると、真剣な瞳で大輔を見上げた。
「舘畑さん、村の外の暮らしって大変なの?」
一瞬、答えに窮し、代わりに質問で返した。
「村の外で暮らしたいのかい?」
「分からない」
静香はそう言うとおさげ髪を横に振った。
「ばあちゃんは村で一生過ごすのが幸せだと言うの。ここでは食べ物にも困らないし、何かあっても村の人たちが助けてくれるからって。舘畑さん、村の外では誰も助けてくれないの?」
言葉に詰まった。混じり気のない瞳で見上げる静香の視線に、いい加減なことは返せない。
「村の外にも助けてくれる人はいると思うよ。それは静香次第だよ」
静香がぎゅっと唇に力を入れた。そして大輔から視線を逸らすと、何かに耐えるように畳の一点を見つめる。その瞳はかすかに潤んでいた。やがておもむろに手元のノートを開くと、中に挟まれていた藁半紙を取り出した。
「この宿題、来週までなの」
大輔とは視線を合わせぬまま、静香はその藁半紙を差し出した。そこにはガリ版で刷ったようなインク文字が並んでいた。
あなたが将来、なりたいお仕事をつぎのなかから選びなさい。
質問の後には、たくさんの職業の選択肢が列挙されている。
木こり、お百姓さん、学校の先生、蒙導師、看護師、木工職人、コックさん、郵便屋さん、お米屋さん、酒屋さん、お花屋さん、ケーキ屋さん、床屋さん、肉屋さん…
そこには五十ほどの選択肢が並んでいた。微笑ましい宿題だと思い、思わず頬を緩めて静香を見やる。しかし、静香は真剣な表情で藁半紙を凝視したままだ。
次の瞬間、あることに気づき、緩んでいた頬が強張る。そこに列挙されている職業は全て村を出る必要のないものばかりではないか。卑埜忌村では、こんな小さい時から村の中で生きていくことを刷り込もうとしているのだろうか。
「つまり、君のなりたいものは、ここにはないんだね?」
静香がコクリと小さく頷く。そして聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
「静香、ダンスと歌を習いたいの、NiziUみたいになりたいの」
確かにその藁半紙には、アーティストという選択肢はなかった。畳を見つめる静香に何か力強い言葉をかけてあげたい衝動にかられた。こんなお仕着せの選択肢は無視して、自分の夢に忠実に堂々とアーティストと書けばいいんだよと。ただ、その言葉が出てこなかった。アーティストと書くということは、幼い静香に村の外に将来出ていくと宣言させるようなものだから。そんなことを書けば静香は恐らく、先生や親から執拗な説得と非難を受けることになるだろう。もし静香がそれに耐えて将来本当に村を出たとしても、今度は静香の家族に黒い手紙が届くようになるはずだ。それにアーティストは狭き門だ。うまくいかないことも考えられる。挫折して村に戻ってきても、鈴ばあのような境遇が待っているだけだ。たった数日しか村に滞在しない自分が軽々にそんなことを勧めることは、とてもできなかった。しかし、だからといって、なりたい夢を諦めて提示された選択肢の中から選びなさいとは、とても言えない。
静香の華奢な肩が細かく揺れはじめる。大輔は言葉に詰まり、ただ静香の小さな横顔を見つめることしかできない自分が、ただただ腹立たしかった。
その晩、夕食を終えて部屋で寝支度をしていると、襖の外から電話のベル音が聞こえてきた。やがて女将が階段を上ってくる足音が聞こえ、襖がノックされる。
「天法さんから電話じゃ。二階の廊下の電話を取りなさい」
大輔が部屋を出た時には既に女将の姿はなかった。廊下の突き当りにある黒電話の受話器を取ると、ざわざわという雑音と共に正一の声が聞こえてきた。
「大輔さん、今、県警本部にいるのですが、やっと指紋鑑定の結果が出ました。二人の指紋は、コップのものとは一致しませんでした」
その声はさほど落胆しているようには聞こえなかった。
「鑑定結果が出るまで時間があったので、稗田の卒業した米子医科大学を訪ねたのですが、ちょっと妙なことを耳にしました」
「妙なこととは?」
「稗田の出身研究室の指導教授が、学会から除名されているのです」
「除名?何故?」
「分かりません。もう少し調べてみます。大輔さん、そちらは何か変わったことはありませんでしたか」
正一の問いに、大輔は神島に通じる坑道を発見したことを伝えた。
「それはお手柄ですね!でも、危険だから僕が戻るまであまり深入りしないでくださいね。僕は明日、龍久寺を訪ねてから夜にはそちらに戻るつもりです」
そう言って正一は電話を切った。
卑埜忌村に来てから、既に八日目の朝だ。朝食を食べていると、女将が何かを手に持って現れた。
「舘畑さん、あんた宛てに手紙が郵便受けに届いておった」
白い封筒を受け取った。表面には舘畑大輔様とだけある。恐らく誰かが夜のうちに直接樵荘の郵便受けに入れたのだろう。裏面を見ると差出人名は書いていない。不審に思いながら封を開ける。取り出した紙には見慣れない筆跡の文字が並んでいた。
舘畑様、山根美穂のことで話があります。あなたが昨日通った地下道の銅鐸の広間で、今日の正午に待っています。このことは他言無用でお願いします。以上
思わず手紙を持つ手が震えた。昨日、俺があの坑道を通ったことを既に知っている者がいるのだ。誰だ?美穂に関して何か知っているというのか。その誘いにのることは危険な気もしたが、美穂のことで何か新しい情報が得られるかもしれないと思うと、とても無視することはできなかった。懐中電灯を手に宿を飛び出した。
ススキ原の井戸の木蓋も井戸底の鉄の扉も、昨日大輔が閉じたままの状態で変わりはなかった。大輔は湿った風を受けながら再び暗い坑道に足を踏み入れた。昨日よりも歩き慣れたせいか、二十分ほどで銅鐸の広間に辿り着く。時間を確認するとまだ正午までしばらくある。横に広がった空間に懐中電灯を向けて周囲を観察してみた。昨日は気づかなかったが、周囲には銅鐸の破片に加え、何やら赤っぽい土器の破片も散乱している。かすかに原形をとどめているものから推測すると、恐らく壺や皿の破片だろう。遠い古代の時代、この場所で何か人の営みが行われていたのだろうか。
再び時間を確認すると、もうすぐ正午だった。大輔は壁の窪みにもたれて座り、手紙の送り主が現れるのを待った。相手はススキ原側から来るのか、それとも神島側から来るのだろうか。どちら側から来たとしてもすぐに相手の灯りに気づけるよう、手元の懐中電灯は消して待つことにした。途端に漆黒の闇と静寂が大輔を包み込む。
完全な闇の中にいると、次第に自分が目を開いているのか閉じているのかが分からなくなってくる。やがて自分の手や足がそこにあることさえ、あやふやになる。闇のせいで肉体感覚が希薄になっていくのだ。肉体とは見えてこそ実感できるものなのかもしれない。逆に意識だけが闇の中で鋭く研ぎ澄まされていく。やがて、意識は肉体から乖離して漆黒の時空を浮遊しはじめる。
暗闇で赤子が泣いていた。光沢のある美しい絹の布にくるまれた赤子だ。母親らしき女が心配そうに赤子を抱きかかえている。女も美しい絹の衣装を纏い、胸元には翡翠の勾玉を提げている。その周りを粗末な麻布を纏った女たちが囲んでいる。手元には各々松明を掲げている。女たちは皆、沈痛な表情で赤子を見つめている。よく見ると、女たちは声を立てずに泣いていた。赤子の泣き声だけがいつまでも闇の中にこだまする。いつしか大輔の心の中に女たちの鉛のような重苦しい感情が雪崩のように押し入ってくる。悲嘆、無念、憤怒、怨念といった痛ましい情動が大輔の意識の根幹を激しく揺さぶる。胸が押しつぶされるように圧迫され、息が詰まった。
ふと我に返った。瞳を見開くと、漆黒の闇が眼前に広がっている。夢を見ていたのだろうか。懐中電灯を再び灯す。周囲の光景が浮かび上がり、途端に自分の肉体が確かな存在として戻ってくる。光は濡れた壁に反射してあたりを明るく照らした。地面に広がる銅鐸や土器の破片が煌々と浮かび上がる。時間を確認すると、既に一時を回っている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。どうやら手紙の主は現れなかったようだ。仕方がない。引き返すことにした。
坑道の突き当りに戻ってくると、前方に先ほどの鉄の扉が見えてきた。扉は閉じていた。確か坑道に入ってくるときには開けたままにしておいたはずなのだが。坑道を吹き流れる風が扉を押し閉めたのだろうか。モヤモヤと嫌な予感が胸の中に広がっていく。扉に辿り着き、そっと取っ手を引いてみた。動かない。さらに力を入れる。動かない。逆に向こう側に押してみる。動かない。かんぬきは扉の内側にしかないはずだが、誰かが外側に何か細工をしたのだろうか。その途端、背筋にゾッと鳥肌が走った。閉じ込められたのだ。手紙は俺をおびき出すための罠だったのだ。大輔は踵を返すと、狂ったように坑道を駆け出した。礫石に足を取られながらも前方を照らす光の輪に向かって走った。銅鐸の広場を通り過ぎ、神島側の突き当りに辿り着く。荒い息を吐きながら無我夢中で鉄の扉を押してみたが動かない。恐らく扉の外側のかんぬきが閉ざされているのだろう。いつの間にか坑道の両出口が閉ざされていた。
大輔は自分を落ち着かせるために、大きく深呼吸をした。そして冷静になるよう自分自身に言い聞かせた。よく考えろ。俺は昨日、ススキ原の井戸から神島につながっている坑道を発見したことを正一に伝えてある。そして正一は今日、樵荘に戻ってくると言っていた。今晩いつまでたっても俺が宿に戻ってこない場合、女将に俺がどこへ出かけたか尋ねるかもしれない。女将は俺の行き先は知らないが、懐中電灯を借りて出かけたことは伝えるかもしれない。例え女将に何も尋ねなかったとしても、正一のことだ、俺が再び坑道に入って何らかの事故に巻き込まれた可能性を考えるかもしれない。ススキ原を探せばすぐに井戸の入り口は見つかるはずだ。明晰な正一のことだ、大丈夫、きっと来てくれる。
大輔は正一が来てくれることを信じ、再び坑道をススキ原側に戻った。突き当りに辿り着くと、念の為、再び鉄の扉を引いてみたが、やはり動かない。仕方がない。ここで待つしかない。正一は絶対に来てくれるはずだ。大輔は腰を下ろし冷たい扉にもたれかかると、懐中電灯を消した。何があるか分からないから、電池は節約しておいたほうがいいだろう。再び漆黒の闇に包まれた。
今度は眠るわけにはいかなかった。鉄の扉の向こうから大輔を呼ぶ正一の声を聞き逃すわけにはいかない。鉄の扉の向こうから漏れてくる正一の灯りの痕跡を見過ごすわけにはいかない。大輔は神経を研ぎ澄ませながら、ひたすら助けを待った。正一は必ず来る。
でも、もし正一が来なかったら。女将を含め村人のほとんどは、俺が失踪したところで気にも留めないだろう。人知れず東京に帰ったとでも思うだけだ。そうしたら俺はどうなる。このままここに閉じ込められて死ぬのか。不思議と怖いという感情は湧いてこなかった。それどころか、何とも言えず腹立たしい気持ちが湧き上がってくる。一体これは誰に対しての怒りだろう。自分に対してだ。音信を絶った美穂を助けるつもりでここまでやってきたのに、何の役にも立たずにこのまま死ぬなんて、何て役立たずで情けないことだ。大切な女性一人助けられないなんて。何としても、美穂を助けなくては。俺の子を宿してくれている美穂を。ちくしょう。拳で鉄の扉を力一杯殴りつけた。
気の遠くなるような時間が流れた。その間、大輔は意識を手放してはいなかった。時間を確認しようかと思ったが意味がないと思いやめた。何も見えない中、ただ時だけが音もなく過ぎ去っていく。
どのくらいそうしていただろうか、突然、犬の鳴き声が聞こえてきた。たくさんの犬が一斉に吠え始めた。やがて待ちに待った最初の光の粒が鉄扉の隙間から漏れてくる。続いて誰かが井戸を下りてくる気配。かすかな息づかいが扉の向こうから聞こえる。大輔は鉄扉を勢いよく叩いた。
「おーい、助けてくれ。開けてくれ」
「大輔さんですか」
それは待ちに待った正一の声だった。
「正一君か、そうだ、俺だ、大輔だ。開けてくれ」
何かを外す音と共に扉がギギッと音を立てて開く。途端に強い光が大輔の顔を照らし、眩しさに思わず目を閉じた。
「大輔さん、無事でしたか。心配しました。本当に無事でよかった」
涙混じりの正一の声と共に温かい手が大輔の肩に触れた。助かったのだ。
梯子を上りようやく井戸を出ると、月明かりを受けあたり全体が青白く浮かび上がっていた。そして密生するススキの間からこちらを見ているたくさんの光る眼。ここを根城としている野良犬たちだ。やがてそのうちの何匹かが大輔たちにまとわりついてくる。大輔は弾かれたように正一を見やった。
「正一君、野良犬がたくさんいる中を一人で来たのか?」
正一が強張った表情のまま無理やり歯を見せた。
「心臓が止まる思いでしたが、大輔さんを探すことに無我夢中で」
その体は今になって激しく震え出している。犬に深いトラウマを抱えているはずなのに。正一、ありがとう。大輔は思わず正一の肩を抱きしめた。
樵荘に戻った時には既に深夜を過ぎていた。
「大輔さん、今日はもう遅いからゆっくりと休んでください。明日の朝、色々と報告をしたいことがあります」
正一はそう言うと部屋に戻っていった。大輔も布団に入り、暗い天井を見上げた。助かったという安堵感が胸一杯に広がっていく。
正一はいつまでたっても宿に戻らない大輔を心配して部屋に足を踏み入れ、差出人不明の手紙を見つけたらしい。そしてすぐにススキ原に駆けつけ、犬たちにまとわりつかれながらも井戸を見つけたそうだ。鉄扉の外側の取っ手の部分には、木の杭が差し込まれていたらしい。それはちょうど取っ手の大きさに合わせて巧妙に加工されたものだった。一体誰が。やがて鉛のような睡魔が襲ってきた。
第十一章 録音された会話
翌朝、朝食後に正一が早速部屋を訪ねてきた。座布団を用意し向かい合って座る。正一が話し出す前にまずは大輔が恵美子から聞いた話を伝えた。恵美子が啓一と巳八子の関係を疑っていること、そのことを美穂に相談していたこと、そして啓一に仕掛けたICレコーダーが美穂の手に渡ったこと。正一は黙って聞いている。一通り聞き終えると正一はしばらく目を閉じ何かを考えているようだったが、やがて目を開き大輔を見やった。
「大輔さん、どうも僕が追っている案件と、美穂さんの身に起こっていることはどこかでつながっているような気がします。やはり大輔さんと一緒に行動するのは正解だったようです」
いつからだろうか、正一は大輔に対しては一切どもることがなくなっていた。そして、それは大輔にとってうれしいことだった。
「思った通り龍久寺の蔵に火之木国風土記の写本が残っていました」
正一が興奮気味に口を開いた。
「これです」
正一はそう言うと、持参したアイパッドを大輔の前に差し出した。風土記の全文を撮影したらしく、ディスプレイ一面に墨書きの崩し文字がならんでいる。大輔には全く読めない書体だった。
「室町時代の写本に間違いありません。僕は大学で古文書の解読を学びましたので、一通り読んでみました。ここには古出雲族、いや、輝龍家の盛衰の物語が記されていました」
正一が風土記に記された内容を語り始めた。それは気の遠くなるほどの時をさかのぼった、輝龍家を襲った痛ましい物語だった。
伯耆一帯に火之木国が栄えていたのは、まだ日本列島に統一王国が存在せず数十の小国が乱立している時代だった。その中でも火之木国はたたら製鉄技術による強大な武力と高度な文化を持つ有力国だった。鉄製農具を使った開墾で豊かに収穫されるコメにより飢えるものはなく、兵士は最新の鉄器と鎧で身を固めていた。特に火之木国で作られる刀剣は固くて折れないと評判だった。大陸との交易にも力を入れ、大国であった魏にもしばしば朝貢の使者を送っている。火之木国を統治していた輝龍一族は山間の美しい湖に浮かぶ島に館を設け、そこから領国の統治経営をしていた。強大な武力を保持していたにもかかわらず一族に領土拡張の野心はなく、あくまで山陰の地にとどまり他国とは緩やかな連合関係を築いていた。
しかしやがて隣国の中に覇権に対する強い野心を持つ国が現れた。大和族だ。大和族は女王が国を統治し、その弟が軍事面を統率していた。弟は須佐之男と呼ばれていた。須佐之男は周辺国に攻め入り、残虐の限りを尽くして幾つもの国を滅ぼしていく。やがて山陰地方に攻め入り火之木国と対峙することになる。輝龍一族は鉄の武具に身を固めた勇猛な精鋭部隊を派遣して、青銅器で武装した須佐之男の軍隊をことごとく退けた。そして須佐之男は捕らえられ、湖に浮かぶ輝龍一族の館に連れてこられる。懸命に命乞いをする須佐之男を哀れに思い、結局、輝龍の当主は須佐之男を殺すことを思いとどまる。須佐之男は命が助かったことを歓喜し、大和族と火之木国との和平を約束し国へ帰っていった。
翌年、須佐之男は数人の兵士を従え、和平協定を締結するために再び湖の輝龍一族の館を訪問する。今後、大和族はこれ以上他国に攻め入ることなく、火之木国を含め諸国と友好関係を結ぶという内容だ。野蛮だった大和族が平和路線に舵を切ったことを輝龍家の人々は心から喜んで祝福した。須佐之男たちは武具をおいて輝龍の館に上がり、無事に協定を締結する。そしてその晩、館で平和を祝う宴が催された。火之木国の豊かな農産物に加え、須佐之男が国から持参した名酒が一同にふるまわれる。しかし須佐之男とその側近兵士たちは飲むふりだけをして実際には酒に口をつけなかった。やがて輝龍家の人々の体が麻痺し始め、バタバタと床に倒れ始めた。須佐之男は輝龍家の人々が脇に携えていた刀剣を奪い取り、床に倒れて苦しむ輝龍家の人々に容赦なく切りかかった。酒に仕込まれた毒のせいで身動きできない輝龍家の人々はことごとく惨殺される。その数は輝龍家の当主とその皇子たちの計八人。更に須佐之男は輝龍家の祭壇に祀られていた神剣を奪い取った。それは代々輝龍家に伝わる、統治者としての正統性を表すレガリアだった。そして館は火を放たれ燃え落ちる。天を焦がす炎は三日三晩燃え続け、須佐之男たちが剣の血を洗った湖は赤く染まった。
逃げ惑う女たちの中に、巳八比売という当主の若い新妻がいた。巳八比売は幼子を抱えると、侍女たちを連れて大蛇の胎内に逃げ込み命拾いをする。やがて須佐之男たちが去ったことを確認すると、巳八比売は無残に命を絶たれた輝龍一族八人の霊を慰めるために館の跡地に尾呂血神社を建立した。これが尾呂血神社の起源である。
須佐之男は奪った神剣を姉に献上すると再び火之木国に戻り、宍道湖の畔に城を建立する。そして新しい領主として君臨した。
輝龍家滅亡の翌年、天は輝龍家の哀れな末路を悼み、怒りと悲しみからそのお姿をお隠しになった。
正一の語る壮大な物語を聞きながら大輔は古に思いを馳せ、かつて神島にそびえたっていた壮麗な館を思い浮かべていた。そこで暮らしていた平和な人々のことを想った。そして昨日坑道の中でみた不思議な夢を思い返した。大蛇の胎内とはあの坑道のことなのだろう。あれは巳八比売だったのだろうか。激しく泣き続ける赤子の声が再び脳裏に響く。
「以上が風土記に記されていた概要です。最後の部分に天がその姿を隠したとありますが、これは恐らくは皆既日食のことだと思います。当時の人々にとって日食は、まさに天がお隠れになったと思うほどの恐ろしい事件だったのでしょう。須佐之男の姉である天照大御神が天の岩戸に隠れたという神話もここから生まれたはずです。今では天文計算をすることにより、古代の皆既日食の日時を正確に特定することができます。西暦二四七年三月二十四日です。尾呂血神社の創建は三世紀半ばと言われてますが、それとも合致します」
正一は大輔が話の内容を消化できるよう、そこで一息ついた。大輔の頭の中では霧深い尾呂血湖に浮かぶ、古代と現代の神島の姿が交錯していた。
「それでは八津神様とは」
「惨殺された輝龍家当主と七人の皇子のことでしょう。大和族側、つまり勝者の史書では八岐大蛇という醜い怪物として葬り去られてしまった八人です。輝龍家の人々は大和族の血筋とは異なるため、同じ人間としては扱われなかったはずです。恐らく何の供養もされず、八人の亡骸はそのまま神島に放置されたのでしょう。だから、残された巳八比売が彼らを供養しなければならなかったのです」
正一の瞳には、今まで見せたことのない激しい憤りが浮かび上がっていた。
「古事記には出雲大社の創建は第十一代垂仁天皇の時代と記されています。最新の研究では垂仁天皇は実在が認められる最初の天皇と位置付けられており、その治世は四世紀前半と推定されています。つまり出雲大社の創建は四世紀前半と推定されます。それは須佐之男が輝龍一族を滅ぼし出雲地方の新しい領主となってから約百年後、当時は若くして子供を儲けますからちょうど須佐之男から数えて六、七代後のことです。記紀でも国譲りをした大国主命は須佐之男の六世から七世の孫とありますが、やはり国譲り神話は大和族同士の争いを表しているにすぎません。須佐之男命の子孫の大国主命は恐らく大和族の本家と敵対して葬り去られたのでしょう。それでも同じ大和族の血筋をひいていたがために、本家は出雲大社を創建して大国主命を手厚く祀ったのです。しかし、大和族の血筋を引いていない輝龍家の場合は違います。大和族は彼らをただの怪物として歴史の彼方に葬り去ろうとしたのです」
巳八比売から数えて輝龍巳八子まで八十四代。気の遠くなる歳月だ。しかし、どこまで信じてよいのだろう。
「正一君、その風土記に記されていることは、どこまで信ぴょう性があるのだろうか。何分、内容があまりに突飛なもので。そもそも一つの家系で八十四代も宮司職が継承されるなんてあり得るのかな」
正一は大輔の疑問に理解を示し、大きく頷いた。
「長く一族で宮司職が継承されている例は他にもあります。例えば平成二十六年に高円宮憲仁親王の次女典子様とご結婚された千家国麿氏は、代々出雲大社の宮司を務めてきた千家家の第八十五代です」
そこで正一は一呼吸置いた。
「古代の輝龍家と須佐之男との逸話に関しては何とも言えません。唯一の手掛かりとなるこの風土記はずっと歴史研究の本流から排除されてきました。ただ、」
「ただ?」
「尾呂血神社の本殿の中に、風土記の信ぴょう性を裏付ける何かが隠されているような気がするのです。彼らが八十四代にわたり頑なに守り続けてきた何かが。しかし令状がなければ本殿の開示を要求することはできないでしょう」
「風土記に書かれていることが事実だとすると、天叢雲剣は元々輝龍一族のものだったということになるわけか。つまり秀全は剣を奪ったのではなく、単に一族の神剣を取り戻しただけということ」
正一は頷くと、ふと何かを思い出したように懐を探った。そして一枚の古い封筒を取り出し、大輔の前に置いた。黄ばんだ封筒の表には達筆な筆文字で宛名が記されている。そこには、龍久寺慈雲様、とあった。消印は平成十一年、二十年以上前に投函された手紙だ。そっと封筒に手を伸ばして裏面を見る。差出人名は輝龍清子。顔を上げて正一を見た。
「大輔さんの言った通り龍久寺では数年前まで慈雲が、いや、清子の弟の新吉が住職を務めていました。実は風土記の写本が保管されていた櫃の中でこの手紙を発見したのです。恐らく新吉が人目に触れないように隠しておいたのでしょう。読んでみてもらえますか」
正一が意味ありげな瞳で大輔を見上げた。大輔は封筒から中身をそっと取り出した。変色した便せんを広げるとかすかなカビ臭が鼻をついた。そこには清子の達筆な筆文字が並んでいた。
新吉へ、
随分と寒くなってきたけど、お寺ではちゃんと暖かくしていますか。お前が住職になったと聞いて一安心しました。今まで随分と辛い人生を送ってきたのだから、これからはどうか平穏に過ごしていけることを祈っています。
私は持病が悪化して、最近は一日中床で過ごすことが増えてきました。今年の寒さは今まで以上に体に堪えるようです。正直、この冬を乗り越えることができるかどうかわかりません。最後にお前に一目会いたいと思いますが、秀全がここにいる限りそれもままならないことでしょう。
私は旅発つ前に、ずっと一人で心に抱えていた重荷をお前に是非聞いてもらいたい、そんな思いで筆をとりました。お前には迷惑かもしれないが、姉さんの最期のわがままだと思って聞いてください。
あれは今から十七年ほど前のこと、一人息子の秀胤は既に二十七になっていましたが秀全は未だに秀胤を正式な跡取りとは認めていませんでした。気性の激しい秀全は秀胤の優しい穏やかな性格が気に入らなかったのでしょう。そんな矢先、秀全がある女を手籠めにしてしまったのです。夫を山の事故で亡くした葦原千代という女です。幼子を抱えた千代が生活に困窮しているのを良いことに、秀全は千代を分社住み込みの雑務係として雇い始めました。しかし実際は分社の社務所で千代に手を出していたのです。やがて千代は身籠り女の子を出産します。しかし父親の名を公にすることができず、悩んでいたのでしょう。何せ、相手は輝龍家の当主です。誰も信じてはくれまい。村人からはどこの誰ともわからぬ子を産んだふしだらな女だと思われるだけです。千代は悩んだ挙句、出産したばかりの赤子を連れて重男に舟を出させて神島に渡ってきました。そして参道に赤子を寝かせると自分は毒を飲んで命を絶ったのです。翌朝、私と秀全が参道で千代の亡骸を発見した時、隣では赤子が元気よく泣いていました。後で重男にその時のことを問いただしても、あの男は一切口を開かなかったので詳細は分かりません。秀全は千代の遺骸を湖に流すと、その赤子を引き取ることを思いつきました。そして尾呂血神社を創建した巳八比売にちなんで、その子を巳八子と命名したのです。巳八子は神島に産み落とされた神の子として育てられます。秀全は秀胤に代わって巳八子を自分の跡取りとすべく、幼い時から巳八子に輝龍家の全てを叩き込みました。一族の歴史、思想、心構え、村人の前での振舞い方、全てです。巳八子は賢い子で飲み込みが早く、今はまだ十六ですが既に村人の尊敬を集めています。将来は秀全の目にかなった立派な跡取りとなることでしょう。一方、可哀そうな秀胤は結局、分社に追いやられてしまいました。
私は秀全の裏切り、我が息子秀胤に対する仕打ち、そして我が弟に対する蛮行、その全てを許すことができません。せめてあの世に行く前に、お前には姉さんのこの悔しい胸の内を知っておいてもらいたいと思い、この手紙を認めました。
すべてを吐き出して、少し気持ちが楽になりました。お前のお陰です。姉さんはもう手紙を書くことはできないと思いますが、どうかいつまでも達者で。
清子
顔を上げると正一と目が合った。正一がゆっくりと頷いた。
「ということは、巳八子と啓一はともに千代の血をひく異父兄妹ということか。本人たちはそのことを知っているのだろうか」
「分かりません」
正一が首を横に振った時、胸元の携帯が鳴り響いた。正一は携帯を取り出すと、しばらく耳に当てたまま何度か頷いていたかと思うと、やがておもむろに携帯を切って大輔を見やった。
「稗田宗子の米子医科大学時代の指導教授、蛭田伊織医師に関しての情報でした。学会を除名された理由がようやく分かりました」
大輔を見つめる正一の瞳は哀しげな色に沈んでいる。
「蛭田は学会で禁止されていたロボトミー手術を行っていたのです」
「ロボトミー手術?」
全く聞いたことのない言葉だった。
「まだ向精神薬などの内服治療薬が開発される前の時代に、精神疾患の治療法として主流だった医療行為のことです」
「精神疾患の治療に手術をするって、一体どういうこと?」
「大輔さんが驚くのは無理もありませんが、かつては精神外科という医療領域があったのです。精神の疾患により暴力的になったりエキセントリックな問題行動に走る患者を外科的な手法で治療するというものです。具体的には眼窩上部にメスを入れて前頭前野と周囲の皮質との連絡繊維を切断してしまうというものです。これにより患者の過激行動を抑えることができると当時は信じられていました。
元々はポルトガルの神経科医のモリスが一九三五年に初めて行った手術で、その後モリスはその功績を認められ一九四九年にはノーベル生理学医学賞を授与されています。以後この手術は米国で急速に広まり、四万人以上の患者がロボトミー手術を施術されています。有名なところではケネディ大統領の妹のローズマリー・ケネディも二十三歳の時に父の命によりこの手術を受けさせられています。
しかしやがてロボトミー手術の副作用の大きさが社会問題となっていきます。前頭前野を他の皮質と切り離してしまうと、患者は極度に無気力になったり感情が乏しくなったりと人間らしさが失われてしまうのです。術後の多くの患者が変り果ててしまった自分の人格に絶望して自殺したり、手術をした医師に対して恨みを抱いたりするようになりました。モリスもその後、自分が施術した患者の一人に銃撃されて半身不随となっています。結局、世界各地でロボトミー手術は禁忌とされ廃止されていきます。
ロボトミー手術は日本でも一九四三年から各地で行われてきました。当時、蛭田教授はロボトミー手術の第一人者で、米子医科大学で積極的な研究を行っていたそうです。稗田が蛭田のもとで学んでいたのもこの頃のことです。結局、一九七五年に日本精神神経学会はロボトミー手術を否定する決議をします。しかし蛭田はその後もロボトミー手術を行っていたことが発覚し、除名されたのです」
突然、階下から静香の泣き声が聞こえてきた。続いて女将の叱責する声。この時間、静香は学校に行っているはずだが、何故今頃家にいるのだろうか。静香の泣き声は一向に収まる気配を見せず、それに呼応するように女将の叱責の声も激しくなっていく。
大輔はその騒ぎをしばらく聞き流していたが、やがて静香の泣き声が尋常でないほど激しくなったため心配になり、様子を窺うためにそっと階段を下りていった。居間では顔をくしゃくしゃに崩して泣き続ける静香を、仁王立ち姿の女将が上から睨みつけていた。
「お前はどうしてそんな嘘をつくんじゃ」
女将が怒気を含んだ声を発した。
「静香、嘘なんかついていないもん」
静香が泣きながら言葉にならない声を発する。赤いジャージの胸のあたりに涙の濡れあとが広がっている。
「ありもしないものを友達に自慢するなんて、恥ずかしいったらないよ、まったく」
「嘘じゃないもん」
「まだそんなことを言うのか、お前は何て強情な子なんだろうね」
女将が呆れたような声を出す。
「この村では嘘つきなんていう評判がたつものなら、どんな目に遭うか分からないのじゃ。わしらまでとばっちりを食うんだからね」
嗚咽する静香を女将が睨みつけた。
大輔は見ていられなくなり、思わず口を挟んだ。
「女将さん、一体どうしたんですか」
女将は大輔を振り返ると、吐き捨てるように呟いた。
「どうもこうもない。友達に嘘をついたのにそれを認めず、挙句の果てにクラスの子たちと喧嘩をしたらしいのじゃ。先生から連絡を受けて、わしが急遽静香を引き取りに行ったのじゃ。今日は早退させた方がいいと先生に言われて」
「静香、嘘なんかついていないもん」
静香は涙で赤くはれた瞳を大輔に向けた。
「お前はまだそんなことを言うのかい」
女将が静香の頬を叩いた。静香が再び大声で泣き始める。
「女将さん、ちょっと待ってください」
大輔は右手で女将を制しながら、ひざまずいておさげ髪の少女に話しかけた。
「一体友達に何を言ったんだい?何を自慢したかったのかな?」
優しげな大輔の声に安心したのか、しばらくすると静香はようやく泣き止んだ。そして訴えるような瞳で大輔を見上げた。
「NiziUのキーホルダー」
「静香はNiziUのキーホルダーを持っているのかい?」
静香がコクリと頷いた。
「お前はまだそんな嘘をつくのか。わしも息子夫婦もお前にそんなものを買ってやった覚えはない。持っているとしたら泥棒じゃ」
大輔は女将を遮り、静香の両肩に手を乗せた。
「友達にそれを自慢したかったんだね?」
静香は目を逸らすと、小さく頷いた。
「それはどこにあるの?」
静香はしばらく躊躇している様子だったが、やがて肩から掛けているサコッシュを指さした。
「見せてもらえるかな?」
静香がおさげ髪を揺らしながら首を横に振った。
「だめ。絶対に人に見せちゃいけないって約束したから」
静香が赤くはれた瞳を大輔に向ける。
「誰と?」
「美穂姉ちゃん」
意外な名前を耳にし、思わず後ろを振り返る。部屋の入り口で佇む正一と目が合った。
「美穂からNiziUのキーホルダーをもらったんだね?」
静香がコクリと頷いた。
「静香ちゃん、キーホルダーに何かついていなかったかい?」
静香が再び頷いた。いつの間にか正一が大輔の隣に来ていた。
「NiziUのキーホルダーは静香ちゃんのものだよ。美穂さんからもらったのだから大事にしてあげてね。でも、そのキーホルダーについているものは、美穂さんにとってとても大切なものなんだ。美穂さんをひどい目に合わせた悪い奴を捕まえる手掛かりになるかもしれない。美穂さんの為にも、僕たちにそれを見せてくれないかな?」
正一は大人と話すよりはるかに自然に静香に話しかけた。静香は俯いてしばらく考えているようだったが、やがて唇を一文字に結ぶとサコッシュの中にその小さな手を入れ、きらきらと光るものを取り出した。ラメで飾られた透明なプラスティックプレートの中で華やかな衣装を纏った九人の若い女性が微笑んでいる。NiziUのキーホルダーだ。そしてその先に銀色のスティック状の小さな物体がぶら下がっている。ようやく探していたものが見つかった。
正一の部屋でICレコーダーを再生することにした。アイパッドを衛星ルーターに接続し、銀色のスティックと繋げる。すぐにディスプレイにグーグルの地図が現れた。それは湖を取り囲むように広がる卑埜忌村の地図だった。やがてガサガサと雑音の混ざった音と共に地図上の点滅するドットが動き始める。案の定ドットは湖畔から一旦ススキ原に向かうとそこから再び湖に向かい、そのまま湖を横切って神島に辿り着いた。坑道を通ったのだろう。やがて神島の中心でドットは動かなくなり、同時に人の声が流れてきた。巳八子と啓一の声だ。意外にも巳八子の声は先日耳にした無機的なものとは異なり、生身の女性の温かいトーンを帯びていた。しばらくたわいない会話を聞き流すと、やがて核心部分が流れてきた。
「先日の大雨で二本松の根元の土が流れてしまいました」
巳八子の声だ。
「秀全の遺体が露出してしまったら面倒なことになるな。神隠しに遭ったことになっているのだから。早速埋め戻しておかないと」
啓一の声が続いた。
「わたし、今でもあの時のことを夢に見るのです。恐ろしい夢です」
「忘れてしまいなさい。秀全は殺されて当然の男だ。僕は今でも秀全を殺したことを全く後悔はしていない。あいつの唯一の功績は、大和の奴らから剣を取り戻したことくらいだ」
「でも、父は輝龍家の当主です。その父を殺めてしまったことを、八津神様はお許しになってくれるでしょうか」
「大丈夫だ。何も心配はいらない。巳八子には僕がついている。僕はこれからもずっと、巳八子のことだけを考えて生きていくつもりだ。僕には妻がいるが、お前もよく分かっている通り僕の心は常にお前と一緒だ」
会話はそこで終わり、その後は再び雑音だけが続いた。
最初に口を開いたのは大輔だった。
「やはり秀全が剣を奪った。そしてその秀全は啓一に殺され、神島に埋められているということか」
「美穂さんはこの録音を聞き、GPSを手掛かりに坑道の存在を発見した。そして二本松に秀全の遺体を確認しに行ったのでしょう」
好奇心旺盛な美穂ならやりかねない。十七年前に神隠しに遭ったことになっている村の功労者、秀全が実は殺されて神島に埋められているとは。公になったら村中をひっくり返すような大騒ぎになるはずだ。確かに、とんでもない事実を探り当ててしまったわけだ。
「そしてその時二本松で、誰かに遭遇してしまったのだとしたら」
正一のその言葉に、大輔の体はブルブルと震えた。美穂、どうか無事でいてくれ。
「このICレコーダーは証拠品として押収させてください。これで正式な令状を取ることができるでしょう」
「しかし、何故啓一は秀全を殺す必要があったのだろうか」
正一は窓の外に視線を移してしばらく沈黙した。沖の神島は今日も深い霧の中だ。正一は視線をそのままに、ぼそっと小さく呟いた。
「もうすぐ、全てが明らかになるはずです」
第十二章 開かれた本殿
正一が早速鳥取県警に応援を依頼すると、一時間ほどして県警ヘリが巡査部長と巡査を乗せて飛んできた。正一は早速二人を連れ葦原家に向かった。大輔は一人、樵荘で正一の帰りを待つことにした。
正一は昼過ぎに戻ってきた。しばらく一階で女将と何やら話していたかと思うと、やがて階段を上る足音が聞こえた。大輔の部屋に入ると、向かいに腰を下ろして啓一の身柄を確保したことを告げた。
啓一はICレコーダーに残されていた自分の声を聞かされると、観念して全てを自白したそうだ。十七年前に秀全を殺害して二本松のもとに埋めたこと、そしてそのことを知った美穂から二本松に呼び出されたこと。しかし美穂は何故か二本松に現れた啓一を見るや否や悲鳴を上げていきなり逃げ出したそうだ。啓一は騒ぎが大きくなることを恐れ、美穂の後を追った。天狗岩で美穂に追いつき、騒ぐ美穂を静かにさせようともみ合っているうちに思わず首を絞めてしまう。気がついた時には、美穂はぐったりと動かなくなっていた。啓一は恐ろしくなり、美穂の体をその場に放置したまま坑道を逃げ帰る。そしてその日のうちに稗田に相談にいき全てを話した。しかし翌日、稗田が天狗岩を訪れると美穂の靴とハンドバッグだけが残り肝心の美穂の体はどこにもなかった。結局、美穂は一人で湖に身を投げたということにして葬儀が執り行われた。
そして樵荘の郵便受けに手紙を残し大輔を坑道におびき出し、閉じ込めたことも啓一は白状した。
「どうして啓一は俺が坑道を発見したことを知っていたのだろう?」
不思議だった。坑道を発見した日の翌朝にはもう啓一からの手紙を受け取っているのだ。
「簡単なことです。昔ながらの親子電話ですよ。それも啓一が白状しました。樵荘の電話は一階と二階にありますが、通話中にもう一つの受話器を取ると会話内容を聞くことができます」
「まさか女将が?」
「そうです。恐らく、美穂さんが大輔さんにかけた電話も全て筒抜けだったのでしょう。一昨日の晩、僕も大輔さんに電話をかけた時、背後に流れる妙な雑音が気になっていたところです」
「どうして女将が?」
「啓一がそそのかしたのです。村と八津神様の為だと。皆尾和子さんはとても敬虔な信者ですから。それに彼女の次男の竜二さんは聖様として神島に捧げられています。会話内容を全て啓一に伝えることが村の為のみならず、竜二さんがこのまま平穏に神島で穢れのない人生を全うできることにもつながると考えていたようです」
正一から一通りの説明を受けても、大輔はとても納得できなかった。それで肝心の美穂は一体どこにいるのだ。体が消えただと?そんな馬鹿なことがあるものか。これでは何の解決にもなっていない。
「正一君、啓一は本当のことを話しているのだろうか」
正一がいたわるような瞳を大輔に向けた。
「大輔さんのお気持ちはよく分かります。美穂さんのことですよね。ただ、啓一は本当に美穂さんの体が消えたと思っているようです。僕には啓一が嘘をついているようには見えませんでした」
正一がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。では、一体美穂はどうなったというのだ。
「大輔さん、これから稗田を訪ねるつもりです。啓一から相談を受けた翌日に天狗岩に行った時、何があったのかを再度詳しく聞いてみたいと思います。大輔さんも是非一緒にお願いします」
稗田医院に向かう湖畔の道を歩いていると、晩秋の刺すような風がもろに正面から吹きつけてきた。空を見上げると厚い雲が目まぐるしく動いている。今日も湖の沖合はヴェールをおろしたように乳白色の霧に深く覆われている。
先程から何かが大輔の心に引っかかっていた。思考の奥の何かが頭をもたげようとしているのだ。点在する幾つかの事象を再度思い浮かべてみる。しかしそれらがつながりそうでつながらず、もどかしい。思考は何度も同じところをぐるぐると空回りをするだけだ。何か重大なことに気づいていない気がした。
ふと、鼻先に細かい塵のようなものが風に乗って流れてきた。寒いはずだ。初雪だ。
やがて白い木造洋館が見えてくる。二人の足音に驚き、緑青色の銅板屋根にいたカラスたちが一斉に飛び立った。エントランスに設けられたガス灯の淡い橙色の光が建物の陰影を濃く映し出している。
玄関に辿り着くと、正一が呼び鈴を押した。しばらくすると、看護婦姿の若い女が顔を出した。
「稗田さんに会いたいのですが」
先に大輔が声をかけた。女は強張った表情で、
「院長は処置のため、先程、天祥館へ向かったところです」
と消え入りそうな声を出し、逃げるように扉を閉めてしまった。
湖畔の道を引き返すと桟橋が見えてきた。重男の姿は見えず渡し舟もない。恐らく稗田が神島に渡るために使ったのだろう。その時、何故だか背筋にぞくりと悪寒が走った。心の内で何かが声高に叫び声を上げている。急げ、急げ、と。
「大輔さん、何だか急いだほうがいい気がします。我々も神島に向かいましょう」
正一も何かを感じたのだろう。二人は顔を見合わすと、県警ヘリの待機している広場へと急いだ。
大輔は正一と並んで歩きながら、坑道を通って神島に渡った日、聖様の一人と遭遇した時のことを思い出していた。一陣の風に飛ばされた白い頭巾。露わになった額の赤黒い傷跡。その光景は何故か今でも脳裏に深く焼き付いている。
「正一君、先日、坑道を通って神島に渡った時、聖様の一人とばったり遭遇したんだが、彼の額には生々しい縫合跡があったんだ。処置とは、つまり、」
そこで言い淀んだ大輔を、正一が肩越しに見やる。
「僕もそうだと思います。血が濃いために精神的に不安定となった聖様たちをおとなしくさせるために、処置と称して稗田は禁忌とされているロボトミー手術を今でも行っているのではないでしょうか」
やはり正一も同じことを考えていたようだ。前頭葉にメスを入れ複雑につながっている神経線維を強引に切断してしまう外科手術。想像しただけでもおぞましい治療法だ。こんなことがほんの数十年前に世の中で広く行われていたとはにわかには信じがたいことだった。ただ、森の中で見た聖様たちは皆、規律正しく働いたり行進したりして既に十分に安定しているように思えた。とうに全員、ロボトミー手術を受けた後なのではないだろうか。それなら稗田は今更、誰に処置を施す必要があると言うのだ。放っておくと騒ぎだす者が他にいるというのか。「王子か、王子だな」。大輔を見上げる小人の嬉々とした表情が蘇る。同時に脳内に閃光が走る。点在していた事象が一気につながった。大輔は叫び声をあげた。
「正一君、美穂は啓一に首を絞められたが実は死んではいなく、ただ気を失っていただけなのではないだろうか。啓一が去った後、失神して倒れている美穂を他の誰かが偶然見つけたのでは。そして、そこで大きな勘違いが生じていたとしたら」
正一も何かに気づいたように、頬を紅潮させて大輔を見上げた。
「巳八子は聖様たちがディズニーアニメに夢中だと言っていた。彼らが歌っていたハイホーの歌は、白雪姫の物語に出てくる七人の小人たちが口ずさむ歌だ。物語の中の小人と同様、聖様たちも七人。ある日、毒入りリンゴを食べて倒れている白雪姫を発見したとしたら。天狗岩で倒れていた美穂を白雪姫だと勘違いしたとしたら。聖様たちにとって金髪の女性など今まで見たこともないはずだ。遠い西洋のお姫様だと思ったとしても不思議ではない」
話しながら、体が興奮で震えてきた。
「大輔さん、天祥館へ急ぎましょう」
先程まで埃のようだった雪はいつの間にか勢いを増し、湖畔の砂を白く覆い始めていた。
広場には啓一の自白を受けて急遽駆けつけたパトカーと共に、双発型の県警ヘリが停まっていた。その鮮やかな青色に塗装されたボディにも既にうっすらと雪が積もっている。機体の脇では制服姿の警官が二人、タバコをふかしている。二人は近づいてくる正一に気づくと、だれた姿勢のままぞんざいな敬礼仕草をみせた。
「ご、ご、郷原さん、す、すぐにヘリを神島に飛ばしてください」
郷原と呼ばれたその男は返事もせず、ずんぐりとした赤ら顔で大輔を見やった。そして舐めるように一瞥した後、不審そうな顔を正一に向けた。
「か、か、彼は、た、た、舘畑さんです。ぼ、ぼ、僕の捜査の協力者です」
郷原は再び大輔を一瞥すると、チッと舌打ちをしてヘリに乗り込んだ。もう一人の警官も大輔たちを待たずにヘリに乗り込んでいく。
大輔と正一がシートベルトを締めるや否や、頭上からバタバタとプロペラが回る音が響き始めた。同時に激しい振動が体に伝わってくる。やがて重力に逆らうように機体がふわっと浮かび上がった。地面がみるみる遠くなり、ジオラマのような村の風景が眼下に広がっていく。窓の外には大粒の雪が斜めに流れている。
「まったく、ひでぇ天気だぜ。皇宮警察の坊ちゃんのおかげで今日はとんだ目に遭っちまったな、篠崎よ」
郷原は顔の前で重ねた両手に息を吹きかけながら、もう一人の警官にぼやいた。篠崎と呼ばれた男もニヤニヤしながら頷く。正一は何も言わずに下を向いている。
「坊ちゃん、耳が欠けているから聞こえねえみたいだな」
俯く正一の耳がさっと赤くなる。大輔は思わず郷原を睨みつけたが、どこ吹く風といった様子で薄ら笑いを浮かべているだけだった。
すぐに眼下に神島が見えてきた。その大部分は乳白の霧の中だ
「霧が深いため、着陸できる場所が限られます」
パイロットは神島の上空をしばらく旋回しながら、着陸地点を探しているようだった。やがてゆっくりと高度を落とし始める。
「あの石碑のようなものがたくさん並んでいる辺りなら霧が切れているので着陸できそうです。着陸の際、幾つかの石碑を倒してしまうかもしれませんが」
「構うことはねえよ。そこに降りな」
郷原がパイロットに命令した途端、正一が声を上げた。
「だ、だ、ダメです。あ、あれは、ひ、卑埜忌村の人たちの大切な、み、み、御霊碑です。他の場所を探してください」
その声を受け、降下していた機体は急に上昇し始めた。郷原がキッと正一を睨みつける。しかし結局何も言わずに舌打ちをするだけだった。
「あ、あそこはどうですか。あの、み、み、湖に突き出した平らな場所は?」
正一がパイロットの肩越しに指をさした。霧の切れた隙間から天狗岩が覗いていた。
「ああ、あそこなら何とかなりそうです」
パイロットはそう言うと再度、機体を降下させはじめた。下方に小さく見えていた天狗岩がみるみる近づいてくる。岩の上に積もった雪が激しく舞い上がったかと思うと、振動と共に機体が静止した。
エンジンが止まると、全ての音が消えたかのような静寂が訪れた。扉を開くといきなり濃密な森の空気に包まれる。あたりはすっかり雪景色だ。天狗岩の上に四人の真新しい足跡が刻まれる。二人の警官の制帽もみるみる白くなっていく。結局、篠崎は天祥館に向かう大輔たちと同行し、郷原は一人、二本松に向かうことになった。
大輔を先頭に薄暗い森の中の細い道を進む。誰も口をきく者はいなかった。ざくざくと雪を踏みしめる足音だけが耳にこだまする。美穂、どうか無事でいてくれ。ただそう祈りながら先を急いだ。
五分も歩かないうちに突然視界が開け、眼前に不思議な建物が姿を現わした。茅葺屋根から突き出るレンガ積みの煙突、鮮やかな藤色に塗られた横板張りの壁面、ステンドグラスに彩られた明かり取りの窓、そして無垢材の玄関扉には龍の顔を模った真鍮製のドアノッカー。何とも奇異な和洋折衷の建物、それが天祥館だった。やはり天狗岩は聖様たちの住処のすぐ近くだったのだ。
大輔は躊躇することなく、ドアノッカーを力一杯鳴らした。ドン、ドン、という音があたりに響き渡る。程なくして扉がゆっくりと開かれた。扉の向こうに佇む聖様を乱暴に押しよけ、大輔は構わず中へと足を踏み入れた。途端に色の洪水が目に飛び込んでくる。床には原色の積み木が散乱し、四方の漆喰壁は一部の隙もない程に様々な色のクレヨンで落書きされている。聖様たちはゆったりとした部屋着を纏い、ある者は木馬に跨り、ある者は壁に向かってクレヨンを走らせ、またある者はソファーに座ってテレビを観ていた。画面からはディズニーのアニメが大音量で流れている。
聖様たちは一斉に振り返り、大輔を見やった。頭巾をかぶっていない彼らの額には、痛々しい縫い跡が赤黒く盛り上がっている。
「美穂はどこだ!」
大輔が叫んだ。聖様たちはその声が理解できないかのように、ただ大輔を見つめたままきょとんとしている。やがて一人が「王子だ」と呟くと、皆、一斉に叫び出した。
「王子だ、王子だ」
聖様たちは興奮したように目を見開き、大輔の周りを取り囲んだ。
「美穂はどこだ!」
再び叫ぶが、聖様たちは何を言っているのか分からないといった表情でただ目を丸くして大輔を見上げている。
「王子か?」
頭頂部が薄くなった年配の聖様が大輔に問いかけてきた。
「そうだ、俺は王子だ!白雪姫はどこだ!王子が迎えに来たんだ」
大輔がそう叫ぶと、聖様たちは一斉に満足そうに頷いた。そして奇声を上げながら小躍りをし始める。やがて皆で大輔の腕を取ると、スキップをしながら奥の扉へと引っ張っていった。
「この先に白雪姫がいるのか?」
大輔の問いに聖様たちが頷く。急いで扉を開けると、その先は地下に続く急な階段になっていた。冷えた土とカビの匂いが鼻をつく。大輔は両腕にまとわりつく聖様たちを振り払い、全速力で階段を駆け下りた。そして正面の扉を勢いよく開けた。同時にツンとした消毒液の匂い。煌々と裸電球の灯るその部屋の中央にはパイプ脚の寝台が置かれ、そこには一人の女性が横たわっていた。にわかに心臓の鼓動が速くなる。見覚えのある金髪と白い首筋。美穂だ。ようやく探し出すことができた。大輔は一気に寝台に駆け寄ると、瞳を閉じたその顔にそっと手を当ててみた。温かな命の鼓動が伝わってくる。よかった、美穂は生きている。胸の奥が熱く脈打ち、全身を深い安堵の波が包み込んだ。
ふと脇を見ると、寝台横に点滴スタンドが置かれていた。そこに吊るされた輸液バッグから透明な管を通じて薬剤が美穂の左腕に注入されていることに気づいた。恐らく稗田が発注した全身麻酔薬だろう。そして枕元のステンレス台には様々な手術器具が並べられている。縫合用の針や糸、ガーゼなどに交じって、大小さまざまなメスが冷たい光を放っている。これが美穂に対して使われるところだったと思うと、おぞましい恐怖に思わず背筋が凍った。
点滴管の調整弁を閉じると薬剤の流れが止まった。それからガーゼに消毒液を垂らし、美穂の腕を押さえながら刺さっている細い針をそっと抜く。過去の検診の採血時に看護婦がしていたように、見よう見まねでやってみたが、何とかうまくいった。そして絆創膏で針跡を塞ぐ。その間、美穂は相変わらず深く眠ったままだった。
いつの間にか、背後には正一と篠崎が立っていた。
「大輔さん、間に合ってよかったですね。稗田はまさにこれから美穂さんに処置を行うつもりだったのでしょう。まさに間一髪でした」
正一が心からうれしそうに大輔を見上げる。
「でも、安心はできません。至急、美穂さんを県警病院へ移送しましょう。念のため、精密検査を受けた方がよいと思います」
正一はそう言うと、篠崎を振り返った。
「し、篠崎さん、み、美穂さんの為に、へ、ヘリをお借りします」
正一の言葉に篠崎はサッと目を逸らした。
「郷原さんがまだ戻っていないので」
篠崎の口淀む声が聞こえた。
「し、し、篠崎さん、い、今すぐ、お、お願いします」
「でも、郷原巡査部長の許可がないと、」
篠崎がそう言いかけた時だった。いきなり正一の怒声が部屋に響き渡った。
「篠崎、これは命令だ。今すぐ、ヘリを使うぞ!」
それは初めて目にした、感情を爆発させた正一の姿だった。頬を紅潮させ、鋭い目つきで下から篠崎を睨み上げている。篠崎は驚いたように姿勢を正すと、「はっ」と敬礼を返した。
正一の怒声がきっかけとなったのか、その時、美穂がかすかな唸り声を発した。しばらく瞼が細かく痙攣していたかと思うと、やがてゆっくりと瞳が開く。大輔は身を乗り出してその顔を覗き込んだ。しかし美穂は無表情のまま、ぼんやりと大輔の顔を見つめたままだ。大輔のことが分からないのだろうか。その瞳は混乱したように不安定に揺れている。眉間に影をつくり、必死に何かを手繰り寄せている様が見てとれた。
「美穂、大丈夫か?」
軽く肩を揺さぶったが、相変わらず困惑した瞳できょとんと大輔を見つめたままだ。
次第にその瞳が確かな光を紡ぎ始める。そして急に我に返ったように、それは大きく見開かれた。
「大輔さん!」
美穂はそう叫ぶと、いきなり両腕を大輔の首に回してきた。大輔も強く美穂を抱きしめ返す。
「よかった、美穂、本当によかった。もう大丈夫だ」
懐かしい美穂の匂いに包まれ、深い安堵が全身を駆け巡る。
美穂の語ったところによると、案の定ICレコーダーを頼りに地下坑道を発見し、秀全の遺体を確認するために二本松を調べに行ったそうだ。そこでばったり啓一に遭遇してしまう。慌てて逃げだしたのだが天狗岩で捕まり、首を絞められて意識を失う。やがて目覚めると天祥館の中で、心配そうにのぞき込んでいる七人の小人の姿があった。しかしショックで記憶を失ってしまっており、自分が誰だかも分からない状態だったそうだ。
後で県警病院の医師が詳しく教えてくれたのだが、人は極度のショックを受けると一時的に記憶を失ってしまうことがあるそうだ。医学的には解離性健忘と言い、一般的な出来事や社会常識などの記憶は保たれているものの、自分自身に対する認識と記憶が欠落してしまうらしい。
聖様たちは、自分たちが美穂を天狗岩から天祥館に運んだのだと教えてくれたそうだ。そして、自分たちの世話をしてくれるのならこのまま天祥館に置いてあげてもいいと持ちかけた。結局美穂は聖様たちの申し出を受け入れ、天祥館で料理の支度を手伝ったり掃除をしたりして過ごしていたそうだ。まさに、小人の館で家事全般をすることを条件に匿われた白雪姫のストーリーそのものだ。そして稗田が現れ、今日、記憶を取り戻すための治療をしてくれることになっていたらしい。稗田はいずれ美穂が記憶を取り戻して騒ぎ出すことを恐れ、その前に処置をしてしまうつもりだったのだろう。
「魔女はここだ」
突然、背後から奇声が聞こえた。振り返ると廊下で聖様たちが騒ぎ出していた。何事かと部屋を出てみると、階段下に設けられた小さな扉の前に聖様たちがひしめき合っている。皆、手には鍬やら鋤を持って扉を激しく叩いている。
「魔女はここだ、魔女を捕まえろ」
「篠崎さん」
正一の声に篠崎は「はっ」と敬礼し、騒いでいる聖様たちを押しのけて扉の取っ手に手をかけた。力任せに何度か引っ張ると、錠が壊れる音と共に扉が開いた。物置のような薄暗い小部屋の中からは稗田の怯えた顔が覗いている。篠崎が腰から手錠を取りだし手際よく稗田の両手にかけると、聖様たちの歓声が廊下に響き渡った。
雪はますます大粒となって、全てのものを白一色に覆い隠していく。森の中の薄暗い小道を、毛布を巻きつけた美穂の肩を抱きながら歩いた。前方には正一と、篠崎に連行されならがよろよろと歩く稗田の後ろ姿。一歩一歩雪を踏みしめながら、ここ数日正一に色々と助けられたことを美穂に伝えた。
「正一さんは、私と大輔さんの命の恩人ね」
前を歩く正一の小柄な背中を見つめながら、美穂が呟いた。全く同感だった。
天狗岩では、既にエンジンをかけた状態でパイロットが待機していた。機体の照明が白い地面を青白く照らしている。大輔は迷っていた。ようやく救い出すことができた美穂とこのまま一緒にヘリに乗るべきか、それとも正一と共に尾呂血神社に向かうべきか。美穂と連絡が取れなくなって以来、その存在が自分にとってあらためてかけがえのないものであることを痛い程思い知らされた。今は一時も離れることなく寄り添っていたい。しかし一方で、正一のことが気がかりなことも事実だった。まだ正一の抱えている事件は解決していない。色々と助けてもらったにもかかわらず、このまま正一を置いていくことは忍びなかった。また、大輔自身、剣の行方を最後まで追いたいという興味もあった。
篠崎に続いてヘリに乗り込もうとしていた美穂が突然振り返った。
「大輔さん、私は一人で大丈夫だから。最後まで正一さんにつき合ってあげて。今、大輔さんを必要としているのは正一さんだと思う」
恐らく美穂は大輔の逡巡を察したのだろう。努めて元気そうな顔を見せながら微笑んだ。
結局、正一と二人、ヘリを見送ることにした。暗い空に遠ざかるヘリの照明を目で追いながら、大輔は正一と固い握手を交わした。
「大輔さん、残ってくれてありがとうございます」
そう言うと、正一は胸元から一枚の紙を取り出した。
「捜査令状です。これから尾呂血神社の本殿の中を捜索させてもらうつもりです」
大輔は思わずごくりと唾を飲み込んだ。千何百年にわたる気の遠くなるような時間、脈々と受け継がれてきた尾呂血神社のご神体がいよいよ明らかになる時が来たのだ。興奮気味に正一の瞳を覗き込んだが、意外にもその瞳は哀しげに陰っていた。
薄暗い本殿の中は甘く濃厚な香りで満ちていた。千数百年にわたり絶やすことのなかった沈香の香り。八津神様の好む伽羅の香りだ。ただ、今日の香りは幾分雑味を帯びているようだった。馥郁とした幽香の中に時折現れるとげとげしくも淀んだ香り。確かあの日も同じような雑味香が漂っていたことを巳八子は思い出した。
忘れもしない十七年前のあの日、二十歳になった巳八子は啓一と共に拝殿に正座をし、上座に座る秀全と相対していた。輝龍家に伝わるしきたりに従い、己の結婚相手を当主である秀全に認めてもらう為だった。隣に座る啓一は幾分緊張気味の様子で、色白の頬をほんのりと紅潮させている。巳八子はそんな啓一が愛おしくてたまらなかった。卑埜忌村では稀に見る洗練された瞳、きれいな歯並びがこぼれるはにかんだ微笑、さらさらと流れるような柔らかい髪、節々のしっかりした白く長い指、胸の奥にまで響くバリトンの声、啓一を構成する全ての要素が巳八子の心を激しく揺さぶる。この男の瞳が自分だけを見つめ、その唇が自分の為だけに動くことに至上の幸福を感じていた。神島に産み落とされた神の子として、自分がこの男と一緒になり輝龍家の後継ぎを儲けることになることは既にずっと前から決まっていたとさえ思えた。秀全もさぞかし喜んでくれることだろう。隣に座る啓一を誇らしく感じていた。
「ならん」
突然、秀全の不愉快そうな声が拝殿に響きわたる。同時に伽羅の香りが妙に鼻の奥にまとわりついてきたことを覚えている。
「お前に巳八子をやるわけにはいかん。帰れ」
「秀全様、どうしてですか。私は巳八子様を愛しています。巳八子様と一緒になり、巳八子様を引き立て、必ずや輝龍家の、そして卑埜忌村の更なる隆盛に貢献させていただくことをお約束いたします」
啓一は畳に手をつきながら、頬を紅潮させてすがるように訴えた。
「お父様、私からもお願いです。私は神島に産み落とされて以来、今までお父様に何不自由なく育てていただきました。とても感謝しております。これからは啓一さんと一緒になって、神の子として恥ずかしくないようお父様に、そして輝龍家に恩返しをさせていただくつもりです。どうか二人の結婚をお認め下さい」
巳八子も体を前に乗り出して懇願する。拝殿に沈黙が流れた。
「くっ、くっ、くっ」
突然、秀全の漏らした不気味な嗤い声が拝殿に響きわたった。それは聞く者の魂を唾棄するような不快な嗤い声だった。その声に驚いて二人は思わず顔を見上げた。醜く表情を歪ませて嘲嗤う老人の顔が眼前にあった。秀全は侮蔑の色を瞳に浮かべながら嗤い続けた。
「くっ、くっ、くっ」
耳の奥に絡みつく、生理的嫌悪感を誘う醜悪な声が響き続けた。
「な、何がおかしいのですか」
堪らなくなって啓一が叫ぶと秀全は耳障りな嗤い声を鎮め、代わりにこの上なく冷淡な視線を二人に注いだ。
「巳八子よ、お前は神の子などではない。あれは村の者の信仰心を惹起するために、わしが作ったただの絵空事じゃ」
秀全の顔が更に醜く歪んだ。
「お前の本当の出生の秘密を教えてやろうか」
巳八子はその瞬間、長年父の顔の裏に隠されていた本性を垣間見た気がした。同時に強い吐き気が胸の奥からこみ上げてくる。
「お前の本当の母親は葦原千代、お前の隣にいる男の母親だ。夫を亡くして困窮していた千代をわしが分社で囲ってやったのじゃ。あれは口の堅い、都合の良い女だった。わしとのことは誰にも漏らしていないはずだから、村の者は誰も知らないだろう。皆、無邪気にお前を神の子と信じておる。しかし、お前は神の子なんかではない。わしと不倫相手の女との間に出来たただの不義の子じゃ。お前まで自分を本当に神の子だと信じているとは笑止千万」
淀んだ伽羅の香りに眩暈を覚えた。秀全の声が遠のき、目の前が暗くなっていく。何かが自分の中で壊れていくのが分かった。自分を支えていた誇り、アイデンティティ、そのようなもの。
「嘘だ」
隣で叫ぶ啓一の声がはるか遠くから聞こえる気がした。
「嘘ではない。お前はまだ小さかったから覚えていないだろうが、わしが分社を訪れる日、千代はいつもお前を事前に隣の部屋に寝かしつけていたものじゃ。自分のあげる声を聞かせたくなかったのだろう。あれは声が大きかったからな。しかし声は抑えながらも、随分と腰は使っていたものじゃ、くっ、くっ、くっ」
「やめろ」
啓一が言葉にならない咆哮をあげながら秀全に掴みかかっていく。しかし秀全は年齢を思わせない俊敏さで啓一の突撃をかわすと、逆に啓一の体の上に馬乗りになり、恐ろしい力でその首を絞め始めた。
「わしに歯向かってくるとは身の程知らずめ。思い知らせてくれるわ」
啓一のこめかみに幾本もの血管が浮かび上がり、虚空を見つめるその瞳はみるみる充血していく。苦悶に歪んだ啓一の口から濁った唾液が溢れ始めた。このままでは私の大切な男が壊されてしまう。
気がつくと猛々しい伽羅の香りに包まれて薄暗い本殿の中にいた。奥の飾り棚に安置されている一振りの刀剣が目に入る。鮮やかな赤い漆塗りの鞘に描かれた螺鈿の龍が、妖しい光を放っていた。その緑碧色の瞳が試すような視線を巳八子に向けている。お前にその覚悟はあるのかと。愛する男を助けなければ。巳八子の頭の中にはそれしかなかった。巳八子が鞘を掴み柄に手をかけると、感電したかのような衝撃が全身を走る。体中の血管が激しく脈打つ。構わず柄を一気に引き抜くと、眩い白銀色に輝く鋭利な抜き身が現れた。その刀身が放つ光で薄暗い本殿の中が青白く照らし出されると、奥の暗闇から巳八子を凝視する八津神様の顔が浮かび上がった。一瞬すくんだように立ち尽くしたあと、巳八子は刀身に導かれるように拝殿に駆け戻った。眼前には啓一の上に覆いかぶさる秀全の逞しい背中があった。無我夢中で刀剣を振り上げ、その背中目がけて力一杯振り下ろした。刀身はまるで自らが意志を持っているかのように、巳八子の力を遥かに超える勢いで秀全の背骨を打ち砕いた。刀剣を持つ右腕に激しい衝撃が走る。同時に秀全の絶叫が拝殿に轟いた。秀全は獣のような唸り声を上げながら畳の上をのたうち回ると、高欄から中庭に転げ落ちた。白い上衣の背中の部分がみるみる濃紅に染まっていく。秀全はしばらく四つん這いの姿でもがいていたかと思うと、苦悶の表情で拝殿を振り返った。その瞳には今まで見せたことのない色が浮かんでいる。それは怯えだった。その怯えた瞳は巳八子の掲げる刀身に向けられている。刀身を持つ巳八子の右腕が何者かに導かれるようにゆっくりと天に向かって動く。
「や、やめてくれ」
今まで一度も聞いたことのないような、秀全の弱々しい声が境内に響く。刀身が天に向けられると、突然、空が割れるように轟き閃光が走った。そして弾けるような激しい稲妻が秀全の体を貫いた。眼前でさく裂したすさまじい光に目がくらみ、しばらくは何も見えなかった。やがて我に返ると、中庭には黒焦げとなった老人の亡骸が転がっていた。その光景は忘れたくても深く脳裏に焼き付き、その後幾度となく夢の中で再現されることになる。
秀全の遺体は啓一が二本松の下に埋めてくれた。ただ、秀全が雷に打たれて死んだということを公表するわけにはいかなかった。輝龍家の当主が八津神様の怒りに触れたと村人に思われては、輝龍家の威信に影響するからだ。結局、秀全は神隠しに遭ったということが村人の間では通説となっていく。
啓一が自分の異父兄妹だということが分かった今、気持ちを切り替える必要があった。啓一への思慕の念を断ち切るため、その年初潮を迎えた恵美子という少女と啓一との婚約を取り決めた。自分は誇りある輝龍の血を引く者として、輝龍家の当主と尾呂血神社の宮司職を全うすることに専念すると八津神様に誓った。幸い村人は自分を神の子として崇めてくれている。秀全亡き後も自分が卑埜忌村の精神的支柱となれるだろう。しかし啓一への想いはその後も種火のように心の奥底に燻り続けることになる。本来なら一緒になって愛し合えたはずの男と血がつながってしまっているという事実に、巳八子は狂おしい程に苦しんだ。啓一の匂い、温もり、肌触りが何度も脳裏に蘇る。そして啓一の腕が、唇が、他の女の体に触れているかと思うと、胸が張り裂ける思いだった。結局その種火は消えることなく、ある日ついに秘密の坑道の存在を啓一に教えてしまうことになる。啓一は結婚後も坑道を使って頻繁に巳八子に会いに来てくれた。お互い肌を接することは堅く律していたが、その反動で心は今まで以上に深くつながっていくのが分かった。宮司として村人の様々な悩みやもめ事を差配していく巳八子を、啓一は陰から献身的に支えてくれた。その啓一が逮捕されたということを先ほど知った。そして、いつぞやの皇宮警察官が再び訪ねてくるらしい。見かけによらずあの男は油断ならない。気を確かに持たなければ。自分は輝龍家の血を引く人間だ。巳八子は気持ちを鎮めるため、龍笛に手を伸ばした。
大輔と正一が薄暗い森の中を進むと、やがて前方に煌々とした灯りが見えてきた。そして濃密な伽羅の香りとともに龍笛の調べが流れてくる。すっかり雪に覆われた境内に足を踏み入れると、灯籠と雪洞の灯りによって幻想的に照らし出された社殿が浮かび上がる。正面の向拝に彫られた龍の瞳にはめ込まれた緑碧石が、妖しく輝きながら二人を見下ろしている。天井付近にかすかに霧の漂う拝殿の奥には、龍笛を一心に奏でる巳八子の姿があった。傍らに置かれた雪洞の揺れる灯りが巳八子の蒼白の顔に深い陰影を刻んでいる。
やがて笛の音がピタリと止んだ。巳八子の黒い瞳がゆっくりと二人に注がれる。凪の湖面のような静かな瞳だ。大輔と正一は軽く黙礼をして拝殿に上がり、巳八子と相対した。巳八子は今日も本殿の入り口を守るかのように御簾を背に座っている。そして巳八子の背後からは伽羅の香りが迫ってくる。前回訪れた時と比べて今日の香気にはどこか猛々しい雑味が感じられた。しばらく沈黙が流れた後、正一が口火を切った。
「火之木国風土記の写本に目を通すことができました」
正一の良く通る声が拝殿に響き渡る。正一は一切どもっていなかった。背筋をピンと伸ばし、まっすぐに正面を見据えている。巳八子の切れ長の瞳が一瞬、ギラリと光り正一を捉えた。
「八津神様とは古代の火之木国を統治していた輝龍家のご先祖様のことだったのですね」
巳八子はしばらく正一を睨んでいたかと思うと、ふっと息を吐きながら口元に軽い笑みを浮かべた。
「おっしゃるとおり、尾呂血神社は大和族の卑劣な仕業によって滅ぼされた輝龍家のご先祖様をお祀りしています」
正一は巳八子の言葉に頷くと、意外な言葉を発した。
「そして村人を縛り律する様々な風習は、火之木国の人々の血を純粋なまま受け継いでいくためのものなのですね」
巳八子の口元に貼りついていた笑みがかすかに歪む。
「どうしてそのようなことを?」
「卑埜忌村は昔から隣村とは交流を絶って自給自足をしてきました。村人は村内で一生を過ごすことを求められ、結婚相手は近親相関を防ぐために村人の中から血の遠い者同士を縁組みさせながら決めている。また、村を出たり村人以外の者と一緒になろうとする者を厳しく罰する村八分の仕組み。そして村人を縛る八津神様への強い信仰。全ては他村との交流を絶って卑埜忌村の人々の血を純粋なまま保ち続けようとするためとしか思えません。しかし、一体なぜ、そうまでして村の純血を守る必要があるのでしょうか」
巳八子はその切れ長の瞳を横に逸らし、しばらく境内に舞い落ちる雪を眺めていた。檜の高木から雪の塊りが落ちる音が静かに響く。やがてゆっくりとその視線を正一に戻した。
「あなたは今の大和の治世がこの先も永遠に続くと思いますか」
一瞬、巳八子が何を言っているのか分からなかった。
「力のある者、うまく立ち回った者、他人を顧みない者たちだけが果実を手にする今の世の中のことです。弱い者や心優しい者たちをないがしろにしながら、一部の者たちだけが光を享受するいびつな社会。このような不条理がいつまでも続くわけはありません。そして目先の利益のために自然環境を犠牲にし、化学物質にまみれたものを口にし、いつの間にか自分たちの生存すら脅かしていることに気づかない愚かな人々。暴走するネット空間を管理できると過信する浅はかな為政者たち。大和の傲慢な姿勢はあの時から同じです」
先程まで蒼白だった巳八子の頬が、かすかに紅潮し始める。
「三世紀に大和族が勃興してきた時、本来ならより高度な文化と精神性を持っていた火之木国が新興の大和を鎮め国土を統一し、自らが先頭に立って安らかな日本を築くべきだったのです。しかし当時の火之木国はその力があったにもかかわらず、自分たちの領国を広げて覇権を握ることを選択しませんでした。これは狭義の平和主義と言ってもいいでしょう。しかしこのような生ぬるい平和主義では野心のある横暴な国を抑えることはできませんでした。その結果火之木国は大和の増長を許し、大和の卑劣な仕打ちによって滅ぼされたのです。元々、この地は良質な檜が豊富に産出されることから火之木国と呼ばれていました。檜が古代より神を呼び出す火起こしに使われる尊い樹木として火之木と呼ばれていたからです。この誇り高き火之木という地名も、大和によって卑埜忌という賤しい表記に変えられてしまいました。そして火之木国の人々はまつろわぬ者として醜い怪物とされ、歴史の彼方に葬り去られたのです。それ以来我々は千数百年もの間、この地でひっそりと暮らしてきました。決して大和と交わらぬよう、火之木の血を守り通しながら。いつか大和の治世は終わりを迎えるはずです。天がいつまでも大和の愚行を許すわけがありません。疫病なのか大地震なのか天が大和を滅ぼすとき、大和の穢れた血を引いていない我々が今度こそ新しい安らかな国を作るのです。その日まで火之木の血を守り続ける必要があるのです。これが八津神様のお望みであり、お教えです」
巳八子は熱を帯びた瞳を見開き、一気にまくし立てた。しかしその内容は大輔には常軌を逸しているとしか思えなかった。隣の正一を見やったが、正一は無表情のまま巳八子を穏やかな瞳でただ見つめている。やがて正一が口を開いた。
「その日が来た時に火之木国の正統な末裔だという証を示す必要があるのですね。つまり、レガリアである剣を取り戻す必要があった」
巳八子の瞳が再びギラリと光った。相変わらず口元には強張った笑みを浮かべている。
「剣とは一体何のことでしょう」
巳八子はそう言うと、刺すような視線を正一に浴びせた。その時、正一の胸元で携帯が鳴った。正一は懐から携帯を取り出し、耳に当てしばらく頷いていたかと思うと、
「今からそちらに向かいます」
と言って携帯を切った。そして大輔に向かって囁いた。
「郷原さんからです。見つかったそうです」
大輔と正一は巳八子とのやり取りをいったん中断し、郷原のもとへ駆けつけることにした。二本松は鳥居から横道に入って十分ほど歩いた深い森の中にあった。二本の松の大木がお互いに絡みつくように繁茂し、広く水平に伸びた枝は大量に積もった雪の重みでたわんでいる。傍らにはスコップを持った郷原が、白い息を吐きながら降りしきる雪の中に佇んでいた。制帽の上に厚い雪を積もらせながらも、首筋からは大量の汗を流している。足元には掘り返された大量の土が黒い塊となって堆積していた。
郷原は二人に気づくと、掘り起こした地面を無言で指さした。一メートルほど掘られた地中には、まだ朽ち果てた衣服が部分的にからみついている白骨死体がうつ伏せの状態で横たわっていた。その大きさからかなりの背丈があった人物だということが容易に推測された。頭蓋骨にはまだわずかに頭髪が付着しており、不自然に反りかえった指先には黒ずんだ爪の破片が残っているのが見えた。そして、背骨から肋骨にかけて残る無残な刀傷。
「俺は刃傷沙汰で殺られたやくざの死体を随分と見てきたが、ここまで見事な切り口が骨に残っている刀筋を見たのは初めてだ」
郷原が感心したように呟いた。
「す、す、すぐに、け、け、県警の鑑識に来てもらいましょう。お、お、恐らく秀全の遺体に間違いないでしょう」
郷原が遺骸の上にビニールシートをかぶせた。雪が全てを覆い尽くしていく。音もなく降りしきる雪の中、三人は無言で合掌した。
尾呂血神社に戻る道すがら、再び正一の携帯が音をたてた。正一はしばらく携帯に頷いていたかと思うと、
「わかりました」
と呟いて通話を切った。そして大輔を振り返る。
「啓一の指紋がコップに残されていたものと一致しました。月影国光の鍛刀場に剣を持ち込んだのは、葦原啓一だったということです」
これで全てのピースがつながった。秀全が終戦のどさくさに紛れて奪い取った剣に、何らかの理由で修復の必要性が生じたのだろう。もしかしたら啓一が秀全を殺害するときに使って刃こぼれを起こしたのかもしれない。しかし、輝龍家当主しか入ることが許されていない本殿に安置されている剣に啓一がアクセスできていたとすると、やはり啓一と巳八子はただならぬ関係だったということなのだろうか。いずれにせよ、あとは本殿に立ち入って剣を確認するだけだ。
「大輔さん、僕は本殿に立ち入ることはやめようかと考えています」
正一が大輔の心の内の声に答えるように呟いた。
「えっ、どうして。せっかく令状も用意しているのに」
暗い森の中に佇む正一の顔を見つめた。
「火之木国風土記の写本を読んで以来、ずっと考えていました。剣は本来、誰のものなのかと。確かに僕は皇宮警察に属する者として、剣を取り戻すという責任ある任務を担っています。宮内庁に保存されていた昭和天皇実録書簡の中で、昭和二十年に起きた剣の水無神社への一時的移管の事実を偶然発見して以来、細い糸を手繰り寄せるようにようやくここまでやってきました。あとは尾呂血神社の本殿に立ち入って最後の確認をするだけです。恐らく、剣はそこにあるはずです。ただ、僕には火之木の人々から剣を奪い取ることはどうしてもできません。剣は本来、彼らのものだからです」
正一のまっすぐな瞳が大輔を捉えた。
「それから」
正一はそう言うとしばらく自分の心の中から次の言葉を探しだしているようだった。
「それから、恐らく本殿の中には剣の他に、彼らが千数百年にわたり大切に守ってきた何かがあるはずです。八津神様として祀られている何かが。僕のようなよそ者が彼らの神聖な領域に足を踏み入れ、それを覗き見ることはいくら令状があったとしても許されることではありません。先ほど、輝龍巳八子が語っていた話はどこかハルマゲドン信仰のようにカルト的でにわかには受け入れがたいものでしたが、だからといって彼らの大切にしてきたものを踏みにじるようなことはできません。僕は本殿に立ち入ることはやめるつもりです」
正一の言っていることは大輔にも理解ができた。ただ、皇宮警察の中での正一の立場はどうなるのだろうか。
「皇宮警察本部にはどう報告するつもりなの」
正一は自嘲的な笑みを口元に浮かべた。
「探していた剣は尾呂血神社にはなかったということにします。元々今回の捜査は僕の個人的な仮説に基づいて動いていたものです。僕が捜査終了と判断すればそれで捜査は終わります。誰も、陛下ですら熱田神宮に奉安されている剣の櫃を開けることができないのですから、これからも剣は櫃の中にあり続けるということです。誰も困りません。皆が櫃の中の剣の存在を信じていれば、剣は永遠にそこにあり続けることになるのです」
正一はそこで一呼吸置くと、吹っ切れたような表情を見せた。
「もし、このことによって責任を追及されるようなことになったら、その時は潔く職を辞します」
強い決意を浮かべたまっすぐな瞳が大輔に向けられた。
大輔と正一が中座した後も、巳八子は御簾の前に座ったままだった。虚ろな瞳で境内を舞う雪をただ眺めている。背後から忍び寄ってくる伽羅の香気は更に野蛮な趣を増していた。啓一のこと、秀全のこと、剣のこと、そして八津神様、様々な想いが猛々しい香気に煽られるように巳八子の胸中に激しくのしかかってくる。思考がうまく整理できなかった。
どのくらい、そうしていただろうか。突然、拝殿の隅で人影が動いていることに気づく。骨のような体に粗末な着物を纏った老婆が、ぱさぱさに乱れた髪の間から暗い瞳で巳八子をじっと見つめている。鈴ばあだった。巳八子は嫌悪感を帯びた視線を老婆に向けた。
「お前は村を裏切った者、何故お前がここに。舟もないのにどうやって。ここはお前のような穢れた者が来るところではない」
巳八子からの激しい罵声を受けても老婆は全く動じる様子を見せず、ただ黙って巳八子を見つめている。
「お前、まさか坑道を通って」
「わしの庵はススキ原にあるのでのう。昨夜の騒がしい捜索騒ぎで、坑道の存在を知ったのじゃ」
哀しさと慈しみの混濁した瞳が巳八子を正面から捉える。その瞳に見据えられ、何かが巳八子の心を激しく揺さぶった。それは胸を締めつけるような不思議な情動だった。巳八子は自分の動揺を振り払うかのように、思わず声を張り上げた。
「何の用があってここに」
老婆が静かに畳の上をにじり寄ってくる。気がつくと染みだらけの顔が目の前にあった。その瞳は拮抗する対極の感情をたたえながら巳八子を見つめている。諦観と執念、慈悲と憎悪、そして逡巡と覚悟。巳八子は老婆の瞳に耐えられなくなり、思わず視線を畳に逸らした。
「巳八子様、いや、巳八子よ」
しゃがれた声が耳元で響く。
「この歳になると昔をよく思い出す。四十年ほど前、愛する男を追って村を飛び出し、今では考えられぬ幸せな日々を送っていたことを。しかし、秀全の執拗な追及によってその短い日々は儚くも失われた。愛した男は去り、わしは村に戻った。そして八津神様の教えを破った咎を受け黒い手紙を受ける日々。以来、女を捨て畜生と同等の生活を送ってきた。しかし、今となってはそんなことはもうどうでもよい。わしも長くはないようじゃ。ただ、死ぬ前にどうしてもお前に伝えておきたいことがあるでのう」
老婆はそこで言葉を切ると、枯れ枝のような腕を巳八子の肩に伸ばしてきた。身をよじって避けようとしたが、何故か体が言うことを聞かない。皺だらけの骨ばった指が肩に触れた瞬間、巳八子の体がビクンと反応する。嫌悪感とは異なる妙な感情が湧き上がる。
「巳八子よ、こっちを見なさい」
老婆の声には有無を言わせない迫力があった。巳八子が思わず視線を老婆に戻すと、包み込むような瞳が巳八子を捉えた。何かが胸の奥深くで熱く共鳴しはじめていた。
「お前はわしの子じゃ。わしと内村健二との間に出来た子じゃ」
「な、何を馬鹿なことを」
全身の血が一気に心臓に逆流し、胸が激しく脈打つ。口が渇き、言葉が続かない。
「まあ、聞け」
老婆はえぐるような視線で巳八子を捉えたまま静かに語りだした。
「これも全てお前のせいだ。お前は疫病神以外の何ものでもない」
どこの学校からも採用の声がかからなくなって自暴自棄になっていた内村健二の容赦ない罵声が狭いアパートの室内に響く。かつてあれほど恋焦がれた男の端正な顔は、醜く歪んでいた。それが男との最後の会話だった。
相馬谷鈴が一人村に戻ると、誰も寄ってくる者はいなかった。やがて一通、二通と黒い手紙が届き始める。山での仕事を生き甲斐としてきた父は木こり組合を除名され、腑抜けのような状態で床に伏している。そんな中、幼馴染の千代だけは変わらずに接してくれた。ただ、千代も悩みを抱えていた。夫を事故で亡くした後、秀全に手籠めにされ、その結果秀全の子を身籠っていたのだ。村では婚外交渉は決して許されないことであり、夫以外の子を産むことなど考えられなかった。相手が輝龍家当主の秀全だと訴えたところで誰が信じてくれよう。神島にいるはずの秀全が夜、自分の寝室に頻繁に現れるなど、ただの寝言として聞き流されるだけだろう。千代ですら何故秀全が舟も使わずに現れることができるのか、見当もつかなかった。結局はどこかの素性の知れない男との情事の末に妊娠した不埒な後家として村人から排斥されることになるのは明らかだった。
鈴は千代から秀全の子を宿したらしいと打ち明けられた数日後、自分の体にも異変を感じた。微熱が続き頻繁に吐き気を催す。やがて典型的なつわり症状が現れ始める。妊娠しているのは明らかだった。相手は内村健二しか考えられない。自分を捨てた男の子を産むべきか、村八分の自分が育てることはできるのだろうか。鈴は悩み続けたが、答えが出ぬうちに臨月を迎えることになる。そしてある月のない晩、ついに産気を催す。一人でお産を迎えるのが不安で、朦朧とした意識の中よろよろと分社の社務所に千代を訪ねた。明かりの消えた部屋に入ると隅の暗がりでは千代が静かに寝ていた。傍らには洗面器が置かれ、産み落とされたばかりの赤子がタオルにくるまれている。千代も一足早く一人でお産を迎えたのだろう。ただ、その赤子は不自然なほど静かだった。よく見ると息をしていない。死産だったのだろう。哀れなことよ。千代に声をかけようと布団に手をかけたが、そこにも温もりはなかった。千代も息をしていなかった。空になった睡眠薬の小瓶が枕元に散乱しているのが目に入る。千代は全ての苦悩から解放されたように、安らかな顔をしていた。
突然、今まで経験したことのない激しい感情が鈴の体の奥底から湧き上がってくる。触れると火傷をしそうなほど熱く、それでいて鉛のようにどろどろとした陰鬱な感情。その感情の正体は怒りだった。秀全に対する激しい怒りだ。自分の愛する男を奪い、自分を村八分に陥れ、自分の唯一の友である千代を蹂躙した男。怒りの感情は炎のように鈴の全身を貫いた。同時に激しい陣痛が襲ってくる。燃えるような怒りに苛まされる中、暗い室内で鈴は女の子を産み落とした。下腹部の痛みが急速に引いていくとともに、赤子の不安げな泣き声が室内に弱々しく響く。鈴は我が子の顔を見つめながら、ふいにある計画を思い立つ。そうだ、秀全に、輝龍家に、そして村に復讐をしてやろう。
鈴は泣き続ける赤子を二体の遺体が横たわる暗い室内に残したまま、月のない夜道を桟橋目指して歩いた。桟橋脇の小屋に寝ていた重男を起こす。重男は何かと世話をしてくれた鈴によく懐いていた。重男は鈴の頼み事に静かに耳を傾け、やがてコクリと頷いた。重男を連れて再び夜道を分社に戻る。重男は十三歳になっており、その身長は既に六尺を超えていた。重男は冷たくなった千代の体を軽々と抱えると、無言で来た道を戻っていく。鈴は洗面器の中の冷たい赤子からタオルをはぎ取ると、自分の産み落とした赤子を包み込んだ。そして自分の子を左腕に、千代の子を右腕に抱え、重男の後を追った。漆黒の闇があたりを包み込む中、鈴は一匹の鬼と化していた。桟橋に着くと、既に千代の体は舟の上に移されていた。重男は鈴から二体の赤子を受け取り、そっと千代の隣に寝かせた。一人は息をしておりもう一人は息をしていない。そして桟橋で亡霊のように佇む鈴を顧みることもなく、真っ暗な湖の上を神島に向かって静かに漕ぎ出ていく。重男は鈴に言われたことを忠実に実行した。まずは沖合で千代の産み落とした赤子の亡骸を湖に沈めた。それから神島に上陸し鳥居の下に千代の遺体を横たえ、その傍らにタオルにくるまれた鈴の赤子を置いたのだった。赤子はよく眠っていた。
秀全は翌朝赤子を発見し、どうするだろうか。一か八かの賭けだった。千代の死体の隣に新生児を発見すれば、当然、千代が産み落とした子だと思うはずだ。千代が秀全の子を産み、重男に舟を出させて神島に渡ってきたと。そして自分は絶望の末に命を絶ち、我が子を秀全に委ねたと。重男は何を聞かれても一言も口を開かないはずだ。秀全が一人息子の秀胤を忌み嫌っていることは知っていた。自分の後継者にはふさわしくないと。そんな中、不義の子とはいえ自分の血、輝龍家の血が流れている子が目の前に現れたならば、輝龍家の跡取り候補として引き取るのではないだろうか。当然、不義の子として公表するわけにはいかない。ただ、清子が既に子を産める歳でないことは村人皆が知っている。秀全がその子の出現をどう公表するかまでは想像できなかった。
案の定、秀全は鈴の産み落とした赤子を自分と千代との間に出来た子だと信じて引き取った。ただ、それに関して何も公表はなかった。秀全はその子を巳八子と名付け、幼少時から徹底的な帝王教育を施した。その子は秀全の期待に応え乾いた布が水を吸い込むように、代々輝龍家に伝わる教え、心構え、立ち居振る舞い方の全てを吸収していく。そしていつの間にか神島に産み落とされた神の子として村人から崇められていった。
鈴は愉快だった。自分と愛する男との将来を奪った秀全が、自分とその男との間に出来た子を己の子と信じて育てていることを。自分を犬畜生のように扱う村人たちが自分の産んだ子を神の子として崇めていることを。やがて秀全が神隠しに遭い巳八子が輝龍家の当主となると、鈴の満足感は最高潮に達した。自分の腹を痛めた子がついに輝龍家当主として卑埜忌村に君臨したのだ。
しかし、鈴の満足感は長くは続かなかった。巳八子は当主となると、想定していた以上の役割を演じた。卑埜忌村の伝統を忠実に踏襲し、より盤石なものへと強化していったのだ。巳八子はまさに輝龍家、そして卑埜忌村の価値観、風習、しきたりの全てを自らが率先する存在となっていた。つまり外の男を愛して村を飛び出した女を決して許さず生涯にわたって見せしめのように放逐する村人たちのよすがとなっていたのである。鈴は次第に我が娘こそが自分をこのような境遇に追いやった張本人であるとさえ思うようになっていく。巳八子のもとを訪れて言ってやりたかった。お前は高貴な輝龍家の当主のつもりでいるが、実際は穢れた鈴ばあの一人娘なのだと。しかし一方で、血を分けた娘の幸福を願うもう一人の自分がいた。何も知らないまま輝龍家の当主として生きていって欲しいと願った。この両極の感情が何年も鈴の胸中を振り子のように行き来していたのだった。しかし昨夜神島につながる坑道の存在を知った時、もはや自分を制することはできなかった。娘に会ってどのような感情をぶつけたいのか自分でも分らぬまま、夢中で暗い坑道を進んだ。
鈴は全てを語り終えると、ようやく自分の求めていたことが分かった。巳八子に、我が娘に母さんと呼んでほしかった、愛していると言ってほしかったのだ。
巳八子は目を逸らすこともできず、引き込まれるように鈴の話に聞き入っていた。頭ではそんなことはありえないと否定しながらも、老婆の注ぐ眼差しに、胸の奥にまで届くその声に、自分の体を流れる血が共鳴していることは明らかだった。今までに経験したことのない不思議な感情が奔流のように押し寄せてくる。温かく懐かしい匂いが鼻の奥をついた。目頭が熱を帯びてくる。
「巳八子よ、母さんと呼んでおくれ」
かさかさとした手が巳八子の手に触れた。老婆の温もりが、小刻みに打つ脈拍と共に伝わってくるのが分かった。その温もりは巳八子の血流に溶け込み全身を駆け巡る。老婆の求めるその言葉が喉まで出かかった。
その時、啓一の端正な顔が頭に浮かんだ。一緒にはなれなかったが、片時も忘れたことのない大切な男。異父兄妹だと信じて無理やり抑えつけてきた激しい情火。身を切り刻むような思いで恵美子と縁組みさせたときの苦悩。しかし、自分に千代の血が流れていないのなら啓一と一緒になれていたはずだ。秀全も反対はしなかっただろう。そして夢にまで描いていた二人の生活は現実のものとなっていたはずだ。何という錯誤、何というすれ違い。しかし今となっては全てが手遅れだった。絶望の黒い波が巳八子の全身を駆け巡る。
気がつくと、破滅的な臭みを帯びた伽羅の香りが周囲に充満していた。何かが堰を切った。処理しきれない量の感情が溢れ出て、巳八子の精神を圧倒する。フィルターをかけられたように視界の解像度が劣化していく。肉体が自分のものではないような違和感に襲われる。巳八子は老婆の手を振りほどくと、ふらふらと立ち上がった。足元で老婆が何かを叫んでいたが、もう何も耳に届かなかった。気がつくと、むせかえるような伽羅の香りに包まれて薄暗い本殿の中に佇んでいた。獰猛ともいえる荒々しい香気。八津神様、私は…
大輔と正一が尾呂血神社に戻ると、高欄にもたれかかる老婆の姿が目に入った。老婆は魂を抜かれたように力なく全身を欄干の柱に預けたまま、微動だにしない。
「鈴ばあ、何故あなたがここに」
駆け寄った大輔が声をかけるが返事はない。その顔を覗き込むと、虚ろな表情の老婆と目が合った。しかし、その瞳は既に何も映しだしていなかった。
拝殿上に巳八子の姿はなかった。奥の御簾がめくられ、その向こうの木戸が僅かに開いているのが見える。本殿に続く扉だ。巳八子は本殿にいるのだろうか。大輔は正一と一瞬目を合わすと、拝殿に上がり御簾をくぐった。眼前には本殿に続く扉。僅かに開いた隙間からは弱々しい光が漏れ、濃密な伽羅の香りが流れてくる。
「巳八子さん、中にいるのですか」
大輔が声をかけたが返事はない。大輔は再び正一を見やった。正一はしばらく大輔を見つめていたが、やがて決心したように首を縦に振った。大輔は木の取っ手をそっと押してみた。扉は音もなく奥へと開く。同時に扉の向こうからむせかえるような香気が勢いよく流れ出てくる。薄暗い室内に一歩踏み出すと、息苦しいほどの伽羅の香りに包まれた。狭い部屋の中央には猫足型の脚部を持つ巨大な石の香炉が置かれ、白い灰の中で黒い香木の塊が燻されており、部屋中にその香りを充満させている。薄闇に目が慣れるまでしばらく時間が必要だった。やがて右の壁際に設置された檜の台座が視界に現れる。その上には擦り切れた一冊の古文書が置かれている。麻ひもで綴じられた表紙に踊る墨文字。顔を近づけよく見ると、いくつかの文字は大輔にも判読することができた。火、国。
「火之木国風土記の原本ではないでしょうか」
隣で正一が興奮気味に囁いた。
次第に目が慣れてくる。不意に正面奥の暗がりから強烈な気を発している何者かの存在に気づいた。全身に圧力を感じるほどのすさまじいオーラが押し寄せてくる。そちらに顔を向けてみた途端、恐ろしい形相が目に飛び込んできた。何者かが憤怒の表情でこちらを睨みつけているのだ。声にならない悲鳴を上げ思わず後ずさりをした。身構えながら再びそちらを見やると、何とも異様な光景が飛び込んできた。古代戦士の鉄兜をかぶった八つの生首がこちらを睨んでいるのだ。そしてどの顔も目を見開き、歯を剥き、表情を歪めながら激しい感情をほとばしらせている。憤怒、苦悶、怨恨、無念、慟哭。こちらの胸の奥を一気に貫くような激情が襲ってくる。八つの生首はそれぞれ檜の神棚に安置されていた。表面の皮膚はカサカサに乾いて黒檀色に沈んでいる。甲冑などに付属している面頬などではない。それはミイラ化した実際の人間の皮膚そのものであった。特筆すべきは、眼球までもが眼窩の中にしっかり残っていることだった。そして黒く血走り全体に灰汁色に変色した眼球は、己の命が途絶える最期の瞬間に刻み付けた激しい感情をそのまま封じ込めた状態でミイラ化していた。千数百年にわたって絶えることのなかった情念が容赦なく大輔たちに襲いかかる。
「八津神様」
正一が呟く声が聞こえた。これが尾呂血神社のご神体だった。須佐之男の奸計によって無残な最期を遂げた輝龍家の八人。その時の無念さ、悔しさを後世にまで刻み込むため、巳八比売が八人の生首を回収して安置したのだろう。
「驚いたな、三世紀の遺体がよくこの状態で残っていたものだ」
「恐らく本殿の中では絶え間なく香木が焚かれ続けていたのでしょう。食品を保存するときに使う燻煙と同じ効果があったのではないでしょうか。漂う香気が人体のタンパク質と結合することで強い皮膜を作って雑菌の侵入を防ぎ、乾燥が進むことにより水分量が減り、微生物の繁殖による腐食を防ぐ効果があったと推測されます。香木を絶やさずに焚き続けることは歴代の尾呂血神社宮司に課せられた大切な責務の一つだったのでしょう。」
大輔は八つの生首を再度一瞥すると、手を合わせ深く頭を下げた。顔を上げると、八つの神棚の手前に飾り棚のようなものが置かれていることに気づく。台座からは二本の支えが上に伸びている。それは剣を飾る刀剣台だった。しかしその上には何も飾られていない。
「正一君、巳八子が刀剣を持ち出したのではないだろうか」
「大輔さん、後を追いましょう」
二人は踵を返すと拝殿を全力で駆け抜けた。高欄を飛び越え、深く雪が積もった境内に勢いよく飛び降りる。純白の雪の上には郷原の真新しい足跡が桟橋方面に向かって続いていた。
「大輔さん、桟橋です。急ぎましょう」
正一は降りしきる雪の中を全速力で走り出した。大輔もその後を追う。雪面を照らす灯篭のほのかな灯りだけが頼りなく行く手を照らしている。頬を切るような強い風が雪を舞い上がらせている。正面から目に飛び込んでくる雪粒を手で拭いながら構わず走った。時折、上空でゴロゴロと雷の音が鳴り響く。鳥居をくぐり、桟橋に向かう参道を一気に駆け下りる。
やがて前方に桟橋の灯りが見えてきた。桟橋からはまさに一艘の舟が漕ぎ出されていくところだった。横殴りの大粒の雪が舞う中、舟尾に立ち櫂を操る重男の姿があった。その向こうには巳八子の緋色の羽織が見え隠れしている。強い風が湖面を荒々しく揺らしている。舟は風を受け、大きく左右に揺れながら湖面を進んでいく。桟橋の手前では郷原が片膝をついて舟に向かって拳銃を構えていた。
「やめろ」
正一が叫ぶのと拳銃が火を吹くのとは同時だった。下腹に響くような重たい発射音が湖面に響き渡った。重男の体が大きくぐらつく。弾は重男の右肩に命中したようだ。重男は一瞬、膝をついたが再び立ち上がると、今度は左腕一本で櫂を漕ぎはじめた。巳八子は舟の中央に座り不動のまま前方を見つめている。再び空全体がゴロゴロと轟く。荒れる湖面を舟は沖に向かってゆらゆらと進んでいく。郷原は膝をついたまま、次の一発の狙いを定め直していた。郷原の指が再び引き金にかかった時、ようやく追いついた正一が後ろから飛びかかった。二人はもつれながら勢いよく雪の上を転がった。
大輔は今でもその時に見た光景を忘れることができない。激しく降る雪、身を切るような風、轟く雷雲、荒れる湖面、沖合で木の葉のように揺れる舟。やがて巳八子が振り返り舟尾に向けて右手を制すると、重男が櫂を漕ぐ手を止めた。それから巳八子はおもむろに立ち上がった。強い風が巳八子の羽織を激しくはためかせる。その左手には鮮やかな朱色の鞘に納められた刀剣が握られていた。一瞬、巳八子の切れ長の瞳が桟橋に向けられる。口元がかすかに動くのが分かったが、風にかき消されて何を言っているのかは聞こえない。恐らく、大輔たちにではなくその背後の尾呂血神社に向けたものだったのだろう。たたきつける雪風の中、長い黒髪が狂った生き物のように激しくうねっている。重男は舟尾でひざまずいたまま巳八子を崇めるように見上げている。やがて巳八子はその視線を空に向けた。そして右手を柄にかけると一気に刀を抜いた。電光を帯びたように妖しく輝く青白い刀身が現れる。反りのない直刀。巳八子の体も帯電したように暗い湖上でうっすらと輝きはじめる。再び空が激しく轟く。巳八子はゆっくりと剣を持つ右腕を上げていく。そして空に向かって伸ばしていく。ついに刀身がまっすぐに天を指した。空を見上げる巳八子の瞳が大きく見開かれる。一瞬、風が止み周囲の音が全て消滅する。母さん、と巳八子の口が動いた気がしたが空耳だったのかもしれない。やがてすさまじい轟音と共に銀色に輝く龍がうねりながら空から降りてきた。いや、龍に見えたのは信じられないほどの大きさの稲妻だった。空を二つに割るようにして巨大な稲妻が湖面に向かって飛翔する。稲妻は引き寄せられるように巳八子の掲げる刀身へと向かう。そして刀身が、巳八子が、目もくらむような閃光を発した。あまりの光の強さに思わず大輔は瞳を閉じた。大地を割るような轟音が周囲に鳴り響き、激しく振動する空気が鼓膜を揺らす。再び目を開けた時、既に湖上に舟の姿はなかった。
程なくして、県警ヘリが神島に戻ってきた。
翌朝早く、正一は東京へ戻っていった。出がけに玄関で少し言葉を交わした。
「この度のことではお世話になりました。ありがとうございます」
正一は清々しい表情を見せていた。
「一緒に鳥取市まで県警の車に乗っていくことも可能ですが」
「ありがとう。ただ、僕は帰る前に会っておきたい人がいるので、遠慮しておくよ。それより、これからもたまには会わないか」
きっとこの先、自分は何度もこの十日間余りの不思議な出来事を振り返ることになるだろう。しかし、決して他人に話すことはないと思う。いや、話すべきではない。正一はこの怪異ともいえる体験を共有した唯一の朋友だ。是非今度は酒でも飲みながらゆっくり語り合いたいと思った。
「もちろんです。こちらこそ、お願いします」
正一の善良そうな笑顔が眩しかった。
「ところで正一君、湖底の探索は行わないのかい」
正一は笑みを浮かべたまま大輔を見つめた。
「卑埜忌村の人々が千数百年にわたり亡くなった村人を葬送してきた神聖な湖です。そこに潜るわけにはいかないでしょう。もし潜ったとしても尾呂血湖の水深はかなり深いですので、大変な作業になるはずです。また、湖底にはかなりの藻が繁殖しているようですので、恐らく見つけることは不可能でしょう。それに、刀剣が湖底に沈んだとは限りません」
「えっ、どういうこと」
「もしかすると、輝く龍が天に持ち帰ったのかもしれません」
正一は悪戯っぽい瞳を大輔に向けると、颯爽と玄関を出ていった。
大輔が一人で朝食を済ませ、部屋で出発の荷造りをしていると、襖の隙間から覗く小さな瞳と目が合った。
「静香、そんなところから覗いていないでこっちに来たらどうだい」
手招きをすると、神妙な顔をした静香が部屋に入ってきた。手には藁半紙を持っている。大輔の眼前に座ると、サコッシュにぶら下がったNiziUのキーホルダーが大きく揺れた。静香は軽く息を整えると、おもむろにその藁半紙を大輔の前に差し出した。
「明日、これを学校に提出するつもり」
それは先日見せてもらった宿題のプリントだった。あなたが将来なりたいお仕事をつぎのなかから選びなさい。その下に列挙された選択肢には、どれにも丸はついていなかった。その代わり、選択肢欄の下の余白に静香の丸っこい手書き文字が並んでいた。
NiziUのようなアーティストになりたい。
幼い筆跡だったが、その筆致は力強かった。静香なりに悩んだ末の決断だったのだろう。藁半紙から顔を上げると、大輔を一生懸命に見つめる静香の瞳があった。それは、少女のものとは思えない強い意志をたたえた瞳だった。
「きっと大丈夫だ」
大輔がそう言って微笑むと、静香は強く唇をかみしめて頷いた。
「静香、この前、東京には何でもあっていいなあって言っただろ」
まっすぐ大輔を見つめたままコクリと頷くと、おさげ髪が揺れた。
「確かに東京には色々なものがある。でもね、卑埜忌村には東京にはない、卑埜忌村にしかない素晴らしいものがたくさんあるんだよ。静香、いつか君がこの村を出る時が来るまで、是非、卑埜忌村の素晴らしいところを一つ一つ堪能し、心に焼きつけておくんだ。それはきっと君が将来何かの困難に直面した時に、その壁を乗り越える力になってくれるはずだ。だってここは君の生まれ故郷なのだから」
静香は神妙な顔で大輔を見上げていたかと思うと、再びコクリと頷いた。それから眩しい程の素敵な笑顔を見せてくれた。満開のひまわりが弾けた。
その時、階下から女将の呼び声が聞こえた。
「舘畑さん、あんたに電話じゃ」
二階の廊下の受話器をとると、雑音の中から弾けるような美穂の声が聞こえてきた。県警病院からだった。検査の結果、全て異常なしとのことだった。
「ということは、お腹の子も?」
思わず、聞いてしまった。一瞬、美穂が息を呑む気配が伝わってくる。
「どうしてそれを?」
「恵美子さんに聞いたんだ。お腹の子も無事なのか?」
「…はい、無事でした」
緊張したような美穂の声が流れてくる。
「美穂、産んでくれるか?」
「産んでもいいの?」
「もちろんだ。僕たち子だ。一緒に育てよう」
それ以上美穂は声を発しなかった。代わりに受話器からは雑音と共に温かい息づかいだけがいつまでも流れてきた。
昼前に一階に下り、九泊分の宿代を現金で払った。驚くほどの安さだった。女将は相変わらず憮然とした表情のまま、大輔とはほとんど視線を合わそうとはしない。
大輔が礼を言って玄関の引き戸に手をかけた時、背後から女将の声が響いた。
「あんた、ちょっと待ちんさい」
振り向くと、そこには大輔に向けられた女将の強い瞳があった。何か怒っているのだろうか、険しい顔をしている。そして手には茶色い紙袋を抱えている。
「山根さんとこの娘、たしか美穂と言ったな。あの娘、竜二にたいそう良くしてくれたそうじゃのう。これはあの娘に渡してほしい」
女将はそう言うと、持っていた紙袋を乱暴に大輔に押しつけた。
「前に静香に使ったものじゃが、きれいに洗ってある」
そう言うと、女将は大輔の返事を待たずにそそくさと奥へ消えてしまった。
その場に一人立ち尽くしながら、大輔はそっと紙袋を覗いてみた。何やらふかふかした白い木綿の生地が見える。取り出して広げてみると、それは何と赤ちゃん用のおくるみだった。丁寧な縫い跡から、明らかに女将の手作りだということが分かる。一部ほつれた部分も丁寧に補強してあった。思わず、大輔の口元が緩んだ。
玄関を出ると、いきなり眩しい光に包まれた。青く晴れ渡った空から降り注ぐ陽光が地面に残る雪を白く輝かせている。湖には珍しく霧がなく、藍色に広がる湖面全体がきらきらと光を反射させている。沖合には神島がくっきりと浮かんでいるのが見えた。鬱蒼と茂る樹木の間からかすかに覗く茅葺屋根。あれは尾呂血神社だろう。
しばらく歩くと、桟橋の辺りから男たちの賑やかな声が聞こえてきた。村の大工たちだった。威勢の良い掛け声を上げながら、山から運んできた大木に鋸を入れたり鉋を当てたりしている。新しい渡し舟を造っているのだろう。
分社の境内に足を踏み入れると、雪かきをしている秀栄の姿があった。額から流れる汗も気にせず、黙々とスコップを動かしている。
「やあ、また会いましたな」
横の社務所から現れた秀胤が声をかけてきた。大輔がペコリと頭を下げると、屈託のない笑みが返ってきた。
「この度、尾呂血神社の第八十五代宮司を拝命することとなりました」
「そうですか、ご就任おめでとうございます。秀胤さんならきっと立派な宮司になることでしょう」
秀胤は口元に笑みを残したまま、柔らかい視線を大輔に向けた。
「立派な宮司になれるかどうかは分かりませんが、私なりに出来ることをするつもりです。卑埜忌村には残すべき大切な伝統や風習も数多くありますが、一方でこの機に変えた方が良いこともあると考えています。二十一世紀のこの時代、いつまでも村を閉じておくことはできません。もう少し外の世界との交流を深め、何が村人たちにとって本当の幸せなのかを模索していくつもりです。きっとそれがこれからの卑埜忌村の為にもなるはずです。それから、」
秀胤はそこで言葉を切った。しばらく二人の間に沈黙が流れる。
「それから?」
大輔が先を促す。
「それから、黒い手紙のような風習は断ち切るつもりです。あれは誰も幸せにしませんから」
深い湖のような淀みのない瞳が大輔を捉えた。
「秀胤さん、前から聞こうと思っていたのですが、生前の山根巌さんに食事を届けていたのは秀胤さんだったのではないですか」
幾分、含羞の表情を浮かべながら秀胤は白い歯を見せた。
「舘畑さんには、ばれていましたか」
秀胤はそう言うと、湖の彼方へと視線を移した。
「巌さんは娘思いの良い父親でしたなあ。生前、私には色々とその胸の内を吐露してくれました。美穂さんの大学進学を許してやらなかったことをずっと後悔していたようです。だから美穂さんが村を飛び出したことによって自分に黒い手紙が届くようになったことは自業自得だと言っていました。ただ、こんな思いをするのは自分一人で沢山だと。美穂さんが村に帰ってくると自分と同じ目に遭うことが分かっていたので、敢えて心を鬼にして村から遠ざけるような厳しい手紙を送ったそうです。本人は、美穂さんが東京で活躍することを誰よりも応援していたようです」
「その話は美穂には?」
「もちろん、伝えました。葬儀の夜、皆が帰った後に。美穂さんはあふれる涙を拭いながら、最後には微笑んでくれました」
大きな目を赤くはらした美穂の顔が頭に浮かんだ。父親との対面は叶わなかったが、せめて父の本当の想いを最後に知ることができてよかった。美穂を長年苦しめていた懊悩が少しは軽減されたことを願わずにはいられなかった。
「秀胤さん、実は今日はお願いがあって参りました」
秀胤が柔らかな瞳で大輔を見やった。
「神島に山根巌さんの御霊碑を作ってやってもらえないでしょうか」
きっと秀胤が宮司を務める新しい時代の卑埜忌村だったら、巌氏もそんなに居心地が悪くないのではないか。
「もちろんです。お約束しましょう」
「うわぁっ」
その時、拝殿の方から悲鳴が聞こえた。二人がそちらを見やると、屋根から落ちてきた雪の塊のなかでもがいている秀栄の姿があった。
「あんな息子ですが、私が宮司になると知り俄然張り切りだしましてなあ。将来、自分が宮司を継ぐという自覚が少しは芽生えてきたのでしょう。まだまだ教え込まなくてはならないことはたくさんありますが」
秀胤は温かな視線を我が息子に向けながら照れ臭そうに呟いた。
「舘畑さん、是非また卑埜忌村に立ち寄ってください」
「ありがとうございます」
いつかまた、美穂と卑埜忌村を訪れてみたいと思った。その時は俺たちの子供も一緒だ。三人で巌氏の御霊碑に報告をしよう。俺たちが家族になったことを。それに、美穂だって親友の恵美子さんにも会いたいだろうし。
最終章 親友
こんなに朝寝坊をしたのは何年ぶりのことだろうか。いつもは、時間に几帳面な啓一に合わせて目覚まし時計にたたき起こされ、慌ただしく朝食の準備に追われている頃だ。その啓一も今はもういない。昨日の午後、制服を着た警官に連れられて玄関を出ていった啓一の姿が脳裏をよぎる。最後まで恵美子とは目を合わせずに俯きながら去っていく痩せた背中。もう二度と会うことはないだろう。恵美子は誰もいない寝室で大きく伸びをした。
寝巻の上にセーターを羽織ると、台所で薬缶を火にかけた。お湯が沸く間、ポーチからタバコを一本取り出す。啓一が嫌がるので普段は滅多に吸わないタバコ。火をつけ深くニコチンを肺に吸い込みながら美穂のことを考えた。私の幼い時からの親友。でも、親友って一体何だろう。
中学、高校といつも一緒だった。美穂と二人、美形女子としてクラスの男子からちやほやされていた頃が懐かしい。ただ、勉強は美穂に全くかなわなかった。いつも美穂に対して入り組んだ感情を抱えていたことを思い出す。憧憬、親愛、羨望、そして嫉妬。
美穂が村を飛び出して東京へ向かったと聞いたとき、大都会で一人心細く生きていくその身を案じるとともに、自分にはとてもできないことを断行したその勇気と行動力が眩しかった。その後ぽつりぽつりと美穂から届く近況報告の手紙で、なかなか希望する職に就けずに爪に火を点す生活を強いられていることを知り、気の毒に思うとともにどこかに安心している自分がいた。ずっとそのまま思い通りにいかないでもがき続けていて欲しい、と願う心の奥の声に気づかないふりをした。村に残った自分の方が幸せなのだと自分に念を押したかった。やがて美穂から、念願の出版社のライターの仕事に就いたとの手紙を受け取る。著名人や芸能人とも接点がある華やかなキャリア。生き生きと充実した都会生活が伝わってくる文面に、美穂を祝福するとともに何故か得体の知れない焦燥感に苛まされた。そして大輔という才能ある男との新生活の報告。美穂の踊るような文面を読みながら、煮えたぎったコールタールのような羨望が全身の血管を巡った。自分には何も無い気がした。山陰の田舎で何のとりえもない平凡な主婦として、このまま単調な日々をただ過ごしていく間にどんどん歳をとっていく。かつては男たちの視線を浴びていたのに、誰からも注目されなくなってから久しい。最近では啓一との会話もほとんどなく、陰に女の気配さえ感じる。誰も自分を見てくれない。日常の全てが急速に色褪せていった。
十三年ぶりに村に姿を現した美穂と再会した時、その都会的に垢抜けた風貌に圧倒された。雑誌モデルのような金髪、高校時代と変わらないスリムな体形、そして刺激的な毎日によって更に光を増した瞳。美穂の目には、ぶよぶよと田舎のおばさん化してしまった自分の姿はどう映っているのだろうか。自分に向けられた美穂の視線の中に勝ち誇ったような優越感の片鱗を探してしまうのは、単なる自分の卑屈な思い込みからだろうか。それでも美穂の昔と変わらない態度や話しぶりに接するうちに、美穂に対する親愛の気持ちが蘇ってくる。父親を亡くし、その死に目にもあえなかった可哀そうな美穂。心から同情し、葬式の最中はずっと寄り添ってあげた。お互いにどんな悩み事や秘密でも、何でも話し合えた高校時代の絆が戻ってくる気がした。
そうだ、啓一のことを美穂に相談してみよう。美穂なら何か良い解決策を教えてくれるかもしれない。そんな気持ちから葬式が終わった後、啓一の浮気のことを相談した。美穂はICレコーダーを啓一の服に忍ばせることを提案してきた。それで何かが解決するのかどうかよく分からなかったが、美穂の言うとおりにすることにした。だって昔から美穂は勉強ができたのだから、きっとそうすることが正解なのだろう。
あの日二人で峠に上り、美穂は私の前でICレコーダーを再生した。私に対しては決して発しないような、啓一の艶っぽい声がレコーダーから流れてくる。相手はやはり巳八子だった。僕はこれからもずっと、巳八子のことだけを考えて生きていくつもりだ。僕には妻がいるが、お前もよく分かっている通り僕の心は常にお前と一緒だ。頭からすっと血がひいていく。惨めだった。聞いていて涙が溢れた。美穂、私を助けてよ。昔から困ったことがあると、たいてい美穂が解決策を考えてくれたものだ。頭の良い美穂のことだ、今回も何か解決策を教えてくれるのではないか。レコーダーから視線を上げて、すがるような気持ちで美穂を見上げた。美穂の労わるような優しい言葉が欲しかった。でも美穂は私の視線には気づかず、興奮気味にレコーダーを食い入るように見つめていた。やがて高ぶった声で、秀全のことや秘密の坑道のことなどをまくし立て始めた。違うよ美穂、私が欲しいのは解決策だよ。美穂はそんな私の気持ちに気づかず、早口で何やらしゃべり続けた。もう何も耳に入ってこなかった。
いつの間にか薬缶がピーッと蒸気音を鳴らしていた。タバコを灰皿に置き、インスタントコーヒーの粉を入れたマグカップに薬缶の湯を注いだ。ドリップ式コーヒーしか飲まなかった啓一が、インスタントコーヒーを飲む私に対していつも冷めた視線を向けていたことを思い出す。
突然、妊娠という言葉が耳に飛び込んできた。思わず美穂を見上げる。舘畑という才能のある男との間に子供を授かったらしい。恥じらいながらも溢れるような幸福感に満ちた美穂の瞳が眼前にあった。それは女の私から見ても口惜しいほど愛らしい瞳だった。啓一は私に指一本触れようとしないのに。
美穂、あなたは全てを手に入れ、私には何もない。そんなの許せない。頭の中で何かが弾けた。同時にどす黒いヘドロのような感情が胃の中に広がる。自分でも驚くほど嫌な臭いを発する感情。それは激しい憎悪だった。美穂も啓一も破滅すればいい。
タバコの火がフィルターを焦がしていることに気づき、流しに投げ捨てた。もう一本タバコを取り出し、火をつける。誰に気兼ねする必要もなかった。
「明日の午後、秘密の坑道を通って神島の二本松を調べに行ってみるつもり」
そう美穂が言ったことを聞き逃さなかった。家に帰り、押入れからワープロを引っ張り出してキーボードに向かった。
葦原啓一殿、父は重病を患っていたのに誰からも看病されず、一人寂しく亡くなりました。私が村の掟を破って村を出たことで我が家に黒い手紙が届いていたからです。でも、その村の掟を司っている尾呂血神社の宮司が自ら村の掟を破っていることが分かったら、村人たちはどう思うでしょうか。あなたが輝龍巳八子と深い関係にあることを知っています。それだけではありません。村の功労者である秀全を殺害したこと、そしてその遺体を二本松のもとに埋めたことも知っています。口外されたくなければ、明日の午後、二本松に来て下さい。山根美穂
自分でも驚くほど、すらすらと文面が頭に浮かんできた。プリントアウトして封筒に入れ、啓一の名前を表に書いて郵便受けに入れた。時計を見るとまだ午後四時だった。几帳面な啓一がいつも夕方五時に郵便受けを見にいくことは知っていた。
その晩、私が床に就いても啓一は離れに籠ったまま、遅くまで出てこなかった。翌朝、啓一は言葉少なげに朝食を済ますと、いそいそと出ていった。そして日暮れ前に死人のような蒼い顔をして戻ってきた。美穂が神島から湖に身を投げたと聞いたのは翌日のことだった。すぐに啓一の仕業だと分かった。可哀そうな美穂、私の親友。せっかく都会で憧れの職業に就き、愛する男を手に入れ、子供まで授かったというのに。啓一は罰せられるべきだ。私の親友に酷いことをしたのだから。そして私を裏切ったのだから。ICレコーダーの存在が公になれば、啓一は逃げられないだろう。その為にはICレコーダーを探し出さなくては。樵荘に残された美穂の荷物を山根家の実家に運ぶ手伝いを買って出た。隙を見て美穂のハンドバッグとスーツケースの中をくまなく探したが見つからなかった。
しばらくして美穂の男が現れた。ちょっと渋みのあるいい男だった。話していると美穂のことを真剣に愛している様子が痛い程伝わってきた。可哀そうに。何故か意地悪な気持ちが湧き上がってきて、美穂が妊娠していたことを告げてやった。案の定、相当ショックを受けていたみたい。いい男は茫然とした表情も様になるものだ。そうだ、この男なら啓一の所業を暴いてくれるかもしれない。後日、その男を呼び出した。啓一の浮気の相談を美穂にしたこと、ICレコーダーを仕掛けたことを男に話した。ただ、私は録音されたその内容を聞いていないことにした。だって、もし啓一宛ての手紙がどこかから出てきた時、私が偽装したと疑われるのが嫌だったから。
なかなかICレコーダーが見つからなくて、やきもきした。だって、このままだと美穂は自殺したことになり、啓一と巳八子は今まで通り関係を続けてしまう。それでは私の人生は何も変わらない。
静香の手元にICレコーダーがあったとは驚きだった。でも、お陰で事はとんとん拍子に進んでくれた。啓一は全てを自白して連行されていった。もう帰ってこないだろう。酷いことをしたのだから罰せられて当然だ。おまけに巳八子までいなくなってくれた。いい気味だ。清々する。そして誰も私のことは疑っていない。だって私は何も悪いことはしていないのだから。美穂が生きていたことは驚きだった。でもよかった、これからも親友でいられるから。
マグカップを置いて鏡台の前に立った。濃いめの口紅をひき、鏡の中の自分に向かって笑顔を作ってみる。
これから私は人生をやり直すつもり。だって私はまだ若いのだから。秀栄が私に色目を使っているのは前から知っていた。あんな男、今までは眼中になかったけれど、秀胤が輝龍家の当主になったということは、その次は一人息子の秀栄。輝龍家に嫁いで神島に住むのも悪くないかも。巳八子を崇めていたように、これからは村の皆が私に注目してくれるかもしれない。だって、私の人生はまだこれからだもの。
了