おとなび
「ユウキさんかわいいと思うけどなあ、おれ」とナルセがいった。
「そうかな。わかんないや」と僕は平静を装いながら答えた。もう梅雨に入っていた。曇りの日だったが、空気がじっとりとして重かった。
通学カバンと背中の間に自分の汗が伝っていくのを感じながら僕は彼に聞いた。
「ユウキさんと付き合いたいわけ、おまえは」
「んーわかんない、でもなんか、体育のときとかの球技の様子とかみててさ」と歩きながらナルセはいった。彼の制服の裾からよく日に焼けた健康そうな浅黒い肌が覗いている。
「好きなのかもしれない、うん、わかんないけど」と照れ隠しの半笑いでナルセは僕にいった。彼の肌とは不釣り合いに白い歯が唇の端からちらと見えた。僕は彼のこの笑顔が好きだった。
「いいねえ、あついね、やっぱり恋っていいね」と僕は彼をはやし立てた。
「やめてくれよ」ナルセが笑いながらいった。
「てか、タチバナは彼女と別れてからどうなん、いいひといないの」
「んー」と僕は考え込むふりをして、しばらく黙るのをつづけたあと、歯切れ悪くいった。
「今はいいかな、って、感じ」
「そっか」
*
家に帰ってからすぐ僕はLINEを開いた。きつく光る緑色の待機画面が切り替わり、ユウキからのメッセージが僕の目に飛び込んできた。
『いまからうちこない?』
『いいよ』と僕は打って、それから
『そういえばナルセがユウキのこと好きだっていってたよ』と送った。
ユウキからは『は』とだけ来た。
僕は少し雨に濡れてしまった学ランを脱いで黒のジャケットに着替え、恋人に会いに行く男がやるように、姿見の前に立ち雨で濡れてしなびている髪の毛を整えた。しかし僕はユウキを恋人に例えるべきかどうかわからなかった。
僕は彼女に会いに行くときに、恋人に会いに行くときに感じるような、強い心臓の脈打ちや、熱を持つ肌や、自分の愛情がどんどん大きくなっていくさまを感じなかったし、それは彼女もそうだろうと思った。
そして僕は僕とユウキとの関係をナルセに言うべきかどうか思案した。
答えは出なかった。
*
「おはよう」
「おはよう」
インターホンを押すとすぐにユウキは出てきた。長い髪は湿気など関係なく美しさを保っていた。頬には少し赤みがさし、彼女の憮然とした表情の端正な顔立ちをいっそう瑞々しく引き立てていた。綺麗だと僕は思った。
「今日も学校行ってないの?」
「行ってないよ、最近昼夜逆転してる。さっきまでタチバナにLINEして、またすぐ寝たし」
「いいね」と適当に相槌をうって僕は家の中に入った。ユウキは父親がおらず、母親は遅くまで働きに出ている。この広い一軒家に僕は入り浸っていた。
「そういえばLINEしたけどさ」と僕はコーヒーを飲んでいるユウキの隣でソファに腰掛けていった。
「ナルセがユウキのこと好きみたいだよ」
「困るなぁ」とユウキはぼやいた。
「付き合ってあげなよ」
「そういうのも困るなぁ。そういうのがいちばん困るなぁ」と彼女はこちらを見ながらいった。
「あはは。まあ付き合うと俺たちのこともばれるし」と僕は彼女の腰に手を回しながらいった。
「ちゅーしよ」
「今コーヒー飲んだばっかりだから、ダメ」とユウキはいった。
「そっかあ」と僕は別段落胆せずにいった。どうせあとでするのだから、無理に今しなくてもいいだろう。性的な意味でも人間的な意味でも、僕は地球上に存在する全ての人間の中でいちばん彼女のことを知りつくしている自信があった。
だから、コーヒー飲んでないときだったらいいの?と軽口を叩くことすら今の僕には憚られるのだった。
「じゃあ俺にもコーヒーいれてよ」と僕はいった。
「何が、じゃあ、なの」
「コーヒー飲みたくなってきた、ふつうに」
「引き出しの二段目にインスタントコーヒーがあるから、自分でいれて」とユウキは台所の引き出しを指さしながらいった。
「ありがとう。いれてくる」
「じゃあ、私はシャワー浴びてくるから」と早々にコーヒーを飲み干したユウキはお風呂に向かった。彼女は体を洗わずにセックスすることを嫌った。清潔という観念が非常に強く彼女を支配しているように僕には思われた。
彼女が処女のとき、僕ははじめてで緊張している彼女にやさしく愛撫をした。彼女は家に僕とふたりきりだというのに馬鹿丁寧に声を出さないようにしばらくじっと耐えていたが、そのうち声を出していった。
そのあとも彼女は今日と同じように風呂場に向かったことを僕は思い出した。
ただ僕はそのあとのセックスをどうしても思い出せないのだった。
*
風呂から上がって、ユウキは脱ぎやすいように前にボタンのついた服を着てきた。
「2階行こ」と僕はいった。
僕たちは彼女の部屋のベッドに向かった。
階段を登りながら僕はナルセのことについて考えた。ナルセは僕とユウキの関係を知らない。僕が言わなければたぶん一生知ることはないだろう。
彼の笑顔が僕の脳裏にフラッシュバックした。
部屋のベッドに座った僕たちは電気を消してキスをした。彼女は部屋のカーテンを締め切っているので、毎回彼女の体はよく見えない。僕はベッドのそばにあるランプをつけた。
彼女の服を脱がせるところだった。丸まった彼女の背中に生えた産毛が、ランプのオレンジの光に照らされて淡い白に皮膚を切り抜いていた。
僕は彼女が彼女の清潔の観念のなかにいままで自分の背中を組み込んだことがなかっただろうことに気づいた。彼女は自分の背中に生えた産毛も知らないのだ。僕も自分の背中に生えた産毛は知らないが、彼女の清潔のなかにそれが組み込まれていないとしたら、なんだかとっても滑稽だ。
僕は彼女に僕の性器を舐めてもらい、彼女の性器を指で刺激しながら、彼女の産毛についてずっと考えていた。
いや、本当はナルセのことが頭の中にちらついていた。僕は彼女の産毛のことを考えることで、今僕たちにのしかかろうとする諸問題から逃げようとしている。
1本の毛によって軽くなる心も、たしかにあるけれど。
「実際変な気分だな」と僕はコンドームをつけながらいった。
「なにが」
「ナルセは俺たちのことを知らないけど、俺たちはナルセのことについて知っている。そういう感じのことって、きっと世の中にたくさんあるよね」
「うん」と彼女はいって、続けた。
「私たちも実際私たちのことなんてわからないのかもね。私がタチバナのあれのサイズを知ったところで、タチバナの何をわかったっていうの?」
「ほんとにそうだね」と僕はいって、寝ている彼女に正常位で挿入した。
「ごめん、足をもう少し開いてくれない?腰が引っかかって邪魔だから」と僕はいった。
「嫌」
「なんで」と僕は不意を突かれていった。
「ナルセくんは知らないでしょきっと。この足の角度」とユウキがいった。
「ああ」と僕はいって、腰を動かしはじめた。
その通り、確かにそうだ。本当にそうだと思うし、そうあるべきだ。