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ゴールテープは誰が為に

作者: 桐野 彩

主人公は男性を想定していますが、中性的な雰囲気なので女性に置き換えて読んでいただいても問題ありません。お好みでどうぞ。

 誰かの為に自分を捧げなさい。頂点に立つのではなく、そこに立つ人を支えなさい。


 それが、かつて名家に仕えていた家柄に生まれた私―中神司なかがみつかさが、幼いころから両親に教えられたことだった。

 人の上に立ち、人を導き、人に称えられるような存在は世の中のほんの一握りだ。そして、そんな人達は周囲からの期待と羨望に応えようと必死に努力し、才能を磨き、張り詰めた糸のような精神の中で生きている。私たちはそのような人を支えることが代々伝えられた使命なのだと、優しい両親は何度も教えてくれた。

 人を支えるということは簡単なことじゃない。それも、頂点に立つ人たちを支えるには、その人達と同等以上の努力が必要になる。

 上に立つ人と同等の知識や運動能力、模範となるふるまいや言葉遣い、一通りの家事や精神的なケア、身につけなければならないことはいくらでもある。

その一つ一つをトップレベルまで磨き、あらゆる面で上に立つ人へのサポートを行えるようになった時には、高校生になっていた。


 これまでの学生生活では、生徒会庶務や会長補佐のような役職や、部活動のマネージャーのような役割に徹してきた。多くの知識・技術に精通し、様々な支援を行ってきたおかげか、周囲からの信頼も得られた。

 それだけの能力があり信頼も得た私に向けられるのは、「なぜ一番を目指さないのか」「君ならもっと上を目指せるのに」といった期待とも同情ともとれる言葉たちだった。

 その度に自分の中に浮かぶほんの少しの感情を押し込みながら高校生活を送っていた。


 高校生になって一年が経った。

 二年生になり、クラスが変わっても自分がやることは変わらない。誰かの為に自分を捧げる。そのはずなのに、どこか鬱屈とした思いを拭えずにいた。


 半月も経つとクラスメイトがどんな人達か分かってくる。前年度から同じクラスの人は当然知っているとして、初めて同クラスになった人がどんな人なのか、そして、この中で誰が上に立つべき人であるのかを見定めることは、私の一年間にとって非常に重要なことだ。

 だけど、私は自分の見定めに少しの疑問を抱いていた。

 このクラスでおそらく一番人望がある人、それは私の隣の席‐窓際最後列でいつも眠っている少女だ。

 彼女の名前は西蓮寺さいれんじなずな。

 授業中はほとんど眠っているが、成績はむしろ優秀なため教師からも居眠りを黙認されており、裏表も分け隔てもなく自分の好きな生き方を貫く彼女は多くの人に好かれていた。

 人望も能力も持ち合わせている彼女がこのクラスにおいて中心となることは容易に想像できた。だが、それだけのものを持ち合わせいる彼女が周囲の事を顧みず、自分の好きに生きていることが、どこか腹立たしかった。

 上に立つ者は、自分を多少犠牲にしても下に付く者へと気を配るものだと、それを支えるのが自分の役割だと考えてきた自分にとって、彼女の生き方は理解できないものだった。

 彼女も人に頼まれごとをしたときは素直に応じることが多い。だが気分が乗っていない時は適当な理由をつけて断ることがある。それでもなお人望の絶えない彼女への言葉に出来ない感情が胸の内に積もっていった。


 そんな日々を送っていたある日の放課後。

 頼まれていた仕事を終えて荷物を取りに教室に入ると、彼女は今日も眠っていた。

 放課後は彼女の至福の時間。気が済むまで眠った後、重い腰を上げてのんびりと帰路に就くのが彼女の過ごし方だ。

 彼女も優秀な能力を持っている以上いくつか仕事を任されている。しかし睡眠を至上の幸福としている彼女にとって気がかりが残っている事は許せないらしく、任された仕事をこなす速度は私でも驚くほどだ。

 だから今日も一仕事終えた後の心地よい時間なのだろう、その寝顔はとても優しい穏やかなものだった。

 そんな顔を見ていたら思わず胸の内に押し込んでいた思いがあふれてきてしまい、

「私もあなたみたいになれたらいいのに」

 そう、つぶやいていた。

「あたしなんかのどこに憧れてるの?」

「…え?」

 起きていた?

 不意にこぼしてしまった本心を、あろうことか思いを向ける本人に聞かれていたと知り、顔が熱くなる。

「司君、だっけ?隣の席の」

 体を起こし、目元をこすりながら彼女は話しかけてきた。

「えと、はい、そうです。中神司です。西蓮寺さん」

 崩れかけた言葉遣いを必死に正しながら自己紹介をする。

「ちゃんと話したことはあんまり無かったね。西蓮寺なずなだよ。改めてよろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

「それで、どうしてあたしなんかみたいになりたいの?」

「あの、それは…」

 ぎこちない自己紹介の後に、急に本題へと話を戻されて動揺してしまう。

 そして、なにか返答しなければと頭をフル回転させたことによって一つの答えに気づいてしまった。

 自分が抱いている鬱屈とした感情。彼女に抱いている言葉にできない感情。その答え。

「あなたが、とても自由で、楽しそうだから」

 そうだ、私はいつしか自由を求めてしまっていたのだ。両親の教えも、周囲からの声も気にせず、自分の思うままの生き方を。

「自由?楽しそう?なんのことやらだよ。今日も今日とて仕事を押し付けられて睡眠時間を削られているっていうのに」

「その考え方が出来ることが羨ましいんですよ。自分の好きなことがあって、それを邪魔されて面倒くさいだとか、そんな風に考えることも私は出来ないんです」

「出来ない?どうして?」

「誰かの為に自分を捧げる。それが私の生き方ですから」

「なにそれ?どういうこと?」

 疑問に答えたらさらに疑問で返されてしまった。無理もない。今の世の中で主に仕える従者のような生き方など絶滅危惧種に等しい。

 だが、そんな絶滅危惧種がここに存在して、悩み苦しんでいることもまた事実なのだ。

「なにから説明しましょうか…、そうですね、私の生い立ちから説明します」

「いやいやいいから!そこまで踏み込もうとしたわけじゃないから!」

「しかし…」

「というか前から気になってたけど、そのやたらと丁寧な話し方とか、普段のしぐさとか、もしかしてどこかのお坊ちゃんなの?」

「それも含めて説明を聴いてもらえれば良いのですが」

「ああもう、分かった聴くよ。ところでその話って長くなる?あたしの睡眠時間無くならない?」

「出来るだけ手短にお話ししますね」


 そうしてなぜか、彼女へと自分の身の上話をすることになった。

 家のこと。両親の教えのこと。これまでの生き方のこと。そして…。


「ねえ、司君」

「はい、なんでしょう?」

「いや気付いてないの?」

「気付く?何にですか?」

 話が終わるころ、西蓮寺さんがそう言って私の目元を指さしてきた。

「あれ、どうしてでしょう」

 そこには涙が伝っていた。

「おかしい…ですね。ただの身の上話をしていただけなのに」

 涙は止まらなかった。自分の中にため込んでいた様々な感情が、口に出すことで、人に受け止めてもらうことで次々とあふれ出してきた。

「私は…家の事も両親のことも大切に思っています。教えられたことも正しいことだと思います。ですが…」

 西蓮寺さんは何も言わずに聴いていてくれた。眠っていた時と同じような穏やかな表情で。

「一度だけ、自分の夢を見てみたいと考えてしまったのです…。誰かの夢を支えるだけでなく、自分がしたいと思ったことを自分の為にやりたいと願ってしまったんです…」

「そっか、それであたしか」

「はい」

「自由きまま。好きなことを好きな時に好きなように。まさにあたしのモットーだ。というかそうでなきゃ楽しくないと思ってるからね」

「西蓮寺さんはとても眩しくて、いつしかあなたの事ばかり考えていました。あなたのようになってみたいと」

「あはは、司君てばなんか告白みたいになってるよ」

 そう言われ、非常に恥ずかしいことを口走ったと思ったが、女子の前で泣きながら話をしている時点でもはや羞恥など気にならなかった。

「事実ですから。私はあなたに憧れているんです」

「うぅ、聴いてるこっちが恥ずかしくなってきた」

「ふふっ、申し訳ありません」

 西蓮寺さんが逆に顔を赤らめる姿を見て思わず笑みがこぼれた。

「笑わないでよー、まったく、さっきまで真剣に聴いてたのに」

 お互いに重い雰囲気は無くなり、温かい気持ちに包まれていた。

「それで、司君はどうしたいの?」

「どう、というのは?」

「言ったでしょ、自分がしたいことを自分の為にやりたいって。何がしたいの?」

「それは…」

「何か好きなこととか無いの?それか、今まで一番を取れなくて悔しかったこととか」

「好き…悔しい…」

 思い当たるものは、ある。

「走ること」

「走る?」

「はい、私、走ることが好きなんです」

 昔、実家の大きな庭を自由に走ったことがあった。広い庭を思いっきり。あの瞬間は私の人生の中にある、数少ない『自由』な瞬間だった。

「走っているときは、なんとなく自分が自由になっていると感じるんです。何にもとらわれず、自分の足で風を切っている時、ああ、これが自由なんだって」

「へぇ、それが司君の好きなことか。じゃあ悔しいっていうのは?」

 悔しい思い。私が走る時、どうしても考えてしまうこと。

「何度も言ったように、私は自分が一番にならないように生きてきました。それは勉強でも、役職でも、運動でも」

「そっか司君、走るの好きっていうけど体育の授業でもそんなに速く走ってないよね」

「はい。どうしても無意識に速度を落としてしまうんです。だからもう何年も、本気で走って無いかもしれません」

「それは…悔しいだろうね」

 自分が好きなことに全力を出せない。西蓮寺さんからすれば、眠りたいのに邪魔をされて熟睡できないような状況を想像したのだろう。分かりやすく顔をしかめている。

「だから、一度でいいからまた全力で走ってみたい。それが今の私の些細な願いかもしれません」

「全力で走る…か…」

 西蓮寺さんは何かを思い出そうとしている素振りでしばらく頭をひねっていた。そして、

「体育祭」

「え?」

「体育祭だよ!来月の!」

「そういえば、ありましたね」

 この学校の体育祭は春に行われるため開催時期はもうすぐだ。

「司君、体育祭の徒競走に出場したことある?」

「あります。ただ…」

「全力では走って無い、だね?」

「はい」

 そうだ。一番を譲るために、こういった行事においても全力では走っていなかった。

「体育祭なら公式な大会とかじゃないし、数ある種目の一個なだけ。ちょっとぐらい一番とってもいいんじゃない?」

「ちょっとぐらい…」

 西蓮寺さんの言い分は一理ある。学校の体育祭程度なら誰かの名誉ある一着を奪うほどの話ではない。

 それでも――

「まだ迷ってる?それとも、怖い?」

「あっ」

 私の心を見透かしたように、西蓮寺さんがつぶやいた。

 そうだ、怖いんだ。今までの自分を否定するようで。両親の教えを裏切るようで。

「まあそうだよね。そんな単純なことじゃないっていうのもなんとなく分かるよ。だから」

 最後の一言を残して西蓮寺さんは立ち上がり、私を指さしながら、

「あたしが応援してあげるね!」

 得意げな顔でそう言い放った。

「応援?」

 すぐには気持ちが整理出来ず混乱してしまった。

「司君は誰かの夢を手伝うのが自分の生き方だって言ったよね?」

「はい」

「だから自分の好きなことが出来ない、そうでしょ?」

「そうです」

「それでさ、司君はこのクラスで一番なのは誰だと思う?」

「へ?」

 突然思いもよらない質問が投げられて、おかしな声が出てしまった。

「それは…」

「あたし、でしょ」

 私が答えようとする前に、西蓮寺さんが少し恥ずかしがりながら言った。

「はい、その通りです」

 事実、私もそう答えようとしていたのでまっすぐに返答した。

「えへへ、自分で言っといてなんだけど、そうまっすぐ返されると照れるね」

「西蓮寺さんはとても優秀なので。私の憧れ、というのもありますが」

「うん、それでね。今の司君の一番な、あたしの夢を手伝ってほしいんだけど」

「西蓮寺さんの夢、ですか?」

「そう、たった今出来た夢」

「今ですか!?」

「今だよ、ていうか今じゃきゃだめな夢だよ」

「その夢というのは?」

 なんとなく、想像出来てしまう。今から西蓮寺さんが言う夢の内容が。というよりも、そうであってほしいと願ってしまっている。

「司君が一番にゴールテープを切るところが見たい」

 その一言を聴いて、また涙が滲んでしまった。

 それは今の私が、何より求めている言葉だった。

 一番になっても良い。

 ただそれだけの言葉。

 だけど一番欲しかった言葉。

「…はい!」

「あはは、いい返事だね。もしかして、ゴールテープ、切ったことない?」

「そうですね。あれは一番の人が切るものですから。私には縁の無いものだと思っていました」

「うん。それなら尚更楽しみになってきた」

「私も、なんだかドキドキしてきました」

「司君まるで親の目を盗んでいたずらする子どもみたいな顔してるよ」

「そ、そんな顔していますか!?」

 さすがにそれほど高揚していたというのは恥ずかしい。顔を覆って横を向く。

「ふふっ、なんだか今日は変な一日だったな。隣の席の子がこんな不器用な人とは思わなかったよ」

「すみません…」

「いいのいいの、あたしも楽しみが出来たし。それじゃ、あたしの夢ちゃんと叶えてよね?」

「はい、必ず!」

「よし、約束ね」

 そういって西蓮寺さんは小指を差し出してきた。

「約束、です」

 私も小指を差し出し、しっかりと指を絡ませた。


 その後、西蓮寺さんが二度寝を始めてしまったので、どうせなら一緒に帰ろうかと待っていたら思ったよりも遅い時間なってしまった。

「ふわぁ、よく寝た。ごめんね待たせちゃって」

「いえ、待つことは慣れていますので」

 上の者を支えるには、忍耐力も必要だと昔から教わってきた。

「それじゃあ帰ろっか。またね司君」

「はい、西蓮寺さんもお気をつけて」

「うーん、ねえ司君」

「はい?なんでしょう?」

「あたしのこと、名前で呼んでもいいよ。クラスメイトなんだしさ」

「それは…」

 どうしても従者精神で相手を敬ってしまうので今まで人を下の名前で呼んだことなどほとんどなかった。

「そういえばもう一個夢があるようなー」

「そんな軽々しく夢を消費しないでください?」

「あはは、冗談だよ。でも、ダメかな?」

「ダメでは…ないです」

「じゃあオッケーだね。なずなって呼んで!」

 気恥ずかしさを感じながらも、言われた名前を呼ぶ。

「…なずなさん」

「うん、よし!よろしくね司君!バイバイ~」

「さようなら、なずなさん」



 こうして私の人生にとって小さくて、だけど大きな一歩を踏み出す一日が終わった。



 時は流れて体育祭前日の夜。

 両親と夕食の時間を過ごしていた。

 いつも通りの時間。穏やかな、優しい両親との会話。だけど今日は私だけ、穏やかではなかった。

 明日の体育祭、徒競走で私は一番になる。そのことを両親には未だ打ち明けていなかった。

 怖い。

 優しい両親が期待を裏切った我が子へと向ける顔を見たくない。

 長く伝えてきた教えに背く我が子に落胆する姿を見たくない。

 もちろん、両親がそんな反応をするとは思っていない。むしろ、喜んでくれるのではとすら思う。

 父も母も、厳しい人ではあるが、その根元には深い優しさがあることをこれまでの人生で十分に感じている。

 だからこそだ。

 両親の期待に応えたい気持ちが引っかかる。

 でも、もう決心はついた。

 今私が支えるべき人は、叶えるべき夢は、決まっている。

「お父さん。お母さん。少し話を聴いていただけますか?」

「司が話を?珍しいな。そういえば明日は体育祭だったか。何か大切な役割でも任されたのか?」

「はい、明日の体育祭でとても大切な役を任されました」

「そうか、それは良いな。何をするんだ?」

 一呼吸おいて、まっすぐに伝える。

「…私は、明日の体育祭。徒競走で一番になります」

「…一番に?」

 にこやかだった父の目が少しだけ開いた。母も食事の手を止め、私をじっと見つめている。

「夢を、叶えたいんです。私に一番になってほしいと言ってくださった、大切な人の夢を」

「…それは、本当にその人の夢かい?」

「え?」

 父の目は真剣だ。

「聞き方を変えよう。その夢は、その人だけの夢かい?」

「それは…」

 違う。これはなずなさんだけの夢ではない。むしろ、私のための夢。私たちの夢だ。

「なずなさんと、私の夢です」

 そうだ。この夢を叶えるのは私『たち』でなければならない。

「それを聴けて安心したよ」

 気付くと父はいつもの穏やかな表情に戻っていた。母も、穏やかな顔で食事に戻っていた。

「私たちもね、少し心配していたんだ。このままでは司はつぶれてしまうのではないかと。自分の存在理由を他人に求め続けていてはいつか壊れてしまう。だから司が夢を持ってくれる日を待っていたんだ」

 父のその言葉は、ある意味で救いだった。好きに生きていいのだと。私も、なずなさんのように。

「ありがとうございます。必ず、叶えてみせます!」

 気付けばその夢は、私と、なずなさんと、両親までもが願う大きな夢になっていた。

 明日の体育祭、徒競走、そのゴールテープが持つ意味は、ただの布一枚にしてはあまりにも大きいなと、笑えてしまうほどに。



 体育祭当日。次の種目は徒競走。レーンへ向かおうとする私になずなさんが声を掛けた。

「司君、いよいよだね」

「はい、必ず一番になります。普通の高校の普通の体育祭。だけどあのゴールテープは普通ではありません」

「布一枚には荷が重いねぇ。でも、そうだね。あのゴールテープはあたしたちの夢なんだ」

「じゃあ、行ってきますね」

「うん、いってらっしゃい。応援してるよ」

 優しい微笑みを浮かべて、なずなさんは応援席へと戻っていった。


「それではただいまより、二年生男子の徒競走を始めます」

 アナウンスが入り選手がレーンに入る。

 今までの人生で一番緊張しているかもしれない。

 応援席にはなずなさんがいる。距離が遠くて声は聞こえないけど、応援してくれていることは分かる。

 絶対に、負けられない。

「位置について、よーい」

 パンッ!と乾いた音が鳴るとともに、選手が走り出す。

 私のレースは比較的速い選手がそろっているようで、簡単に一番になれるわけではなさそうだ。

 それでも、絶対に勝たなければならない。

「あっ」

 あることに気が付いて思わず声を漏らしてしまった。

 私は今、全力で走っているんだ。

 忘れかけていた感覚。自由に、全力で風を切る感覚。

 体が軽い。

 コーナーを回って直線に差し掛かる時、視界の端になずなさんが映った。

「がんばれー!」

 その応援が最後の一押しになり、ゴールへと駆け抜ける。

 初めて見るピンと張られたゴールテープ。

 そのテープを全力のまま走り抜け、切った。

 歓声が上がる。でもそんなものは聞こえてこなかった。

 ただ応援席で喜んでいるなずなさんの姿と、ゴールテープを切った感覚だけが、鮮明に残っていた。



「おめでとう」

「ありがとうございます」

 体育祭が終わり、片付けも済んだ後の教室で、なずなさんと話をしている。

「すごかったね、あんなに速いなんて思わなかったよ」

「自分でもびっくりしました。全力で走ったのはあまりにも久しぶりなので」

「陸上部の人が騒いでたよ。あいつは誰だ!今すぐスカウトしろ!って」

 実際に私の元に何人かの陸上部員が来たが、もちろん丁重にお断りした。

「私の全力は、もう出せそうにないですから」

「どうして?」

「今日の走りは、なずなさんと、私と、両親と、たくさんの夢があったからこそのものです。同じ走りはもうできません」

「ふふっ。なんだか嬉しいね」

 お互いに笑いあう温かな時間が過ぎていく。こんな時間がまたあったらいいのに。そう思ってしまった時、またしてもなずなさんは私の心を見透かしたように話し出した。

「ねえ司君。司君がよかったらなんだけどさ。またあたしの夢を手伝ってくれないかな?」

 その言葉に、自分でも分かるほど喜んでしまった。顔が熱くなる。鼓動が速くなる。

「また、ですか?今度は何をするんですか?」

 期待がにじみ出てしまう。

「これからずっと、あたしと一緒に自由に生きようよ。楽しいことたくさんしようよ。いっぱい走ろうよ。そして」

 満面の笑みを浮かべながら、なずなさんは言った。

「今度はもっとすごいゴールテープ、切ってみようよ!」

 その言葉にどれだけの意味を込めたのか、今は分からない。でも、私の答えなんて最初から決まっていた。

「誰かの為に自分を捧げる、誰かの夢を手伝うことが私の生き方です。なずなさんが夢を叶えるために私が必要だと言うのなら」

 私も心からの笑顔で答えた。

「私は全力で走ります」

最後まで読んでいただきありがとうございます


誤字脱字等あれば教えてただければありがたいです

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