たんさく
「そ、そんな怖いこといわないでくださいよ。駅なんですから何かあるに決まってるじゃないですか」
おびえるように言う美奈に久次はちらっと目を向けた後、静真にライトを放り投げた。
「静真、屋根に上がって外見れるか」
「造作もない」
「えっ屋根に上がるの!?」
橙子が驚いている間にすたすたとホームに戻った静真は、腰のベルトに懐中電灯を挟むと、軽く助走をつけて飛び上がる。
予想外に身軽に浮き上がった静真は屋根の端をつかむと、逆上がりでもするように気楽な動作で屋根の上に消えていった。
「え、雑伎団とかサーカスに所属でもしてるの?」
「ただ単に頭まで修行が詰まってるだけだ」
ぽかんと見上げていた橙子が思わずつぶやくと、即座に久次に否定された。
美奈もあっけにとられて屋上をみている。
屋根の脇からくるりくるりと光が見えた後、静真はまた身軽に屋根から降りて、ホームに戻ってきた。
「やはり光は通らん上、建物は何一つ見えん。俺でも見えんものはお前でも見えんだろうな。閉ざされているぞ」
「そうか」
「え、つまり外には何もないってこと?」
橙子が言えば、放られた懐中電灯を受け取った久次が肩をすくめた。
「見えないだけであるかもしれないし、ないかもしれない。だがこれだけの光源で照らせない何かがまともなものとは思えねえな」
「でも、いつまでもここにいるわけにもいきませんよ」
橙子が久次の言葉にぞっとしていれば、美奈が言い出した。
彼女は感情をこらえるようにぎゅっと両手を握りしめながら、こわばった顔で続けた。
「ねえ、改札口があるのなら出て人を探してみるのが良いんじゃないですか。だってないかもしれないけどあるかもしれないんでしょう」
「いや、境界を越えるのは最後の手段にすべきだ」
しかし久次が即座に否定する。その声は恐ろしく厳しい。橙子が理解できるほどかたくなだった。
「良いか、境界を越えるというのは一種の意思表示だ。越える人間が分かっていても分かっていなくても決定的に変化しちまう。ましてや改札口なんてあからさまな『出口』だ。一度踏み出してひとまず安全なここに帰れる保証はない」
「帰ってくる……って、帰ってこなきゃいけない状況になると思っているの?」
その単語が妙に気になって橙子が聞けば、久次がこちらを向いた。
「かたす、やみ、って言うのは、どちらも死後の世界にある堅州の国と黄泉の国に通じる言葉だ。そんな二つの駅に挟まれた『きさらぎ』の改札を出るって言うのは嫌な予感しかしねえな」
「なにわかんないこといってるんですか!? ……もしかしてあなたたち、ここについて何か知っていて私たちを填めようとしているんじゃないですか!」
「美奈、言い過ぎだよ」
こんなに強固に主張できる子だっただろうか、と橙子は驚きつつもなだめようとすれば、美奈は震えながらこちらを向いてきた。
「ねえ、橙子ちゃんもそう思うよね! こんな変な駅にずっといるの嫌でしょ!」
「ああまあ、うん。そうなんだけど……」
いいよどんだ橙子はもう一度改札口を振り返る。もしかしたらあの向こうには、ただ街灯が乏しいだけの普通の街並があるのかもしれない。
けれどあの暗闇を突き抜けるのはなんとなく、最後の手段にしておきたい気がした。
だが、根拠がない物を理由として言っても彼女は納得させられないだろう。
「とりあえず、ちょっとおちつ……」
ここで険悪になっても全く良いことはないと、橙子がどうにかしてなだめようとしていると、我関せずとたたずんでいた静真が歩き出した。
突然の行動に全員の視線が集まってもなお静真はとまらず、ホーム脇に設置されていたベンチにたどり着く。
「おい静真、どうした」
「腹が空いた」
うせやろ、と橙子は彼の正気を疑った。
気がついたら見知らぬ駅、来るかもわからない電車で帰れるかもわからない中で空腹を訴えるなんて何を考えているのか。
橙子があっけにとられていたが、久次はすぐに目をつり上げて静真に詰め寄っていた。
「おま、空気読めよ!? 無視して弁当広げんじゃねえというか荷物全部それか!?」
「当たり前だろう。陽毬が持たせてくれたのだぞ。持って行かぬ理由がない」
「あんたはそうだろうけどなあ! もうちょっと緊張感をもってくれよ!」
「ではお前は食わんのか」
「食うけど!」
最終的に折れた久次が肩を落とすのに、橙子はちょっぴり同情した。
まるで話の通じない部下にふりまわされている様な様子には橙子も覚えがあったからだ。
静真はベンチに腰を下ろすと、身につけていたボディバッグから小風呂敷の包みを取り出すと、次々とおにぎりを取り出した。
コンビニで売っている様なビニール包装に包まれたそれは、均一な三角形をしていて、作り手の丁寧さをうかがわせる。
「具は、昆布と梅干しとおかかとあたりがあるらしい」
「あたりか、姉貴の”あたり”は面白いからな、気合い入れてかかるか」
久次は一度あきらめたとたん、静真の隣に座って転がされたおにぎりを選び始めた。
どうやらそれを握ったのは久次の姉らしい。
どうでも良いことを知りつつも、橙子がどうして良いかわからず立ち尽くしていると、熱心におにぎりを選んでいた静真がこちらを向いた。
「貴様も食べると良い」
「こんなところで!?」
美奈が橙子の気持ちを代弁してくれた。明らかに非難する声にも静真はしかし一切取り合わない。
早速一つおにぎりの包装をはがしてかぶりついていた久次が、場を取りなす様に言った。
「腹が減ってはなんとやらってやつだからさ。食べてからまた考えようぜ」
そのとき、橙子の腹が鳴った。同時に夕飯すら食べられていないことを思い出す。
通りでうまく物事が判断できないはずだ、と腑に落ちた橙子は、思い切って静真の隣に腰を下ろす。
「私にも一つください」
「橙子ちゃん! やめときなよ」
美奈が心配そうに言いつのるのに、橙子は肩をすくめてみせる。
久次と静真が何かを隠していることくらいは、橙子にもなんとなく察せられた。
けれども、先ほどから近寄りがたいほど無表情だった静真が、喜色をにじませながらおにぎりをかじる姿は生気が宿っていた。それがなんとなく人間らしく見えて親近感を覚えたのだ。
「だってお腹空いてたし、久次くんのお姉さんが作ったんでしょ」
「ああ」
「陽毬のおにぎりはいつもうまい」
間髪入れず静真に答えられて思わず笑った橙子は、差し出されたおにぎりを受け取った。
ぺりぺりと、包装をはがして、海苔を巻いてかぶりつく。
歯を立てたとたん、ほろりとご飯がほぐれ、良い塩梅の塩気と海苔の磯の香りが口いっぱいにひろがった。
ふつうのおにぎりなのだが、なんだか無性に腹に染みるようで、橙子はぱちぱちと瞬いた。
「あ、おいしい」
「それは陽毬が握ったおにぎりだからな、当然だ」
妙に自慢げに言う静真をおかしく思いつつ、橙子がもう一口食べ進めると甘辛いものに行き当たった。
「あ、牛しぐれだ」
「あたりはそれか。くっそ。姉貴に今度握ってもらおう」
久次がうらやましそうに言いつつ、黙りこくって立ち尽くす美奈に話しかけた。
「あんたも食わねえか」
「……真夜中に食べるなんて。太るし」
「う、それを言われると弱いわね」
美奈の言葉が橙子に突き刺さった。それでも腹が減りすぎていたので背に腹は代えられない。何よりおにぎりがおいしすぎたのだ。
久次は美奈が受け取らなかったおにぎりをあっさりと下げた。
「別に食わねえんなら良いんだ。俺たちで食うし」
「久次、そのおにぎりよこせ」
「あん、……ってあんた膝にあったおにぎりどこやった」
「たべた」
「おい、一人三つで俺はまだ一つしか食ってねえんだから、これは俺のだろうが」
「ちっ」
「いや俺のまで食っててそれはねえだろ!」
舌打ちをする静真が子供じみていて、久次はあきれた顔でおにぎりを食べている。そのやりとりがまるで小学生のじゃれあいじみていてほほえましい。
結局、美奈がふてくされたように視線をそらして、おにぎりを食べなかったのは気になったが、橙子は肩の力が抜けるのを感じながら、牛しぐれのおにぎりを完食した。