君の一日と三日
カチリ、と歯車は動き出す。
光が、光が私を呼んでいる。優しい声を響かせ、私の脳がゆるゆる、と覚醒を始めた。
――は……私の……よ。
うっすらと聞こえる声。それはどこまでも温かく優しく、どこか懐かしい声。もっと聞きたいと思った私は必死に目を開けようとするけど……開いた感じは全くしない……というよりも、こんなに明るいのだから、私はもう目を開けているのかもしれない。
そう思ったら、今度は手を伸ばしてみた。だけど、手は何も掴まない。
――目を……てよ……わた……
また声が聞こえた。その声はどこか悲しそう。私の気持ちも悲しくなる……声からして女性かな? 私はこの声を知っている。
いつも近くに居てくれた……大好きな彼女の声。私は口を開け、“ここだよ。私はここにいるよ”と言ってみたけど声は届いてないのかな……返事はなかった。
うっすらと何かが見える……あれは、なんだろう。光ってて……優しい笑みを浮かべて……るのかな? その光を掴もうと私は手を伸ばすけど――あと一歩届かない。
――よわ……ね。
私はその声を頼りにもう一歩、進み――手を必死に伸ばす。そして私は“天音っ!”と叫び、限界まで指先だけでも、と伸ばした。
――千歳、愛してるわ。
そして、私の人差し指がその光へと触れた瞬間――私は暗闇の奥底へと落下していった。
歯車は逆回転し――カチリ、とその動きを止めた。
「千歳、調子はどう? 昨日は来れなくてごめんね。でも、お母さんが来てくれたでしょ?」
とある病院の一室。
穏やかな夕日が射し込むこの部屋のベッドに横たわる彼女へと声をかけた私は、その横に置いてある椅子へと腰を下ろした。
気持ちよさそうに眠る彼女の頭を撫でながら、私は笑顔を浮かべた。
「昨日は来れなかったからね、今日は、早いでしょ? 嬉しい?」
千歳……早く起きてよ……
無機質な機械音が響き、私は涙が零れないようにグッと堪える。
「もうすぐ千歳の……誕生日でしょ? だから、傍に居たいの……私ってば優しいでしょ」
私はそう呟き、彼女の手を握った。温かい、生きている……それなのに、彼女は私の言葉に返事をするどころか、一切の反応を示してはくれない。
彼女こと、私の恋人である千歳が植物状態となって――もう五年も経ってしまった。社会人となり、毎日をただ生きる私と、学生の頃からほとんど変わらない姿で眠ったままの千歳。
「そうだ、千歳、誕生日はなにが欲しい? 私だって大人だからねっ、千歳の欲しいものなんだって買ってあげられるよ……なんでも買ってあげるんだから……っ」
ポタリと、私の瞳から涙が零れ落ちた。だけど千歳の前で泣いているわけにはいかない。
私は雑に涙を拭うと、千歳の頬を優しく撫でる――彼女の余命は後“三日”しかない。千歳のお母さんがついに決断してしまったのだ。
だけど、私ではどうにもできない。入院費だって私も出しているが、それでも千歳のお母さんはもう待ち疲れてしまったのだ。
私はそっと千歳の額に口付けを落とすと、立ちあがり、笑みを浮かべた。
「千歳、また明日来るからね……大好きよ」
歯車は止まったまま。今日も変わらない一日の始まり。
「ちーとせっ! 調子はどう? 今日は、千歳が大好きだった鮫さんとトラさんのぬいぐるみ持ってきたよ」
私は千歳が昔から好きだった、鮫とトラが肩を組んだ変なぬいぐるみの入った箱を抱えながら、椅子に座った。変わらず起きる気配のない千歳……私は暗くなる表情を必死に奥へと蹴り飛ばして、笑顔を浮かべる。
きっと、千歳が今、私の顔を見たら笑っちゃうかもね……“下手な笑顔だね”って。でも、今は……そんな言葉を……私は待ってるんだよ……
「ねぇ、千歳……早く起きてよ……明日で……貴女は……っ」
そこまで言いかけて、私は千歳の胸元に顔を埋めた。あの時と全く変わらない優しい香り。
「千歳……大好き……大好き」
トクン、トクン、千歳の心臓の音が聞こえる。学生の時はよく千歳が抱きしめてくれてた。その度に私は恥ずかしくて素直に彼女の背中に手を回すことが出来なかった。
「前はできなかったけど――でも今は……こうやって自分からできるよ」
暫く千歳に顔を埋めていた私。もっと一緒に居たいと思っても――時間はすぐにやって来る。
「……もうこんな時間」
そっと顔を上げた私は、千歳の頬に口付けを落とす。
「千歳……また、明日……来る……からね……」
逃げるように私は千歳の部屋から出ていった。
カチリ、と歯車は動いた。
とうとうこの日がやって来た。
私が千歳の所に行くと、千歳のお母さんはもうすでに来ていて、私の姿を見ると優し気に微笑んでくれる。だけど、その顔は心労でやつれ、その痛々しい姿に私の心臓が締め付けられる。
「天音ちゃん。おはよう……今まで……本当にごめんね」
「お母さん! そんなこと言わないでください……私が、千歳にしてあげられることは全部したいんです」
「でも貴女も……やめておきましょう――ほら、千歳、天音ちゃんが今日も来てくれたわよ」
千歳のお母さんは、彼女の耳元で優しく声をかけ、コツン、と額を付ける。
「千歳、貴女は私の光よ……大切な光……」
涙を流しながらそう言って、彼女は笑みを浮かべる。私はその様子に、涙が自然と零れていた。
「……じゃあ、天音ちゃん。私は先生を呼んでくるわね」
「はい……」
「天音ちゃん――貴女も私の大切な光よ」
「お母さん……っ!」
微笑んだお母さんは部屋を後にする。部屋に残された私はそっと、千歳の頬に指を伸ばす。
「ねぇ、目を開けてよ……また、私の名前を……」
できる限り、私は精一杯の笑顔を浮かべる。
「天音って呼んでよ……」
弱々しい声は、規則正しく響く機械音に飲み込まれ消えていく。
「……弱い私で……ごめんね――千歳、愛してるわ」
彼女の額に口付けを落とした私は、そっと部屋を後にする。そして、入れ違うようにお母さんが呼んだ医者が一本の注射器を持って、部屋へと入っていく。
「天音ちゃん……本当にいいの?」
気遣うようにお母さんは、私の肩に手を置く。私は、首を横に振る。
「いいんです。私はずっと千歳と居たから……それに、お別れはすませましたから」
「天音ちゃん……」
「お母さん。私、千歳と会えて幸せでした――千歳を生んでくれてありがとう」
私はそれだけ言うと、逃げるようにその場を後にした。
彼女が死んで一ヶ月――彼女のお墓の隣には私のお墓が並んでいた。




