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『仕立て屋スティルハート』での日々は、穏やかに、ごく自然にはじまった。毎日来るお客さまの顔と名前を覚えたり、クラレットの仕入れに付き合ったり、合間にお茶を淹れたり。覚えることは多いけれど、目が回るほど忙しいわけじゃない。ほっと一息をつく時間はじゅうぶんにある、そんなありふれた日常。
好きな仕事をしているだけでこんなに気持ちが落ち着くなんて思っていなかった。異世界にいるという違和感は最初だけだったし、今はこの世界も肌に馴染んでいる気がする。
お店に来るお客さまたちがみんな親切にしてくれることや、クラレットの面倒見がいいことも早くなじめた大きな一因だと思う。
私がこの世界に来て、一か月。トリップしたその日からずっと関わってきた、エリザベスさまのドレスが完成した。
「すごくきれいです、エリザベスさま……」
採寸室からクラレットと共に出てきたエリザベスさまは、輝くように美しかった。
「ありがとう、ケイト」
広く開いた胸元には、パールを縫い付けたシフォン素材の襟がぐるりとあしらわれており、パフスリーブの袖も同じ素材で、エリザベスさまの華奢な二の腕がわずかに透けて見える。
たゆたう水面のように幾重にも重なったドレープは、腰から足首にかけて自然に広がってゆく。
驚いたのは、裾に白い羽とパールが縫い付けてあること。私がアイディアを出したアクセサリーに合わせたらしい。まるで、水面を散歩する妖精のドレスが水飛沫を浴びたよう。
「羽が縫い付けられたドレスなんて、はじめて。きっとみんなの注目の的よ。ありがとう、ケイトがアイディアを出してくれたんでしょう? このアクセサリーも」
エリザベスさまの胸元と耳に光るのは、クラレットと一緒にアレンジしたネックレスとイヤリングだ。シンプルだったパールのイヤリングには羽と小さなダイヤをつけて長さを出し、パールのネックレスにはさびしい箇所に羽を加えた。
「私は本当に、思いついたことを言っただけで……。実際に形にしてくれたのはアッシュさんとクラレットなので」
「あなたも手伝ったでしょう。そういうときは謙遜しなくていいの」
手を振りながら否定すると、クラレットが肘で軽くつつきながら耳打ちしてきた。
「本当に、綺麗だわ……。ありがとう、ふたりとも」
愛らしいけれど幼くも見えてしまうエリザベスさまが、純真無垢な妖精のように見える。
その人の魅力を惹き立てるって、こういうことだったんだ。ないものをあるように見せるのではなく、その人の美しい部分が強調されるということ。アッシュの言っていたことが、やっと実感を伴って理解できた。
「来週、お屋敷で晩餐会があるの。実は婚約者をお披露目することになっていて……」
「えっ、そうなんですか? おめでとうございます!」
晩餐会用のドレスとは聞いていたが、婚約者がいることははじめて知った。
「ありがとう」
少し照れたように微笑むエリザベスさまは幸せそうで、本来は恋愛ってこういう幸せなものよね……という複雑な気持ちになる。失恋や嫉妬や執着や、すれた感情に触れることが多すぎて、こんな当たり前の初々しい気持ちを忘れてしまった。
「どうしたのよ、ケイト」
「いやあの、失われた純粋さについて考えてしました……」
「何言っているのよ」
あまりにもどんよりした空気を出していたのだろう、クラレットに心配されてしまった。エリザベスさまはそんな私たちに気付かず嬉しそうに報告を続ける。
「それでね。お世話になったことだし、仕立て屋スティルハートの皆さんもご招待したいの。クラレットやケイトだけでなく、もちろんアッシュさんとセピアさんもよ。お父さまと婚約者に相談したら、ふたりもぜひご挨拶したいって」
「えっ、晩餐会にですか?」
クラレットが驚いた声をあげたので、私もそちらを見てしまう。
この世界の晩餐会とはどんなものなのだろう。名前のとおり食事するだけということはあるまい。きらびやかなホールで貴族たちがワルツを踊ったり、オーケストラの生演奏があったりするのだろうか。
乏しい想像力をフル稼働させる私をよそに、クラレットは難しい顔をしていた。
「それはすごく光栄ですが……。爵位の高い方の晩餐会ですと、私たちは場違いになってしまいそうです」
「それがね、大丈夫なの。婚約者の大学時代のお友達もたくさん呼ぶことになっているのだけど、お医者さまや弁護士さまや……貴族でない方も多いのよ」
「なるほど、それなら大丈夫かもしれませんね。アッシュに相談してから改めてお返事したいと思います」
「ええ、私もちゃんと正式な招待状をお送りするわね」
試着したドレスを召し替えたあと、『明るい湖畔』の入った大きな箱をメイドに持たせて、エリザベスさまは弾むような足取りで帰っていった。
「晩餐会ってごちそうが出るのかな」
つい、ぽつりと口に出してしまう。クラレットは蔑むような目で私を見ていた。
「あなた……。そんなに食い意地がはっているの?」
「違うから! こっちの世界に来てからずっと簡単な自炊ばっかりだから、外食が恋しくて」
またお説教されてしまいそうだったので、あわてて説明する。
和食や手のこんだ料理も恋しい。IHクッキングヒーターもなければ電子レンジもない世界なので、簡単な炒めものやスープしか作れていない。コンソメキューブもないせいで塩味になってしまったポトフには、もう飽き飽きだ。
「お給料はちゃんとあげているんだから、たまには外食してみなさいよ。お金を貯めるのに必死なのは分かるけれど、生活の余裕のなさって外見にも現れるものよ」
「嘘、そんなに分かる?」
「環境が変わったせいもあると思うけれど、ここに来たばかりのときよりカッサカサよ、あなた」
「だって、化粧水から何からぜんぶ違うんだもの、仕方ないじゃない!」
自分でも、肌の調子が良くないのはわかっていた。こんなことになると知っていたなら、高級美容液やパックをポーチに入れておいたのに。
「今まで肌を甘やかしすぎたのね。私だって同じものを使っているけれど、ご覧のとおりつやつやよ」
クラレットが自慢げに胸を張る。それを言われてしまうと何も言えないのが悔しい。とりあえず、毎日の食事をもっと充実させるところから頑張ろうと思った。健康ではなく、美容のために。
「エリザベス令嬢家の晩餐会? 来週?」
クラレットの話を聞いたアッシュは、片眉をぴくりと吊り上げた。
「ええ。四人でぜひ来てくれって」
「駄目だ。俺は行けない。同じ日にお客さまから夕食に誘われている」
「僕も一緒に誘われているんだよね……。ごめんね」
作業の邪魔になるからあまり入るな、と言われている作業場では、アッシュが縫い物をし、セピアが型紙を作っていた。貴重な機会なので無駄にきょろきょろしてしまう。大きな作業台とたくさんの道具たちがひしめきあう小部屋。想像していたよりもずっとにぎやか。
「そう……。なら、せっかくだけど断るしかないわね」
クラレットはほうっとため息をついた。私も少し残念な気持ちだ。晩餐会に行くなんて、もとの世界に戻ったら絶対にないだろうし。
「何も断らなくても、クラレットとケイトだけで行けばいいじゃない」
「無理よ。貴族の晩餐会なんて、男女ペアで参加するのが暗黙の了解でしょう。エスコートもなしに私たちだけでなんて……」
そうなのか。恋人がいない人に喧嘩を売っているような制度だなあとむっとしたが、私たちが招待されているということは恋人同士でなくとも問題がないのか。
「だからさあ、男女ペアだったらいいわけでしょ」
セピアが人差し指を振ってにっこり微笑んだ。クラレットが怪訝な顔で聞き返す。
「どういう意味?」
「俺のタキシードを貸してやる」
「ちょっと待って、それって」
「クラレットが男の恰好をしていけばいいだろう。男女ペアで何の問題もない」
今にも悲鳴をあげそうなクラレットに、アッシュはにべもなく言い放った。
「嫌よそんな! エリザベスさまはまだしも、私のいつもの姿を知っているお客さまだって招待客で来るかもしれないのよ? 心は女性で売っているのに、男装の姿を見せたら警戒されるかもしれないし」
「大丈夫だよ。クラレットの変わりようはすごいから、きっと誰も気付かないよ」
「エリザベス令嬢のところには世話になっているから、あまり不義理なことはしたくなかったのが……。そんなに嫌なら断るか」
アッシュとセピアと私の視線を一身に受けたクラレットが、「もう!」と怒鳴った。
「分かったわよ! 行けばいいんでしょう行けば! ケイトあなた、私がエスコートするんだから、淑女らしい振る舞いをしなさいよ。くれぐれも私に恥をかかせないでちょうだい」
「えっ……」
ちっとも話に参加していなかったのに、なぜか私が怒られてしまった。
「やった、久しぶりにクラレットの男装姿が見られる」
「浮かれるんじゃないわよ、セピア!」
がるるる、と肉食獣のように毛を逆立てているクラレットを見るに、男の姿をするというのはよほど嫌なことらしい。
「大丈夫だよ、ケイト。クラレットは淑女としても紳士としても自分に厳しいから、きっときっちりエスコートしてくれるよ」
不安になる私に、セピアはこそっと耳打ちをした。