(1)
アッシュが長い脚を組んで、紅茶を飲んでいる。手袋を脱いだ指は長くて細くて、なんでもない動作なのに一枚の絵画のようだ。美形は目の保養になるっていうけれど、この人たちに慣れてしまったらもとの世界に戻ったときに大変なのでは、と思ってしまう。
ばちっと目が合って、やましいことを考えていたわけではないのに目を逸らしてしまった。きっとさっきの甘い匂いのせいだ。アッシュから一瞬だけ漂った芳香を嗅いでから、頭がふわふわして身体が熱い。
「紹介状は読ませてもらったが、ケイトはもとの世界に戻るために一年間働きたいんだな?」
カップをテーブルに戻してアッシュが訊ねた。少しの音も立てないのが凄い。これが上流階級の嗜みなのだろうか。
「はい。費用がだいたいそのくらいで貯まるそうなので」
「給料にもよるだろうが、うちで働いてもだいたいそのくらいだろうな」
「ええっ、一年で帰っちゃうの? ずっとこの世界にいればいいのに!」
ソファは四つあるのに、なぜか私に密着して座っているセピアがくるりと横を向く。まつげが数えられそうなくらい顔を寄せてくるので、思わず身体を引いてしまった。
「あら、そういうことだったの? 一年くらいだったら、そんなに反対することもなかったわね」
クラレットは優雅に笑って焼き菓子をつまんでいる。このふたりはさっきからリアクションが正反対だ。
「何でもとの世界に帰りたいの? 恋人が待ってるとか? 実は向こうですごい大金持ちだとか?」
おねだりするように瞳をしばたたかせて、セピアが質問してくる。
「いえ、恋人はいないし、仕事も薄給なので……」
「じゃあ別に、こっちにいても困らないじゃん」
「まあ、誰も困りはしないですけれど……」
セピアの率直な言葉が胸に突き刺さる。誰も、困る人なんていない。私が急にいなくなっても。自分で言っておいて泣きそうになってきた。
空気を変えるように、クラレットがぱん、と手を叩いた。
「とりあえず自己紹介しましょ。お互い年齢もフルネームも知らないでしょ」
「そういえばそうだね。じゃあ、ケイトからよろしく」
「桜井恵都です。えっと、二十三歳です。もとの世界では服屋の売り子のような仕事をしていました。新卒なので、まだ半年くらいですけど」
「あらやだ、同い年なの?」
クラレットが大げさに顔をしかめた。
「あ、そうなんですか?」
「ちんちくりんだし、顔ものっぺりしているし、絶対年下だと思ったのに」
「それはですね、民族全体がそういう感じなので、私のせいじゃないです……」
がっくりと、肩の力が抜ける。私だって日本人の中でははっきりした顔立ちだったし、大人っぽく見られることのほうが多かった。外国人からは幼く見られるという噂は本当だったようだ。
「敬語はやめてちょうだい、同い年なんだし。クラレット・スティルハートよ。さっきも説明したけれど、布やアクセサリーの仕入れをしたり、お客さまの相手をするのが私の仕事ね」
「うん。クラレット、これからよろしくね」
「じゃあ、次は僕だね。セピア・スティルハート、十九歳だよ。パタンナーって言って、デザインから型紙を起こすのが主な仕事かな。アッシュの手が足りないときにはお針子もするけれど」
「よろしく、セピアくん」
「僕も、ケイトは自分より年下だと思ってたよ。年上のほうが好みだから、ちょうどよかったけど」
セピアの口調は可愛らしいのに、言っていることは肉食獣みたいだから混乱してしまう。
「そ、そうなんだ。ところでセピアくん、何か香水つけてる? 甘い匂いの……」
「ううん、何もつけてないよ。何か匂った?」
「さっきちょっとだけ甘い匂いがしたの。今は平気だよ」
「ふうん。じゃあ、バニラエッセンスかブランデーかもね。お菓子を焼いていたから」
出してくれた焼き菓子はセピアが作ったらしい。シャル型のマドレーヌは形も焼き色もきれいで、手先の器用な人はお菓子作りもうまいんだなと感心する。さっきのは、バニラエッセンスの匂いが服に染み込んでいたのかもしれない。くらくらしたのはブランデーのせいだろう。
「最後は俺か」
アッシュが組んだ脚を戻して、紅茶のカップを置いた。
「アッシュ・スティルハートだ。……名前は知っているな。歳は二十五だ。クラレットが決めた布地やお客さまの要望からデザインを書き起こし、縫製する。いつも裏で作業しているから、店にはほとんど出ることはない」
「そうなんですか」
アッシュがちくちく縫い物をしている姿はあまり想像できない。
「この店は先先代から王室に献上している伝統ある店だ。来る客も、貴族の令嬢か中流階級の金持ちばかりだ。晩餐会用のドレスも作れば、普段着用のアフタヌーンドレスも作る。要望があればナイトドレスだって作るし、上流階級からの信頼は厚い」
「爵位を献上されたということは、役人さんに聞きました」
「ああ。君にはそれに恥じない働きをしてもらわなければならない」
「……頑張ります」
もとの世界でもセレブとの付き合いなんてなかったけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
「不安そうだな」
「すみません」
「まずは見た目から変えてやる。その服じゃ店に立たせられないからな。クラレット、採寸を」
「はぁい。ケイト、こっちにいらっしゃい」
クラレットに手を引かれて、奥の小部屋に連れていかれた。ここが採寸室になっていたようだ。試着室のようなものだろうけれど、姿見のほかにソファやテーブルもあるし、花も生けてある。ちいさいワンルームだったらすっぽりおさまってしまいそうだ。
「え、あの、採寸って何のために」
「あなたのドレスを作るために決まってるじゃない」
「作ってくれるの? アッシュさんが?」
「うちの店で働くんだからうちのドレスを着るのは当たり前。これも仕事のうちよ。最初だし特別にタダで作ってあげるみたいだから、アッシュに感謝しなさいよ」
あの繊細なドレスが着られると思うと、胸が高鳴るのを感じた。本当はものすごく高価なものなのだろう。社販ではなく頂けるなんて、夢のようなホワイト企業だ。
「じゃ、早く下着姿になってちょうだい」
「え」
「採寸するんだから当たり前でしょう」
クラレットは何とも思っていないような顔で巻尺を用意していた。ここで恥ずかしがっていたら余計に気まずい思いをしそうだ。クラレットはほぼ女性なのだから、別に恥ずかしがることはない。そう思って服に手をかけたのだが……。
「ちょっと待って。その恰好は何?」
ブラジャーとショーツ姿になったところで、クラレットが顔を手でおおった。
「何って、下着だけど」
「シュミーズとドロワーズじゃないの? はしたないわよ、早く服を着なさい!」
「ええっ、だって、そっちが下着になれって」
「そんな下着だと思わなかったのよ!」
結局、クラレットがキャミソールみたいな下着とかぼちゃパンツのようなものを持ってきてくれて、それに着替えてから採寸をした。文化の違いだけで痴女のような扱いをされたことは誠に遺憾である。
「採寸も終わったことだし、出かけましょうか」
「お店を離れても大丈夫なの?」
「ええ。今日はもうお客さまの予約は入っていないし、仕入れに付き合ってもらうわよ。あとはあなたのお化粧もなんとかしないとねえ……。そのけばけばしいまつ毛はどうなっているの?」
「ああ、つけまつ毛のこと? 糊で人口のまつ毛をつけてあるの。こんなふうに外せるんだけど――」
「ひいっ、気持ち悪い!」
ぺりぺりと外したつけまつ毛を見せると、クラレットは虫を追い払うように手を振った。確かに、ゲジゲジに似ているかもしれないけれど。
「あとあなた、黒目もやたら大きくない? 異世界人だから?」
「これはカラコンを入れているから。黒目を大きく見せたり色を変えられるレンズみたいなもので……」
「全部取ってちょうだい! うちのドレスには、余計な人工物は似合わないわ。女性の自然な美しさを惹き立てるためのドレスだもの」
クラレットの言葉に、思いがけず感動してしまった。つけまつ毛も、カラーコンタクトも、ジェルネイルも、周りがしていたからやっていた。過剰なメイクにうんざりするときもあって、すっぴんで過ごす休日にほっとしたりしたけれど、メイクで武装しないと戦場には出られなかった。
おしゃれも、メイクも、人の視線を跳ね返すためにしていた。でもここでは、そうじゃないんだ。
「さっきよりも幼くなったけれど、こっちのほうがだいぶマシじゃない」
すっかりナチュラルメイク姿になった私に、クラレットは安堵の息を吐いた。
「あなたの服装は目立つから、とりあえず私の外套をはおってちょうだい。サイズは大きいと思うけれど、足元まで隠れてちょうどいいでしょ」
そう言って、マントのようなものを渡される。きれいなえんじ色で、赤ずきんちゃんみたいだ。はおると膝下まですっぽり包んでくれる。
「かわいい。手触りもいいし」
「まあまあ似合うじゃない。それもアッシュが作ったのよ。まだ季節的に暑いかもしれないけれど、我慢してちょうだいね」
この世界も初秋で、もとの世界と変わらないようだ。湿度が低いせいか、少し肌寒く感じるくらいだ。
「まずは生地屋に行くわよ。エリザベス様が選らんだ生地を多めに注文しておかないと。それから靴とアクセサリーの下見。アッシュがデザインのコンセプトを教えてくれたから、それに合うものをいくつか選んでおくわよ」
帽子と手袋を身に付けてお店の外に出たクラレットに続く。
「アクセサリーや靴も、仕立て屋のほうで決めるの?」
「そうよ。髪形やお化粧だってアドバイスするわよ。頭からつま先まで、その人が輝く一番の方法を探すのが私の仕事」
「すごいね……」
トータルコーディネートとプロデュースも兼ねているのか。そんなお店はもとの世界では結婚式場くらいでしか見なかったし、令嬢たちが夢中になるのも分かる。
「さあ、ついてらっしゃい」
さっさと歩き出すクラレットのあとを、あわてて追った。