(2)
芸術作品のような丸い柱が何本も連なる長い廊下を抜けると、開けた広間に出た。
ホールよりも天井が高く、細長い赤いカーペットが映画祭のように敷いてある。その先の一段高くなった場所には布張りの大きな椅子があり、一人の人間が座っていた。
「ケイト、よく来てくれたね。待っていたよ」
遠くからでもよく響く、中低音のやわらかい声が私の名前を呼ぶ。
役人さんはそそくさと去ってしまい、黒服たちも消えていた。ただっ広い空間に、王子とふたり残される。
どうしていいのかわからず、とりあえず椅子のそばまで進み出て膝を折った。
「お久しぶりです、殿下」
マナーはこれで合っているのだろうか。この前のようにアッシュのお手本がないから不安で仕方ない。
「堅苦しいのは嫌いなんだ。普通にしていてくれるかな。そうだな、友達の家に遊びに来たような感じで」
「は、はあ。友達の家……ですか」
こんな場所をそう思い込むのは無理があるだろう、と思ったがうなずいておいた。
「謁見の間じゃ落ち着いて話ができないね。食堂に行こうか、お茶とお菓子をメイドが出してくれると思うし」
「いえあの、あんまり広いところは……」
「そう? じゃあ、私の私室に行こうか」
私室、というから執務室みたいな部屋を想像していたのだが、連れて行かれたのは完全なプライベートルームだった。
キングサイズよりも大きな天蓋付きのベッドとソファセット、精巧な彫刻が施されたチェストなどが置いてある。
「こ、ここって寝室なんじゃ? 私が入ってしまっても大丈夫なんですか?」
「うん。寝室だったらいくつもあるから大丈夫。そもそも私は自分の部屋ではあまり寝ないしね」
その意味を考えて、顔が熱くなってしまった。毎日日替わりで奥さんたちの寝室に泊まっているのだろうか……。
「とりあえず、座って。今お茶を持ってきてもらうから」
テーブルの上にあったベルを鳴らすと、一分もたたないうちにメイドが紅茶と三段重ねのケーキスタンドを持ってきた。その速さに呆気にとられてしまう。
会話ひとつせず、ケーキスタンドをセッティングし、紅茶をカップに注ぐとメイドは一礼して去って行った。
「持ってくるのがずいぶん早かったですね。ずっと待機していたんでしょうか」
「そうじゃないかな。客人が来ることは伝えてあったし。遠慮せずに食べてね、うちのシェフのケーキは絶品だから」
「はい……」
苺のプチタルトも、フォンダンショコラのようなチョコレートケーキも、手間がかかっていてたしかにおいしかった。紅茶も、いつも自分で淹れているのとは違う風味がする。
「おいしい?」
「はい。あの……、今日はどうして私のことを? 転送魔法の打ち合わせって言われて連れてこられたんですけど……」
ひととおり味わってから言うのも何だが、王子さまとふたりでこんなにのん気にお茶をしている場合なのだろうか。呼び出されるなんて、そうとう深刻な話があるのではないか。
「そうだね。君がもとの世界に帰る話と、全然関係のない話ではないよ」
「と、言うと……?」
まさか、転送魔法が使えなくなったとか? 不安になりながら尋ねると、王子は口元だけでふっと笑った。
「そんなにこわがらないで。君にとってもいい話のはずだよ。この前の舞踏会で、君は『祖母のお店を復活させたいからもとの世界に帰りたい』と言っていたね。おばあさまのお店は、どんなお店だったんだい?」
「ブティックです。ええと、完成した服がたくさん置いてあって、お客さまが自由に試着をして選べるような店……。祖母は仕入れも自分でやっていて、地元ではお得意さまも多かったんですよ」
「へえ……。うん、それならなんとかなりそうだ」
王子は、仮面の奥の目を細めて、ぶつぶつとつぶやいていた。
「あの……?」
「ケイト。この世界でおばあさまのお店を再現するのはどうだい? 君の言っているようなお店だったら、私の力で作ってあげられるよ。そうしたら、もとの世界に戻る理由はなくなるよね?」
「――え?」
思わず、大きな声で聞き返してしまった。信じられない気持ちで王子を見る。
「だって、そんな理由だったら別にもとの世界にこだわる理由はないだろう? おばあさまはもう亡くなっているんだし、こっちでお店を出しても君の夢は叶うんじゃない?」
「それは――そうかもしれませんが」
他人の力でおばあちゃんのお店を復活させても、それは自分の夢を叶えたことになるのだろうか。それにどうして王子は、私にここまでしてくれようとするのだろう。
「そしてね。そのかわりというわけではないんだけど、ケイトには私の妻になって欲しいんだ」
「――え!?」
今度は、さっきよりも数倍大きい声が出た。
なんなのだ、ここ最近のプロポーズラッシュは。しかも毎回、喜んでいいのかよくわからない状況での。
「ちょ、ちょっと待ってください。殿下と私は、舞踏会で一度会っただけですよね。そもそもなんで私なんかを妻にしようと……」
「一度会っただけ、じゃないよ」
静かな声で、王子が告げた。私と王子が、動きを止めたま見つめ合う。部屋の空気も止まった気がした。
「まだ気付かない? こう言えばいいかな。ケイト、私の贈ったブローチは気に入ってくれた?」
「まさか……」
私の見つめる前で、王子はすっと仮面を外した。隠れていた目元と鼻が露わになる。
そこにいたのは、私のよく知っているあの人。金髪碧眼でつかみどころのない、『王子さまみたいにかっこいいです』という褒め言葉を笑っていた、あの――。
「黙っていてごめんね。私の本名は、ウォルナット・フリルテリア。正真正銘、この国の第二王子で、君たちのお店の顧客だよ」
ウォルは、優しいのに深い眼差しの、あの笑顔を私に見せる。
「ウォルさま、だったんですね……。みんなは、三兄弟は、知っていたんですか?」
「気付いていたと思うよ。その上で、知らないふりをしてくれていたんじゃないかな」
クラレットがやたら警戒していたことや、アッシュが『ウォルの接客はなるべくするな』と言っていたこと。毎回いつの間にか歩道から消えてしまっていたこと。そして、大晦日の日のあの服装も――。
これだけヒントがちりばめられていたのに、どうして気付かなかったんだろう。
「私だけ……何も知らなかったんですね」
「無理もないよ。王族なんて遠い存在だと思っていただろうからね。でも、これでわかってくれたよね? 私がケイトを気に入って求婚しているということ、おばあさまのお店についても本気だということ」
ウォルは何度も、『ケイトを気に入っている』と言ってくれていた。それを私は単純に、『自分を特別扱いしない人への興味』だと思っていたけれど、そうじゃなかった。
「わかります。でも……ごめんなさい。お受けすることはできません」
私の言葉を聞いたウォルの顔から、すぅっと表情がなくなった。
「――どうして? もう、君がもとの世界に帰る理由はないはずだよね?」
瞳の色が、つめたい。アッシュの作られたつめたさとは違う、思わずこちらが竦み上がってしまいそうな、威厳と風格。
ああ、ウォルは、この人は、間違いなく王子なんだ。
「ウォルさまの力でお店を建てても、それは自分で夢を叶えたことになりません。私は、自分が店員として成長してから、自分の力でお店を出したいと思ったんです」
「夫婦が、夫の力を借りるのは普通のことじゃない?」
「いえ、そもそもウォルさまとは結婚できないので、力も借りられないんです」
「どうして結婚できないんだい? 損になることは何もないはずだよ。側室は多いけれど私は妻たちを平等に愛しているし、君にも苦労やさびしい思いはさせないつもりだ」
ここまで言ったら『自分に恋愛感情がない』と察してくれそうなものだけど、なおもウォルは食い下がる。そもそも、王族からの結婚ってどういうふうに断ったらいいものなのだろう。「私にはもったいないお話すぎて」なんて、ウォルには通じないと思うし。
「実は……、私の故郷の国では、他に妻がいる男性との結婚を禁じているんです。結婚は一夫一妻ではないといけないと……。なので……」
口から出まかせだが、王子の結婚を断った、と言われて大変なことになるよりはいい。
「ふうん……。嘘でしょう?」
ウォルが、挑発するような笑みを浮かべた。
「う、嘘じゃないです」
「君自身が、真剣な気持ちを嘘で踏みにじるのが嫌いなはずだよね? ケイトはそういう人間だと思っているよ。自分がされて嫌なことを他人にして、君は平気なの?」
図星を突かれて、うっとなった。
「……ごめんなさい。自分の力でお店を出したいのは本当のことですが、ウォルさまと結婚できないのは別の理由です。好きな人がいるから、ウォルさまのことを恋愛感情で好きにはなれないんです」
「君の好きな人は、アッシュだね。見ていればわかるよ。それで、アッシュは何て言っているの?」
「私が好きだということは伝えていないですが、ほとんど失恋したようなもので……」
「ならまだ、私にもチャンスはあるわけだ」
消え行く語尾にかぶせるように、ウォルが言い聞かせるようにして発音する。
「このまま黙って君を帰さないよ、ケイト。私からの求婚を断るという無礼を働いたのだから、君とアッシュには私からの要求を呑んでもらう」
ひた、と私と見つめる瞳に、温度をなくした表情に、肌がざわりと粟立った。
「ちょっと待ってください。アッシュさんは関係な――」
「アッシュが自分の口で、『俺は関係ない』と言うなら、認めてあげるよ。言わないと思うけどね」
「そんな……! それに、要求って……」
「私と、勝負してもらうよ。勝ったほうがケイトを好きにできる。嫌とは言わせない」
ウォルの言葉を聞きながら、私はこの世界に飛ばされた日よりも、混乱と恐怖に襲われていた。




