(7)
姿勢を正したアッシュと、対面のソファに座り直した私の間には、気まずい沈黙が流れていた。
「人に無理やりキスしておいて謝るなんて、どういうことですか。女のプライドを粉々にして楽しいですか」
冷たく言い放つと、アッシュは苦渋に顔を歪めた。腹切り前の武士みたいな物々しい表情だけれど、反省されればされるほど余計に腹が立つ。
こっちは途中からアッシュのキスを受け入れてしまったというのに、これでは私だけが恥ずかしいではないか。
「……本当に、すまない。今まで酒を飲まないようにしていたのも、こうなってしまったのにも理由があるんだ。ここまでして隠しておくことはできないから、懺悔だと思って聞いてくれないか」
あの絶対零度男が、下手に出ている。今はその面影もなく溶けかけの氷みたいだ。
適当な言い訳だったら許さない、と思いながら渋々うなずいた。
「何から話せばいいのか……。人に話すのは初めてのことだから、わかりにくかったらすまない」
ぽつぽつと、慎重に言葉を選びながら、アッシュは話し始めた。
「俺は、俺たち兄弟は、幼少期から人を魅了してしまう性質を持っていたんだ。人は俺たちに好意を持ちやすく、どんな大人からもかわいがられた」
「えっ、それは見た目がかっこいいから、とかそういうことですか?」
「いや……外見の問題だけではないらしい。人に聞いたところによれば、甘い匂いがすることがあるそうだ。ケイトも感じたことはないか?」
「……あります。さっきも……」
普通に聞いたら信じられないような話だが、何度もそれを実体験している私はうなずくしかない。
「その匂いを嗅ぐと、見惚れてしまって頭がぼうっとしたり、逆らう気がなくなったりするそうだ。さっきもそうならなかったか?」
「ぼうっとは、しましたけれど……」
つまり、さっきのキスで私が抵抗できなかったのは、私のせいではない、とアッシュは言いたいのか?
「セピアやクラレットはそんな性質も嫌ではないらしく、うまくコントロールして自分のものにしていたな。俺は……、自分が努力したこと意外で自分の価値が決められてしまうのが嫌だった。俺ではなく、俺の描いたデザイン画や、ドレスそのものを見て欲しかった。自分の意思ではないのに、人に勝手に好かれてしまうことも怖かった」
私だったらどうだろう……。人に好かれるような力なら、嫌ではないと思う。人に嫌われないように顔色を伺ったり、噂話を怖がったりするよりはずっとマシだ。
でも、アッシュはそうではなかった。この人は強くて、潔癖で、まっすぐだから。私にないものを持っている人だから。
「俺の場合、気を抜いたときに匂いが漏れてしまうとわかってからは、酒に酔わないようにしたし、常に神経を張って気が緩まないようにしていた。誰にも隙を見せないよう、自分にも他人にも厳しい態度でいるよう心掛けていた」
本当は優しい人なのにそれを隠しているような違和感があったのは、そのせいだったのか。冷たい態度は、アッシュが自分の身を守るための氷の檻だった。
「ただ、ケイトだけは……。出会ったときから予想外の、突拍子もない行動をしたりするから、時々気が緩んでしまうことがあった。そのあとすぐ、気持ちを立て直そうとしたが、漏れていたこともあるだろう」
今まで何回か感じたことのある、アッシュの甘い匂い。役場まで案内してもらってお礼を言ったときも、『アッシュさんって、本当は優しいですよね』と告げたときも。そして、新年の人混みで手を握ったときも。
それを嗅いだときはいつも、アッシュが私の言葉や行動に慌てていた場面だった。
驚いたあとは必ず、冷たい態度を取られたことを思い出し、「そういうことだったのか」とやっと納得がいった。
「今まで気を付けていたのに、こんな失態を犯してしまうとは申し訳ない。君の――その、唇を無理やり奪ってしまったことも」
ためらいながら改まって言われると、余計に恥ずかしい。ついアッシュの唇を見てしまい、顔がぼっと赤くなるのがわかった。
「未婚の女性の唇を奪うなど、あってはいけないことだ。責任を取らせて欲しい」
「いやあの、そこまででは――」
多少激しかったとはいえ、キスをしただけだ。だけ、と言ってしまうのは悲しいが、最後まで無理やりされたわけではないのだから……と思っていると、アッシュが真面目な顔で予想もしなかった台詞を吐いた。
「ケイト。俺と、結婚してくれないか」
「――はぁっ!?」
責任って、そっち? あなたは何時代の人ですか? と思ったけれど言葉も出なかった。
「急に結婚と言われても考えられないだろうから、まずは結婚を前提として付き合って欲しい」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「この世界にはケイトの親御さんもいないから、無断で結婚することになってしまうが……」
「そういうことでもなくて!」
思わず大声を出してしまった。肩で大きく息をしていると、アッシュがしゅんとした顔をしてうつむいた。
「嫌か?」
上目遣いで尋ねられて、ドキッとしてしまう。なぜこのタイミングで可愛げを見せるのか。
「嫌というか、だって私はもとの世界に帰るんですよ?」
「帰らなければいい。ずっと俺たちの店にいればいい」
「そっ……」
だれよりもアッシュから聞きたかった台詞を、こんなかたちで聞くことになるなんて。
「そんな簡単に言わないでください。それに……、アッシュさんは責任を取りたいだけで、私のことが好きなわけじゃないんでしょう?」
「それは――」
口ごもってしまったアッシュの表情を見て、胸がズキンと痛む。まぶたがじわっと熱くなったのを悟られないように、さっと立ち上がった。
「私のことが好きでもない人と、お付き合いも結婚もできません。今日のことは忘れますから、アッシュさんもそうしてください。もとの世界に戻るその日までは、お店で働いていたいので……」
「ケイト、俺は――」
「私、先に帰ります。馬車は自分で拾いますから……。さよなら」
まだ何か言いかけていたアッシュを置いて、分厚い木の扉を閉める。
ぱたん、と音がした瞬間、涙があふれてきた。
「……う、ぅっ……」
こんな悲しいプロポーズをされて、自分の気持ちをやっと自覚した瞬間、失恋してしまった。
好きなんだ。私はずっと、アッシュのことが好きだったんだ――。
一年で離れてしまう世界だから、会えなくなってしまう人だから。自分の気持ちに蓋をして、見ないようにしていた。
それなのに……。あんなキスで、無理やりこじ開けられて、暴かれて。
「知ってた。アッシュさんが私を好きじゃないことくらい、知ってたのに……」
どうして、ほんのり片思いをしたまま帰らせてくれなかったの。そうすれば、切なさと寂しさはあっても、こんなに悲しい気持ちで泣くこともなかったのに。
アッシュの性質でもなく、甘い匂いのせいでもなくて。ただずっとあなたを見続けていて好きになったということを、伝えられないまま私はこの世界からいなくなる。
それで、いい。余計なものを残したいなんて、去るほうのわがままだ。
きれいにいなくなるから。みんなのいい思い出になれるように、最後までがんばるから。
――だからもうちょっとだけ、泣いていてもいいですか。
扉に背を預けて座り込んだまま、私は涙が止まるまで泣き続けていた。私が帰るまで、扉が内側から開くことはなかった。




