(6)
「ケイト、ここにいたのか」
「アッシュさん」
踊りがひと段落したあとは、ホールの端に料理が並べられた。お酒を飲む人、踊る人、おしゃべりをする人、のみっつになんとなくかたまりがわかれている。
私はそれらのどれにも属しないすみっこで、壁にもたれかかってカクテルを飲んでいた。
たくさんの女性にダンスを迫られていたアッシュが、疲れ切った顔で近寄ってくる。
「お疲れさまです。ここで見ていましたが、アッシュさん、大人気でしたね」
「本当に疲れた。やはりこういう場より、作業室で針を握っていたほうが自分の性分に合っている」
動いて喉が渇いたのだろうか。黒服がさっと差し出したお酒をおいしそうに飲み干している。アッシュがお酒を飲むところを見たことがないけれど、この飲みっぷりだと強いのかも?
「ケイトこそ、大丈夫だったのか。第二王子とのダンスは」
「意外と大丈夫でした。悪い人ではない気がします。でも……」
「でも、どうした」
黒服が、空になったグラスのかわりにアッシュにおかわりを渡す。アッシュはお礼を言ってそれを受け取った。
「なんだか、よくわからない人でした。つかみどころがなくて少し怖いような、不思議な気持ちです。何が言いたかったのか、よくわからない……」
「そうだろうな。そういう人だというのはわかる」
結局、めずらしいから異世界人に会いたくて、いろいろ質問したかっただけなのだろうか。自分のお祝いだというのに王子の姿は消えてしまったし、周りはそれでも勝手に盛り上がっているし。
「楽しそうですね、みんな」
若い令嬢たちは女同士集まっておしゃべりに精を出している。パートナーは大丈夫なのかと心配になるところだが、若い男たちもお酒を飲みながら笑い声をあげているし、問題ないのだろう。同窓会でよく見る構図だ。
「ああ。どうして若い令嬢が多いのか、とさっき聞かれたな」
「側室を吟味するため、ですよね?」
「そう思っていたのだが、違うかもしれない」
「どういうことですか?」
私が尋ねると、アッシュは遠くを見るようにしてホールに目をやった。
「他の晩餐会や舞踏会では、もっと年上のものが中心になるだろう。どうしてもマナーや教養に厳しくなるし、社交慣れしていない若い令嬢は気後れしてしまうことが多い。でもここでは、同じ年代の者が多いから肩の力を抜いているように見える」
「確かに。特に王子がいなくなってからは、わきあいあいとした雰囲気になってますね」
エリザベスさまの晩餐会では、男女で別れることなくつねにパートナーと行動を共にする人が多かった。他の同性と長話している人はあまり見かけなかったし、話したとしてももっとかしこまった感じだった。年配貴族の目が光っていたというのもひとつの原因だろう。
「第二王子は、社交界デビューする令嬢を慣れさせるために、こういった場を提供しているんじゃないか、早々に本人が退散してしまったのもそのためじゃないか、と感じた」
「……そんな。でも確かに、つじつまは合います……」
側室を吟味する目的なら、私としか踊らなかったのはおかしい。
同世代の女性が集まるこの場で友人を作っておけば、これから先参加するいろんな晩餐会や舞踏会が楽になるはずだ。貴族だって、知り合いがいたほうが気持ち的に楽に決まってる。
あの王子は本当に底が見えないけれど、私が思っているより『国民』のために動いているのだということはわかった。
「……動いたせいで熱いな」
首元に窮屈そうに指を入れながら、アッシュが息をついた。
「君、すまないがもう一杯もらえるか。ああ、その赤ワインではなくそっちの……」
黒服に注文をつけて、三杯目になる白ワインをごくごくと飲み干す。
「あの、大丈夫ですか? そんなに一気に飲んで」
「問題ない。水だろう、これは。フルーティーな風味はするが、レモンでも浮かべてあったのだろう」
「えっ」
驚いてアッシュを見上げるが、耳がほんのり赤くなっている。自分で気付いていないのだろうか。
「ち、違いますよ、たぶん。水だったら他の黒服が形の違うグラスに入れて配っていましたし。アッシュさんがさっきから飲んでいたのは、白ワイン……」
「――え?」
私の顔と、空になったグラスを、アッシュが交互に見る。おそるおそる、グラスに鼻を近づけて匂いを確認したあと、額を押さえてうつむいた。
「まずい。油断した。どうして気付かなかったんだ。場慣れしていないせいで舌が緊張して、味がわからなかった」
「あ、アッシュさん?」
油断、とか、緊張、とか、およそアッシュには似合わないような言葉が飛び出して、混乱してしまう。
「すまない。俺は酒に弱いんだ。今まで人前では飲まないようにしていた。つまり……」
「つ、つまり?」
「――酔ったみたいだ」
茹でたエビが急に色を変えるみたいに、アッシュの顔がしゅわっと赤くなる。
呆然とその様子を見つめていると、アッシュがふらりと倒れ込んできた。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?」
思わず抱きとめてしまったが、重い。私の肩の上に顎を載せるようにして、アッシュが荒い息を繰り返している。
「大丈夫じゃ、ないようだ」
「えええ……」
近くにいた貴族が、「まあ!」という顔でこちらを見てくる。カップルがいちゃついていると思われたらしい。
「ああ、もう、どうしたら……!」
私は心の中で、『一難去ってはまた一難』というもとの世界のなつかしい諺を思い浮かべていた。
* * *
結局、近くにいた黒服に手伝ってもらって、手頃な大きさの控え室まで運んでもらった。小さめとは言っても、お店が丸ごとすっぽりおさまってしまうくらいの大きさだが……。
軽い球技はできるくらいの広々とした部屋に、豪華なゴブラン生地のソファセットだけがどーんと置いてある。
「では、ここにお水とおしぼりを置いておきます。何かありましたらテーブルの上のベルでお呼びください」
「ありがとうございます」
教育の行き届いた黒服が行ってしまうと、長いソファに横たわったアッシュとふたりきりになった。
「アッシュさん、大丈夫ですか?」
おでこにおしぼりを置いてみるけれど、反応がない。目を閉じたまま眉間を寄せて、苦しそうな呼吸を繰り返している。
寝ているのか気絶しているのかわからなくて焦ってしまったけれど、黒服が「大丈夫ですよ。こういう場ではよくあることなので」と落ち着いていたのでたぶん大丈夫なのだろう。
でも、なにもできないのがもどかしい。水を飲ませたほうがいいのだけど、このまま与えても逆にむせてしまって危険だし。
せめて、クラヴァットと襟元のボタンをゆるめてあげたほうがいいのだろうか……。
クラヴァットをゆるめ、なるべく肌に触れないように苦戦しながらボタンを外していると、アッシュの目が開いた。
「アッシュさん、起きたんですね。気分はどうですか? お水、飲めますか?」
顔を近付けて話しかけたのだが、様子がおかしい。目がすわっているというか、いつもと色が違う……気がする。ブルグレーの瞳の中心に、炎のようにちかちかと揺らめく赤い色が見えたような。
「……アッシュさん? 気分が悪いなら、黒服を呼びましょうか?」
本気で心配になって声をかけると、遠くを見ていたアッシュの目が、私をひたと見据えた。
「――っ!?」
その瞬間、むせ返るような甘い芳香が、濃い霧のようになって私を取り巻いた。
信じられないことだけど、薄い桃色の空気が見える。三兄弟のそばにいるときにかいだことのある、あの甘さとは比べものにならないくらいの、気を失いそうになるくらいの甘い匂い――。
頭がくらくらして、目の前がちかちかして、ソファの前に膝をついてしまった。
「……ケイト」
かすれたような声を出して、アッシュが私の名前を呼ぶ。息を吸っても吸っても、桃色の霧しか肺に入ってこない。酸素が足りなくて、くるしい。
一体これは、どういう事態なのだろう。逃げたほうがいいのか、アッシュを起こしたほうがいいのか。考えたいのに、立ち上がりたいのに、頭も身体も動かない。
「アッシュ、さん……は、息、できてますか?」
もうろうとしながら返事をすると、がしっと腕をつかまれた。
「――え?」
抵抗する間もなく、引き寄せられ、後頭部に手を添えられる。
これは、なに? なにが起きてるの?
そう思った瞬間には、私の唇はアッシュの唇に、スタンプのように押されていた。
「――!?」
顔を離そうと思ったのに、がっちり頭を固定されていて動けない。
私が抵抗するのを咎めるように、アッシュの舌が口内に侵入してきた。
吸ったり、絡めたり。少し音を立てたり、軽く噛むようにしたり。
ありとあらゆるキスを試すように、アッシュの唇が、舌が動く。
「……んん……っ」
白ワインの、味がする。夢を見ているようなぼんやりとした頭で、キスが気持ちいいと思っている自分がいた。
――アッシュさんって、こんなに、キスがうまかったんだ。
身体の力がするすると抜けていって、されるがままになる。
もう、逆らう気がなかった。心の中まで絡め取られるようなキスに、このままずっと犯されていたいと思った。
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。私の口の中の温度も、アッシュの口の中の温度も、混ざり合ってすっかり同じ熱さになったくらいの時が過ぎた。
「は……ぁっ。アッシュ、さん……」
唇が離れた瞬間に息継ぎをして、あえぐようにつぶやくと、アッシュの動きがぴたりと止まった。
閉じていたまぶたをうっすら開けると、アッシュが目を見開いたまま硬直していた。
「あ、あの? アッシュさん?」
アッシュの手が離れたので、覆いかぶさっていた身体を起こしてソファの前に膝立ちになる。
「俺は……今、何を……。まさか……」
ぶつぶつと呟いているアッシュの顔が、赤から蒼白に変わっていた。
桃色の霧と甘い匂いも、夢から醒めるみたいにさーっと引いていく。
「――ケイト!」
がばっと起き上がったアッシュが、ソファの上で正座し、勢いよく頭を下げる。
「すまない!!」
「……へ?」
さっきまでの甘い空気とは打って変わったただならぬ雰囲気に、私は呆然とすることしかできなかった。




