(3)
「ここか……。仕立て屋スティルハート」
想像よりも小ぢんまりとした建物の前で、しばし逡巡する。文字は読めないけれど、もらった地図と看板の文字が同じだから、間違いないと思う。
白壁に装飾のあるドアという、クラシカルで控えめな佇まい。城下町の喧噪を少し抜けた場所にあるのも、隠し家っぽくてときめく。
迷っていてもしょうがない、入ろう、と決意したとき、内側から扉が開いた。
「あれ? 窓からうろうろしているのが見えたから、お客さんだと思ったんだけど……。どちらさま?」
小動物系の美少年が、扉を押さえたまま屈託のない笑顔を向けてくれる。まだ十代か、二十歳そこそこだろうか。三つ揃えのスーツからフロックコートだけ脱いだようなベストとズボン、蝶ネクタイという恰好で、アッシュよりはカジュアルに見える。
「あっ、あの……。実は役場の人の紹介で」
「あれっ、もしかして君って異世界人? すごく珍しい恰好してるね」
話を切り出すと、あれっというような顔で目をみはられた。異世界人ということよりも、服装のほうが珍しいのだろうか。まあ、年中フォーマルを着ているようなこの世界の人から見たら、だいぶ軽装で珍妙な格好に見えるんだろうなあとは思うけど。
「あ、はい、一応」
「ええ~、すごい。ちょっとよく見せて!」
美少年は、いきなり至近距離まで近づいてきたと思うと、身を屈めるようにして私の服を観察し始めた。ふわふわした茶色の髪とくりくりした大きな瞳が目の前にあって、ドギマギしてしまう。
「異世界の人は女性でもトラウザーズを履くの? この上着はどうして透けているの?」
「とらうざーず……?」
「この、下衣のこと」
美少年がワイドパンツを指差す。
「ああ。はい、向こうでは――」
興味津々に目を輝かせる美少年に説明しようとしたら、またしてもお店の扉が開いた。ボリュームのあるシルエットとけたたましい声が同時に飛び込んでくる。
「セピア! いつまで玄関の外でおしゃべりしているの? お客さまだったら早く入ってもらいなさい」
店内から出てきたのは、迫力のある長身の美女だった。くりんくりんに巻いた金髪はハーフアップでまとめてあり、瞳の色と合わせた薄紫色のドレスを着ている。裾がふわっと広がっており、ぴったりした長袖も肩のところだけパフスリーブになっていて、彼女の華やかな雰囲気に合っていた。
「クラレット。ごめんごめん、珍しい服を見たからつい夢中になっちゃって」
「もう。レディに立ち話させちゃだめよ」
腰に手を当てた美女はセピアに注意すると、私に向かってにっこり微笑んだ。
「珍しいお客様ですわね。ささ、どうぞお入りくださいな」
「あ、いえ、私は客じゃなくて……」
「いいから、早く早く」
セピアに押される形で店内に足を踏み入れる。中に入ると、現代日本の服屋とはやはり違っていた。服屋というより応接室のような雰囲気だ。
天井まで届く、布見本が入った棚。トルソーにかかった巻尺。おそらくサンプルであろうドレスが何着か飾ってある。決して派手ではないのに、目をひくデザイン。美女のドレスもそうだが、身体に寄り添って女性を美しく見せるデザインだ。ふだん甘めの服はあまり着ないのだが、この店のドレスには袖を通してみたいと思った。
「さっき、役場の人の紹介って言ってたよね」
濃い飴色のテーブルと一緒に並べられた猫足のソファに、三人で腰を下ろす。セピアに紅茶と焼き菓子まで出してもらった。客ではないのに頂いてしまってもいいのだろうか。
「あ、はい。実は働き口を探していまして……。こちらが紹介状です」
紹介状をテーブルの上に置くと、クラレットと呼ばれていた美女が眉根を寄せた。
「働くって……。まさかここで? あなたが?」
値踏みするように上から下まで眺められて、いたたまれなくなる。そりゃあ私は彼女のような美女ではないが、さすがに傷つく。
「あの、先ほど行き倒れているところをアッシュさんに助けてもらって……。その縁で役場の方に紹介してもらったんですが……」
こんなに採用が難しい店なら先に言ってくれ、という気持ちで説明すると、クラレットとセピアが同時に目を丸くした。
「アッシュが? あなたを助けたですって?」
「本当に? 人違いじゃなくて?」
なぜそんなに驚くのかと私のほうが戸惑った、そのとき……。
がらんがらん。張りつめた空気を壊すように、ドアベルが軽快な音を立てた。
「ごめんください」
「あら、エリザベスさま! いらっしゃいませ!」
華やかなドレスに帽子をかぶった楚々とした女性が顔を覗かせると、クラレットは表情と声のトーンを変えた。自分もいつもやっていたことではあるが、彼女の変わりようはもはや女優である。
「セピア、あなたはここでこの子の相手をしてて」
「わかった」
向かいに座っていたクラレットが行ってしまい、隣に座ったセピアと残された。初対面の美少年とふたりきりだと思うと落ち着かない。
「とりあえずさ、アッシュが帰ってくるまでお茶でも飲みながらおしゃべりしようか。僕、君の話いろいろ聞きたいな」
「アッシュさん、留守なんですか?」
少しほっとしてしまった。ただでさえ微妙な雰囲気なのに、帰ってきたアッシュに冷たい態度をとられたら心が折れてしまいそうだ。
「うん。どっちみち、お店のことはアッシュがいないと決められないし。ささ、冷めないうちにお茶でもどうぞ」
「あ、ありがとう……」
この世界に来てから、何かを口にするのははじめてだ。カップを口に運ぶと、薫り高いルビー色の液体が、お腹をあたたかさで満たしてくれた。
「……おいしい」
紅茶の味が、もとの世界とあまりにも変わらなくて、安心して涙ぐんでしまった。
「君……」
セピアが、同情と憐みの混じった瞳で私を見つめる。
「そっか、異世界から来て、不安なんだね。大丈夫、僕が力になってあげるよ」
ソファをギシッと鳴らしながら、セピアが密着してきた。
「え、でも、さっきアッシュさんがいないと決められないって」
「働き口のほうじゃなくてさ。寂しさだったら僕が埋められると思うんだけど、どう?」
さりげなく、頬に手を添えられた。セピアの身体から甘い匂いがして、頭がくらくらする。
「ど、どどど、どうって言われても」
顔が熱くなって、鼓動が早くなっているのがわかる。呼吸も苦しい。
「あれ、どうしたの? 顔が赤いけれど」
小動物系の美少年だなんて、大間違いだった。セピアの中身は、小悪魔のような手練れだった――!
「あんたたち、何やってんのよ」
甘い芳香と色気にやられて気が遠くなったとき、クラレットに密着した身体をべりっと引きはがされた。
「何するんだよ。いいところだったのに」
「他のお客さまがいる前で口説かないで。忙しいんだから、おとなしくしててちょうだい」
クラレットは布見本を両手いっぱいに抱えて、エリザベスさまのもとへ戻っていった。大きな姿見の前で一枚一枚合わせているようだ。ついじっくり見てしまう。
「興味あるの? 売り子の仕事」
しぶしぶ対面に座り直したセピアに尋ねられる。
「はい……。もとの世界で似たような仕事をしていたのもあって」
「ふうん。服が好きなんだ」
シンプルな質問なのに、言葉に詰まってしまった。
そう、最初は好きだからこの仕事を選んだはず。それなのに、仕事に追われるうちに好きだとか嫌いだとかいう気持ちは遠くに追いやられてしまった。モールの休憩室では他の店舗のスタッフが疲れた顔をしているし、友達に話すのは人間関係の愚痴ばかり。
服が好き。そんな当たり前の気持ちを今、思い出した。
「そうですね。大好きです……」
「そっか。一緒に働けるといいね」
つぶやくような言葉を返した私に、セピアは優しい微笑みを向けてくれた。頭がくらくらするような甘い匂いは、いつの間にか消えていた。