(8)
クラレットの看病のおかげで、数日後には私はすっかり回復していた。
「うん、今日からはお店に出ても大丈夫そうね」
朝、様子を見に来てくれたクラレットが笑顔で太鼓判を押してくれる。
「良かったあ。クラレット、本当にありがとうね。私ひとりだったら、この世界の薬のこともわからずに長引いていたと思う。あとでちゃんとお礼させてね。お世話になりました」
頭を下げると、クラレットが複雑な顔をしていた。まさかお礼をされるのが嫌なのか、と思ったのだが、少しこそこそした音量で打ち明けられた。
「口止めされていたんだけど……。私だけが感謝されるのもむずがゆいから話しておくわね。あなたの食べていた食事や薬は、アッシュが用意したものなのよ」
「えっ、アッシュさんが……?」
「毎日、メイドにあれこれ注文をつけて消化にいいものを作らせていたわね。薬も、よく効くって評判のいいものをわざわざ自分で買いに行っていたし」
あのアッシュが、わざわざそんなことまでしてくれていたなんて。いや、従業員のために尽くすことを当たり前だと思う人だというのは知っている。
それでも、見えないところでひっそりと彼の優しさを受け取っていたという事実は、私の心臓を逸らせるにはじゅうぶんだったわけで。
「……アッシュさんって、もうお店に来てる?」
焦った口調でたずねる私を見て、クラレットが微笑む。その表情はなんだか、いたずらが成功したときの子どものようだった。
「来てるわよ。ケイトが今日からお店に出れるって言ったら、一緒に早く来たもの」
「お礼言ってくる!」
ナイトドレスのまま部屋を飛び出そうとした私の腕をクラレットがつかむ。
「その前にドレスと髪! お化粧! あなた本当に女の自覚ないわね!」
女教師モードのこわい顔で怒られた。
「はい……」
クラレットに髪と着付けを手伝ってもらい、いつもの二倍スピードで支度を済ませたあと、私は早足で一階に下りていった。
「アッシュさん!」
暖炉の前で紅茶を飲んでいたアッシュめがけて駆け寄ったら、ぎょっとした顔をされた。
「……突進されるかと思った」
「ご、ごめんなさい」
そうだった、この世界の淑女はドレスで走ったりしないんだった。
もじもじしている私の姿を、アッシュがじっと見下ろす。
「今日のドレスのアレンジ、よく似合っているな」
「あ、これですか? ありがとうございます」
今日はモスグリーンのドレスにした。胸元がハート型に開いており、カーブに沿って生成りの糸で刺繍がほどこされている。肩は控えめに膨らんでいて、袖からは生成りの幅広レースが覗いているのがポイントだ。
生成り色と相性のいいドレスだから、クリーム色に近いかぎ編みのショールを肩からかけていた。
髪の毛も、お嬢様っぽく編み込みのハーフアップにして、レース編みのヘアアクセをつけている。『若草物語』とか『サウンド・オブ・ミュージック』のほっこりしたイメージだったのだが、褒めてもらえて嬉しい。
「体調は大丈夫なのか」
口調はぶっきらぼうなのに、心配そうなのが透けてみえるから面白い。
彼のクールさにも、微笑ましいと思えるくらいには慣れたみたい。
「はい、もうすっかり。アッシュさん、ありがとうございました」
「何のことだ」
冷たい瞳で射すくめられて、一瞬硬直してしまった。
そうだ、クラレットはアッシュがいろいろしてくれたことを口止めされていたんだっけ。そのまま話してしまったら、クラレットも私も怒られてしまうことは間違いない。
「ええと……。お休みをくださったり、いろいろ……」
しどろもどろで説明する私を、不審な表情でアッシュが見ている。
「当然のことだろう。それより、俺よりセピアが心配していたのだから、顔を見せてやれ」
「はい、もちろん。あの、セピアくんは……?」
「一緒に来たのだが、ケイトに会うのが気まずいと言って作業室にこもってしまった」
「気まずいって……」
私が一瞬むっとしたのに気付いて、アッシュが「どうした」とたずねた。
「いえ、気まずいのは私も同じなのにって思っただけです。お互いが気まずいなら、避けるより早く顔を合わせちゃったほうがいいのに」
私は自分が風邪を引いたほうだから、そう思えるのかもしれないけれど。
「ケイトらしいな。でもセピアはセピアでここ数日頑張っていたんだ。許してやってくれないか」
アッシュの口ぶりは、兄というより保護者みたいだった。歳の離れた兄弟だからだろうか。
「頑張っていた、って……?」
「それはセピアに訊いてくれ」
アッシュはそう言ったきり、紅茶の続きを飲むことに集中してしまったので、私は返事をあきらめて作業室に行くことにした。
近くにあるのに、普段は足を踏み入れることのない木の扉。コンコン、とノックをすると、扉の向こうで聞こえていた作業音がぴたりと止んだ。
「セピアくん。入っていいかな?」
「うん、大丈夫」
厚い木の板を隔てたせいで、くぐもった声のセピアの返事が返ってくる。
どんな顔で会ったらいいのか、ひと言めに何て声をかけたらいいのか一瞬迷ったけれど、「いいや、成り行きに任せよう」と決めて扉を開けた。
「失礼します……」
作業室の中は、以前入ったときよりも雑然としていた。台の上には型紙や布地が所狭しと並べられ、床には歩くスペースのみ確保して、仮縫い中のドレスが着せられたトルソーが何体も置かれている。年末の忙しさを改めて感じた。
「セピアくん、おはよう。何日も休んじゃってごめんね」
セピアは、作業台の前のスツールに座っていた。私が笑顔なのを見てほっとした顔になる。
今日のセピアの服装は、肘の部分に当て布がついた動きやすいジャケットと、柔らかい生地のトラウザーズ。いつでもぴしっとしたフロックコートのアッシュとは対照的だけど、彼の雰囲気にはよく合っている。
「ケイト……。体調はもう大丈夫? あ、この椅子に座って」
作業台の上を軽く片付けながら、もうひとつあった、おそらくアッシュが普段使っているスツールをすすめられる。
「ありがとう。じゃ、遠慮なく」
座って間近で顔を合わせると、セピアの顔が緊張しているのがわかった。自分から話しかけていいのかどうか、迷っている様子も。
「もうすっかり風邪も良くなったよ。だからセピアくんも気にしないで」
さっきは「往生際が悪いな」なんてちょっと思ったけれど、こんなに反省している様子を見たら責める言葉なんて出てこなかった。
「本当に良かった……。ごめん、僕のせいで何日も寝込ませて……」
「治ったんだから、もういいよ」
うつむくセピアに笑いかける。膝に置いたこぶしをぎゅっと握ったあと、セピアは意を決したように口を開いた。
「あのさ、僕……。ここ数日で今まで付き合ってた女の子全員に会ってきたんだ」
「えっ?」
声がひっくり返ってしまった私とは反対に、セピアはいつになく静かな口調だった。
「今までありがとうってお礼と、好きな人ができたからもう会えない、ごめんって伝えてきた」
すぐには状況が飲みこめない頭で、アッシュが『セピアが頑張っていた』と言っていたことはこれだったのか、と察した。
「ど、どうして?」
訊かなくてもわかっていることなのに、心臓がドキドキ音を立てるから、そんな言葉しか出てこない。
本人の口からわざわざ聞こうとするなんて、自分が計算高い悪女になったみたいで、嫌になる。
「ケイトが、女性関係がだらしない男はダメだって言うから」
セピアからは、予想通りの答えが返ってくる。
「でも私、もとの世界に帰るからどのみちお付き合いはできないって」
「うん、わかってる。でも、そうでもしないと真剣に向き合ってくれないと思ったから。僕が女性関係を清算したって言ったら、ケイトは嫌でもちゃんと考えてくれるでしょう? そういう性格なのを利用してるみたいでごめん。だけど……」
そこで言葉を切って、セピアが私の瞳をまっすぐ見つめる。私は今までちゃんと、彼をこんなふうにまっすぐに見ていただろうか。栗色の大きな瞳がこんなにきれいなことにも、誠実に話をするときに眉尻が少し下がることにも、気付かずにいた。
「僕が真剣なことは、ちゃんとわかって欲しいって思ったから。今までみたいに遊びだって思われるのは嫌だったから」
どうせ本気じゃないって、決めつけていた。セピア本人にもきっと、傷つけるような言葉を浴びせていた。あの夜のことを思い出すと、申し訳なさで胸が痛む。
「自業自得なんだけど、こうなってみて初めて、ケイトにつかみかかったあの子の気持ちがわかったよ。遊びだと思われていたのがショックだった、っていう気持ち」
そこまで語ると、はっとしたようにセピアが身を乗り出した。
「あ、彼女にも謝りに行ったよ、もちろん。わかってくれたし、ケイトにしたことも反省してるみたいだった」
「そう……」
きっと悪い子ではないのだろう。私と似たような不器用さを感じる子だった。出会い方が違っていたら、友達になれたかも。
「真剣な気持ちで好きだって言ってくれたの、わかったよ……。ありがとう、セピアくん。この前はひどいこと言っちゃってごめん……」
「いいんだ。僕が今まで適当なことしてたツケが返ってきただけだから。これからはもっと真剣に考えるようにするよ、他の女の子の気持ちも、自分の気持ちも」
やっとさっぱりしたような顔で告げるセピアは、いつもより大きな――大人の男性に見えた。
「そう思えたのはケイトのおかげ。だから、振られるってわかってても自分を変えようって思ったんだ」
「そっか……。今のセピアくんのほうが、ずっといいよ」
「最初から今の僕だったら、ケイトは好きになってくれたかな」
「それは……」
何と答えたらいいものか考えていると、セピアが寂しそうに微笑んだ。
「ごめん、変なこと訊いちゃって。ケイトには他に好きな人がいるってちゃんとわかってるから」
「――ん?」
今セピアは、“私に”好きな人がいるって、言った?
「セピアくん、ちょっと待って。なんか勘違いしてない?」
「え、してないよ。だって――」
私が前のめりになった瞬間、作業室の扉がガチャっと開いた。
「もうそろそろ開店の時間だ。準備しなくていいのか、ケイト」
慌ただしさを集めたような部屋に似つかわしくない、整いすぎた外見のアッシュがつかつかと入ってきた。
セピアを気にしながらも、私に含みのある目線を送ってくる。
「あ……。ごめんなさい。すぐ出ます」
無事に話は終わりました、という意味をこめてうなずいた。
もう少しセピアを問い詰めたかったが、仕方ない。もしかしたら、もとの世界に片思いしている人がいるって思っているのかも。恋人がいないのに帰りたいのはおかしい、みたいなことを最初に言われたし。
「私がいちばん未練があるのは、おばあちゃんのお店だよ」
扉を閉めて、ふたりの気配を背中で感じながら、胸に落とすようにつぶやいた。
世界でいちばん大好きだった祖母は、もういない。祖母の残した夢があるだけだ。
だから帰りたい。帰らなければいけない。なのにどうして、戻ることを考えただけで泣きたい気持ちになってくるんだろう。この世界に来てから過ごした数か月が、あまりに濃すぎたからなのかな。
一年なんて、あっという間だ。最初はすごく長いと思っていたけれど。
だからこんな余計な感傷は、捨ててしまわなきゃ。笑っても泣いても、別れのときは必ず来てしまうのだから。




