(2)
夢から目覚めるときのように、手放した意識がだんだんと戻ってくる。目はまだ開けられないけれど、聴力は先に復活したらしい。
ざわざわ揺れる喧噪の中、ヒヒーンという馬の声と蹄の音が聞こえる。天国には馬がいるのか、知らなかったな。
「――おい、君」
暗い視界の淵から、低くて甘い男性の声がする。心地よくて目覚ましボイスにはもってこいだけれど、もう少し寝かせて欲しい。生きているうちは忙しくて、睡眠時間も満足にとれなかったのだから。
「ここで寝ていると馬車に轢かれて死ぬぞ。起きろ」
……死ぬ? だって、私はもう死んでいるんじゃ。
なんだかおかしいと思って上半身を起こすと、目の前に彫刻と見紛うばかりの男性の顔があった。
「ひゃっ……!?」
その近さに思わず悲鳴を漏らすと、膝立ちで私の顔を覗き込んでいた男性は、立ち上がって膝を手で払った。
「やっと起きたな」
耳にかかるくらいの長さの、つやつやの黒髪。青みがかった灰色の瞳。繊細で彫りの深いパーツ。外国映画から出てきたみたいな、現実味のない美形。
眉を寄せて、やたらとひんやりしたオーラを発しているけれど、天使はこんなに不機嫌なものなのだろうか。
「珍妙な格好をしている外国人だと思ったが、君の国では道端で寝る習慣があるのか。ここではやめておいたほうがいい。それじゃ」
「外国……? ちょっと待って。ここはどこですか。天国じゃないの?」
踵を返した男の腕をつかんで引き止めたとき、男性の服装が結婚式に行くようなフロックコートなことに気が付いた。瞳の色に近いブルーグレーの三つ揃えは、やたらと身体に馴染んでいる。
「天国? ここはフリルテリア国だ。もうすでに、馬に頭を蹴られたあとだったか? それとも君は死にたくて道端に寝転がっていたのか?」
美しい顔に似合わないひどい台詞を投げつけられたが、私が注目したいのはそこではない。
「フリルテリア国?」
聞いたことのない国名だった。でもとにかく、自分が生きていることは分かったのだ。
それならばなぜ、知らない場所にいるのだろう。気を失っている間に誘拐でもされたか、海外に傷心旅行に来たけれど記憶喪失になったのか。道端で倒れていたことを考えると、後者はかなりあり得そうだと思う。
街並みを見回してみるけれど、明らかに日本ではなかった。
灰色の石畳と、形のそろった背の高い、でこぼこした白壁の建物たち。カラフルな屋根、小さな窓にはまった木の格子。
通りを行き交う人たちの服装もクラシカルだし、本物の馬に引かれた馬車も走っている。現実味がなく、まるでテーマパークのようだった。
明らかに日本人ではないこの男性に言葉は通じるみたいだし、どこかの映画村と言われたほうがしっくりくる。
「ええと、ここはヨーロッパですか? それとも、フリルテリア国って名前の日本の映画村?」
「ヨーロッパ……、ニホン……?」
男性はカタコトのイントネーションで呟いたあと、よりいっそう顔をしかめた。
「外国人じゃなくて、異世界人だったか。面倒なものを拾ってしまったな」
「あの、今何て?」
「ついて来い。役場までだったら、送ってやらないこともない」
「ま、待って」
自分の周りに散らばっていた鞄とその中身をかき集めて、すたすたと歩き出してしまった男性の後を追う。ものすごく姿勢が良く、歩き方にも迷いがない。ただの一般人ではない気がする。
ほぼ競歩くらいの速度で隣に並んだ私に対し、正面を見据えたまま男性は訊ねた。
「君、名前は」
「桜井恵都、です」
「ケイト、か……。名は普通だな」
「あの、あなたは?」
たずねると、やや間があってから男性の答えが返ってきた。
「――アッシュ・スティルハートだ」
「アッシュ、さん。もう少しゆっくり歩いてくれませんか」
だんだん息があがってきた。アッシュはやっと私を見下ろすと、ため息をついた。そもそも足の長さが違うのだから仕方ないじゃないか。私だって平均身長以上はあるけれど、アッシュは頭一個分以上高い。
「あの、さっきの質問は」
「君の質問には役人が答えてくれるだろう。俺は送り届けるだけだ。それ以上のことは期待するな」
ぴしゃりと言い放たれて、何も訊けなくなる。
この絶対零度男、と心の中で悪態をついたが、いちおう助け起こしてくれて道案内までしてくれている。口調と態度は冷たいけれど、案外親切な人なのかもしれない。
「……よく分からない人」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
少し速度を落としてくれたアッシュに聞こえないよう、小さくため息を吐いた。
* * *
「着いたぞ」
無言で歩いていたアッシュが足を止めたのは、白い石造りの大きな建物の前だった。
「え……、ここ、お城じゃないですか!」
そう、どこをどう見てもお城だった。
四角形の建物と円柱状の塔を合わせて三角屋根をつけたデザインで、屋根にはいくつもの国旗がはためいている。
敷地のまわりには川と言っていいほど広い堀があり、車がゆうにすれ違えるくらいの幅の、木でできた跳ね橋がかかっている。
お城をぐるりと取り囲む堅牢な門の入口には、重そうな甲冑姿に槍を持った兵士たちが微動だにせず立っていた。
「そうだが?」
「中に入ってもいいんですか? 観光スポットなの?」
「城の中に入るわけじゃない。敷地内にある役場に行くだけだ」
「お城の中に公共施設があるんですか……?」
アッシュがひややかな目で私を見つめてくるので、黙ることにした。
門に立っている兵士は私に対して警戒の目を向けたが、アッシュがひと言ふた言説明すると、そのまま通してくれた。
お城の隣に別棟のように鎮座している、そっけない灰色の正方形の建物に、迷いない足取りで入っていく。
「ス、スティルハートさん! 今日はどうしたんですか?」
カウンターのうしろで座っていた役人らしき人が、アッシュを見てあわてて立ち上がった。建物の中は飾り気がなく、海外も役場はこんな感じなんだなと変なところで感心する。
「迷子を連れてきたのだが」
迷子って。もう少し言いようがあるんじゃないのか。
「はあ……。見たところ外国人のようですが」
「どうやら異世界人のようだから連れてきた」
「えっ……」
「送り届ける責任は果たした。あとはお願いする」
呆然としている役人さんに私を託して、さっさと扉まで去ってしまったアッシュに声をかける。
「アッシュさん、待って!」
「……何だ」
アッシュは扉に手をかけつつも、一応立ち止まってくれた。
「あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、アッシュは目を丸くしていた。なぜ驚く?と思ったあと、ぎろりと睨まれた。
「あんなところで死なれても目覚めが悪いから連れてきただけだ。勘違いするな」
「なっ……」
ものすごく力のこもったしかめ面を向けられて、硬直する。
「じゃあ、俺はこれで」
絶句したまま扉のむこうに消えるアッシュを見送った。
なんなの、お礼を言っただけなのに。本当は親切な人かもと思った自分が馬鹿みたい。かっこいいと思ってしまった人にあんなに冷たくされるなんて、自分で思っていたよりもショックだ。
「あの~、とりあえずこちらに座っていただけますか?」
ぷりぷりしていると、役人さんがおそるおそるといった様子で声をかけてくる。
「あ、はい」
あわてて仕事用の笑顔を返し、カウンターの前にある椅子に腰をおろす。
対面に座った役人さんは、丸眼鏡をかけた、いかにも公務員という感じの人だ。とりあえず、不法入国扱いをされなかったことにほっとする。
「あの、質問してもいいですか。さっきの人がイセカイジン、って言ってたと思うんですけど」
「ああ、そうですね。あなた――ええと、名前は?」
「桜井恵都です」
役人さんは、うんうんと頷きながら書類になにかを書き込んでいる。
「ケイトさんね。簡単に言うと、ケイトさんはここではない別の世界から来たようですね」
「――は?」
お医者さんが『風邪のようですね』と言うときのような、ごくふつうのトーンでとんでもないことを言われた。
「ケイトさんのいた世界は何という名前でしたか?」
「ええと、地球?」
「そのチキュウ、とここは別のものです。似ているようで違うもの、と言えばいいでしょうか」
どういうことだろう。まさか、知らない間に宇宙旅行をしていたとでも言うのだろうか。
「多次元宇宙、と私たちは呼んでいるんですけれど……。それは例えばこの本のようなものなのです。ケイトさんのいたチキュウ、がこのページ、私たちのこの世界が次のページだとします。世界に住む人々はページに印刷された文字のようなもので、ふつうだったら自分のページを出ることはないのですが、ページが破れたり、くっついたりして、文字だけぽろっと零れ落ちてしまうことがある。こんなふうに」
役人さんは見慣れない文字の書かれた本のはじっこを、ぴりっと破った。
「零れ落ちた文字は別のページに着地します。今のあなたはこの状態なんです。チキュウ、とこの世界はページが近いらしく、ときおり来るんですよ、ケイトさんのような異世界人が」
役人さんが、こんな真面目な顔で冗談を言うわけがない。これが現実のことだと、理解の遅い私にも分かった。
「こんなこと、小説とか映画の中だけのことだと思っていたのに……」
うさぎを追いかけて不思議の国に行く物語も、箪笥の向こう側が魔法の国だった児童文学も、子どものころ大好きだった。異世界への入り口が従業員階段だなんて、ロマンがないけれど。
誰も知らない、違う世界に行きたいと呟いてしまったことを思い出す。こんなに不安で混乱するものだなんて想像もしていなかった。軽々しく消えたい、なんて思ってしまったことの罰なのだろうか。
「あの、もとの世界に帰る方法はないんですか? 職場も無断欠勤になっちゃうし、私一人っ子だから親に心配かけたくないんです」
必死で訴える私に、役人さんはかわいそうなものを見る目を向けた。
「そうですよね……。実は、帰る手段はなくはないんです」
「本当ですか?」
「はい。エルフなどの魔法種族何人かで転送魔法を使えば、もとの世界に飛ばせるかもしれません」
エルフ、魔法種族。また頭の痛くなるような単語が飛び出したが、転送魔法という台詞に体温が上がった。
「なら、それをやってください!」
思わず、カウンターから身を乗り出す。役人さんは引きつった笑顔を浮かべたまま、身体を後ろに引いた。
「ただですねえ……、魔法種族というのは気難しい人たちが多くてですねえ……」
「はあ」
「割と高めの報酬がないと、人間のために動いてくれないんですよ」
お金。ファンタジーな世界なのにそういうところは世知辛い。
「それってどれくらい必要なんですか?」
「ざっとこれくらいですね」
役人さんはカウンターに備え付けてあった羽ペンを取って、紙の上に数字をさらさらと書きつける。ゼロがたくさんあるのは分かったけれど、この世界の物価が分からない。
「あの、これってどれくらいの金額なんですか?」
「ああ、そうですよね、すみません。だいたい、一年間必死で働けば貯められるくらいの金額ですよ」
「――え?」
今、なんて? 耳を疑いたくなるような言葉が聞こえた気がするけれど……。
「ケイトさんは言葉も通じるみたいですし、どこかで仕事をしてお金を貯めるということになりますね。もちろん、住居など最低限の生活はこちらで保障させてもらいますが、さすがに転送魔法の費用を国庫から出すわけにはいかないので」
どうやら聞き間違いではなかったようだ。なんだか、親切なようで残酷なことを言われているような気がする。
「つまり、帰るためには一年間この世界で仕事をしろと……」
「そういうことになりますね。ちなみに、もとの世界ではどんなお仕事を?」
「アパレル……、服屋の店員です」
「服屋……。仕立て屋の売り子ということですか?」
仕立て屋ということは、ここはまだ既製服が出回っていない世界なのだろう。着るものはすべてオーダーするか、自分で作るしかない。贅沢なようでちょっと不便な時代。
「たぶん似たような感じだと思います」
「ああ、それならちょうど、さっきケイトさんを連れてきてくださったスティルハートさんが仕立て屋を経営なさってるんですよ。この国で一番繁盛している仕立て屋ですから、もしかしたら雇ってもらえるかもしれませんね」
「アッシュさんが仕立て屋?」
少し――いや、だいぶ意外だった。私の周りにいるアパレル関係の男性は、物腰が柔らかくてフェミニンな人が多かった。女性を相手にすることが多いから、自然とそうなってしまうのだと思う。その点アッシュは、アパレルとも接客とも遠いところにいるタイプに見えたのに。
「貴族とか、そういう感じの人かと思いました」
「当たらずとも遠からず、です。もともとスティルハート家は仕立て屋の一族だったんですけれど、王室への貢献を認められて、先々代くらいで騎士の爵位を献上されたんですよ。我々のような労働者階級とはちょっと次元が違う人たちですね」
傲岸不遜な態度では隠しきれていなかった上品な身のこなしとか、人を使うことに慣れている雰囲気はそういう訳だったのか、と納得する。
「地図をお渡ししますから、訪ねてみたらどうですか。住居は夜までに手配しておきますので」
「ええ~……」
さっきのショックが薄れないうちにアッシュに会うことはためらわれた。が、これで肩の荷がおりた、というふうに微笑む役人さんに、わがままを喚き散らすことはできなかった。