(6)
* * *
次の日の朝。目を覚ますと、視界がぐらぐら揺れていた。頭は重くて痛いし、寒気もする。
「ああ~……。風邪だ。間違いなく」
昨夜は帰ってすぐにお風呂に入ったが、現代日本と違ってお湯を沸かすのにも時間がかかるので、すっかり身体も冷え切ってしまっていた。
「どうしよ……。欠勤の連絡を入れないと」
携帯電話なんて便利なものはないので、一階に降りて直接伝えないといけない。それには寝間着のままではいけないし、せめて顔くらいは洗わないと……。
「ううう……。しんどい……」
服を取って来ようと思ったが、身体がふらふらしてベッドの上に座り込んでしまった。思ったよりも熱が高そうだ。
こんなとき、もとの世界だったら。実家からお母さんが面倒を見に来てくれたり、友達が食べ物や薬を届けに来てくれたっけ。インフルエンザになったときは、元彼がタクシーを呼んでくれて、病院まで付き添ってくれた。
私ってけっこう、恵まれていたんだな。平凡で、なんてことない人生だと思っていたけれど、こうして離れてみるとありがたみがよくわかる。
どうしようかとぼんやりしていたら、階段を上る音が聞こえてきた。
「ケイト、お邪魔するわよ。――ってあなた、どうしたの!」
ドアを開けて入ってきたクラレットの姿を見た瞬間、なぜだかすごくほっとして、視界がじわっと滲んでしまった。
「ちょっと、顔真っ赤じゃない! すごい熱! ああもう、起き上がらないで、横になってなさい!」
額に手を当てられ、毛布をめくられ、すぐさまベッドの中に戻される。
「クラレット、お母さんみたい……。大好きぃ……」
ふふふ、と笑ってつぶやくと、クラレットが不気味なものでも目にしたように身体をぶるっと震わせた。
「……あなた大丈夫? 熱で頭もおかしくなってない? まったく、セピアが心配していたから見に来てみれば、案の定ね」
「セピアくんが?」
「自分のせいで具合悪くしてるかもしれないからって。一応、水枕とか薬とかも持ってきたのよ。あと、スープとか」
ずいっと、布のかかったバスケットを見せられる。鼻はつまっているけれど、おいしそうな匂いがほのかに感じられた。
「……ありがとう、クラレット」
「仕方なく、よ! あなたは身よりがないんだから私が世話するしかないじゃない。それに早く治してもらわないとお店も困るし」
「うん。ごめんね、みんなに迷惑かけて」
「事情は軽く聞いたけれど、今回の件はむしろセピアのせいだと思うわ。まあ、ケイトもこっちに来てから働きづめで休暇もとってなかったし、アッシュも責めたりしないだろうから安心して」
人数が足りていない職場だと、病気になって仕事を休んでも責められる。店長からは直接文句を言われたり、他のスタッフからはあからさまに冷たい態度を取られたり。
自分が迷惑かけたのだから仕方ない、と割り切っていたが、私は今、クラレットの言葉にものすごく安心している。
「……ありがとう」
「ちょっと、泣いてるの? 昨夜のこと、そんなにショックだったの?」
「ちがう……」
毛布をひっぱって泣き顔を隠した私の頭を、ぽんぽんと叩いて「スープあたためてくるわね」とクラレットはキッチンに向かってしまった。
「おいしい。これ、クラレットが作ったの?」
具だくさんのミルクスープは、この世界に来てから食べたものでいちばんおいしかった。いやむしろ、現代でもこの味はなかなか出せないかも。便利な顆粒だしも揃っていない時代なのに、優秀な料理人は腕がちがうんだなあ。
「まさか。うちのメイドよ」
ベッドのそばに椅子を持ってきたクラレットが、サイドテーブルに茶器を置きながら答える。
「め、メイドがいるの? まさか執事とかもいたりする?」
「いちおうね。メイドも執事も必要最低限だけど。これでも貴族の端くれだから、体裁とかもあって面倒なのよね。お店では自分でお茶も淹れるし、料理だって本当は嫌いじゃないんだけど」
クラレットはお客さまがいない時間帯は積極的に掃除をしたり、茶器を磨いたり、家事全般がきっと好きなんだろなと思っていた。家の中でもクラレットが家事の実権を握っているんだろうなと思っていたので、その言葉は意外だった。
「そうなんだ。貴族は貴族で不自由なところがあるんだね」
「そうよお。話を聞いていると、あなたの世界はだいぶ自由でうらやましいわ」
「う~ん。そうだと思ってたけど、あんまり変わらないかも。特に私みたいな人間だとどっちにいても同じような人生っていうか……。恋愛も結局ややこしくなっちゃう運命みたいだし」
自分は望んでないのに、勝手に複雑な人間関係に放り込まれてしまうのはどうしてなのだろう。自分と好きな人だけ、それで恋愛は完結するはずなのに、なぜだかいつも第三者が混ざって自分は置いてけぼりになる。
「やっぱり、セピアのこと気にしてるんじゃない」
「気にしてるっていうか……。さすがにちょっとびっくりしただけで」
クラレットが一緒に持ってきてくれたバゲットを、スープに浸して頬張る。
「泥棒猫、って言われながら水をかけられたんですって?」
クラレットの言葉に、口の中のスープを吹き出しそうになってしまった。
「ちょ、ちょっと、セピアくんそんなことまでしゃべったの?」
「弟は姉には逆らえない運命なのよ。私が『話せ』って言ってセピアが拒否できると思う?」
「思いません……」
しかもクラレットの場合、兄でもあるし。
「それもショックだったんだけど、でも私、その女の子の気持ちがわかっちゃったのがもっとショックだったかな。セピアくんよりその子に同情してた」
自分を好きだと言ってくれた男の子より、ある意味ライバルだとも言える女の子のほうに肩入れしていた。それも、無意識に。
「やっぱり私って恋愛に向いてないし、男性に好かれるような性格じゃないなって再確認しちゃったよ」
自嘲しながらシチューを食べ尽くした私を、クラレットがじっと見ていた。
「そんなに見つめなくても、ちゃんと全部食べたから。ほら」
空になった器をクラレットに見せたら、呆れた顔でため息をつかれた。
「な、なんでため息つくの」
「……あなた、セピアの気持ち、真剣に考えていないでしょう」
見透かすような眼差しで言われて、ぎくっとした。
「だって……。どうしていきなり私に本気になったのかって聞いても答えられなかったし。今までと同じような、大勢いるガールフレンドの中の一人にしたいのかなって思うじゃない」
「……我が弟ながら、不憫で泣けてきそう」
なぜか私が悪者扱いされている。クラレットにじっとりした視線を送られ、ハンカチで涙をぬぐう真似をされた。
「さっきはセピアくんのせいだから気にするなって言ったじゃない」
「それはケイトが風邪を引いたことに関してよ。前提として、セピアは私の弟だから、そっちの肩を持ってしまうのは許して欲しいんだけど……。あの子が答えられなかったのは、きっと恥ずかしかったからだと思うわよ」
「恥ずかしかったから……?」
促すような私の言葉を無視して、クラレットはシチューの器をサイドテーブルに置いた。入れ替わりに紅茶のカップを渡してくれる。
「生姜と蜂蜜入りの紅茶よ。飲みながら聞いてちょうだい」
クラレットが“弟を心配する姉”の表情をしていたので、何も言わずに従った。ジンジャーティーが胃に落ちると、身体がぽかぽかしてくる。
寒気はすっかりおさまったので、熱は上がりきったのだろう。クラレットの適切な看病には感謝しかない。
「あの子はね、両親の愛情をもらえずに育ってしまったのよ」
椅子に腰かけ、肩にかけていたショールを膝に落として、クラレットがぽつぽつと話し始める。