(5)
「あの……?」
声をかけた私に「チッ」と舌打ちしたあと、女の子はセピアにくるりと顔を向けた。
「ひっ」
セピアがちいさな悲鳴をあげる。蛇ににらまれたカエルのように、わかりやすく怯えている。
「――なに、この女。セピアくんはあたしと付き合ってたんじゃないの?」
女の子の肉感的な唇から、セピアたちとはちがうイントネーションの、少々なまりの入った言葉が飛び出した。
異世界の言葉なのに日本語に変換されて聞こえるのは、改めて便利だなと思う。
「き、君、ここのお店の店員だったんだね。この前来たときはいなかったから……」
どもりながら答えるセピアに対し、女の子は不満そうにぎろっと睨んだ。
「ここの通りの店でウエイトレスしてるって、あたし、デートしたときに言ったよね?」
「そうだっけ……」
会話を聞いているうちに、なんとなくこの二人の関係がつかめてきた。女の子とセピアはデートをするような関係で、彼女はそれを付き合っていると思っていたが、セピアのほうは遊びだったということだ。
「で? なんであたしと付き合ってるのに他の女と食事してるの?」
横目で私をじっと見てくる。反り返って胸の下で腕を組み、豊満な体型を見せつけてくるところに彼女の自信が透けて見えた。
くるくる巻き毛の金髪、大きな猫目とそばかすが特徴的な、クラレットとはまた違うジャンルの派手な美人。
さっき告白された身としては気まずい。が、恋人やそういう関係でないということは弁明しておいたほうがいいだろう。早くこの場をおさめたいし。
「あの。私はセピアくんのお店のただの従業員で。あなたの心配しているような関係じゃ――」
「あんたは黙ってて」
女の子にぴしゃりと言われて、口をつぐむ。
「セピアくんの口から聞きたいんだけど」
女の子はセピアに顔を近付けて、じっと見つめる。横目でちらちらと私をうかがうセピアに、「弁解して」と口の動きで伝える。
「彼女は確かに……、僕のお店の従業員だけど。僕は彼女のことが好きなんだ。さっき、告白もした」
セピアの空気を読まない発言に、私は呆然としてしまった。
「はあっ!? なにそれ、浮気ってこと?」
「ちがうよ。君のことは……、お互い気楽に遊べる関係だと思ってたんだ。君のほうもてっきり、そう思っているものだと……」
「あたしのこと、そんな軽い女だと思ってたんだ」
女の子はうつむいて、唇をかむ。ああ、やっぱり話がややこしくなってきた。このままだと私も痴話喧嘩に巻き込まれそうな、嫌な予感がしてくる。
「ごめん。それについては謝るよ。いきなり路上で声をかけられたから、そういうことだと思って」
逆ナンか~、度胸があるな~と思って女の子の顔を見つめる。彼女はバツが悪そうにセピアから目を逸らした。
「それには事情があって……。でも別に遊びとか、そういうふうに思って声をかけたんじゃないよ。あたしは本気で――」
「うん、君の気持ちはわかった。でも僕は彼女が好きだから、君と付き合うことはできないよ」
女の子の言葉を遮って、セピアがはっきりと告げる。
そのまっすぐな台詞にはドキッとくるものがあったが、「いやいや、ちょっと待て」とツッコミを入れる自分もいた。
セピアの女性関係がいい加減なことも、この状況が面倒なことにも変わりないわけで……。
「あの。返事はゆっくりでいいって言われたけど、私はもとの世界に戻るつもりだし、セピアくんとは付き合えな……」
言い終わらないうちに、頭の上から冷たいものがばしゃっとかけられた。ぽたぽたと、前髪から水滴が落ちる。
「え……? 何、これ」
水をかけられた、と気付いた瞬間、私は女の子に胸ぐらをつかまれていた。
「この、泥棒猫っ!」
椅子の上から数センチ浮きあがったお尻。首筋にくい込む指が気道を圧迫する。
「く、くるしい」
「ちょ、ちょっと、君……!」
セピアが女の子を引き剥がしてくれて、やっと息ができるようになった。
「あんたは邪魔しないで!」
「そんなわけにはいかないだろ!」
二人の口論を聞きながらゲホゲホと咳を繰り返していたら、女の子の後ろから太ましい人影がぬっと現れた。
「あんた。お客さんに何してるんだね」
「お、おかみさん」
女の子の顔色が、さーっと青くなった。女の子の首根っこをむんずと掴んだおかみさんは、般若のような怖い顔をしていた。
「あ、あの、これには事情が」
「はいはい。それならあっちで聞かせてもらうよ」
おかみさんは、ばたばたと抵抗する女の子を猫のように引きずっていってしまった。
そのあとセピアが声をかけてくれるまで、私は呆然としたまま、椅子の上から動けなかった。
「ごめん、こんなことになって」
あのあと、おかみさんと、裏でシェフをしていたご主人に謝られ、お代はタダにしてもらった。かといってそのままテーブルで食べ続ける気にもなれず、早々に退却したので、結局ワインと前菜しか食べていない。
「また、ちゃんとごちそうするから……」
セピアは帰り道もエスコートしてくれようとしたが、私はそれを振り切って一人でずんずん前を歩いていた。
「ケイト、怒ってる?」
「当たり前でしょ! 水をかけられて、首まで絞められそうになったんだから!」
おかみさんがタオルを貸してくれたが、服にまで水が染み込んでしまって肌寒い。早く帰ってお風呂に入らないと、風邪を引いてしまいそうだ。
「ごめん……」
セピアが低い声でつぶやく。群青色に染まった石畳の上で、街灯に照らされた私たちの長い影が重なっている。心の距離はこんなに遠いのに。
はあ、と大きくため息をついて、足を止めた。
「あのさあ、セピアくん。さっきの子とのことは、セピアくんだけが悪いとは言わないけれど、彼女が勘違いするような態度をとったセピアくんに責任があると思うよ」
「……うん」
少し離れた場所で、セピアが白い息を吐く。近寄っていいのかどうか迷っている動きに、少し心が痛んだけれど、甘い顔はしてあげない。
「あの子は本気だったんでしょ? もう遊びでいろんな女の子と付き合うのはやめなよ。それでちゃんと、あの子と付き合ってあげなよ」
「え……。だって僕はケイトのことが」
普通だったら嬉しい言葉のはずなのに、いらっとしている自分がいた。誰かを泣かせて、その上でしか成り立たない恋愛なんて、私は大嫌いだ。
告白するならせめて女性関係を清算してからにして欲しいし、あの子の立場だったら、誰かと付き合い始めてから振られるのも嫌だ。水をかけるのはやりすぎだと思うが、彼女の怒りはもっともだと思う。
「だいたい、セピアくんは今まで特定の彼女を作らずに好きに遊んでいたんでしょ? なんで急にちゃんと付き合うって言い出したの? しかも、なんで私なの?」
異世界人で物珍しいこと以外に、セピアの気を引く何かがあったとは思えない。
「それは……」
セピアが言葉を飲みこむ。やっぱりはっきりした理由なんてないんだ、と悲しい気持ちになった。誠実な言葉に少しだけ、期待している自分がいたのかもしれない。私でも誰かの特別な“たったひとり”になれるって。
そんなことありえないって、さんざん思い知ったばかりなのに。
「とにかく私は、女性関係がだらしない男は断固お断りだから! 以上!」
すでにお店が見える位置まで来ていたので、私はセピアを振り返らずに早足で玄関に向かい、そのまま後ろ手で扉を閉めた。だから、彼がどんな顔で私を見送っていたのかわからない。
「異世界まで来て、何やってんだろ……」
このまま一生、スマートで幸せな恋愛には縁がないのだろうか。私の何が悪いんだろう。少なくともこの世界に来てからは、真面目に働いていただけなのに。
はあ~……と息を吐いて、ずるずるとその場に座り込んだ。
「やっぱりもう、恋愛なんてめんどくさい……」