(5)
簡単な朝食を摂ったあと、掃除をするためにお店に降りて行ったら、アッシュがお茶を淹れていた。
「あれっ、アッシュさん、早いですね。おはようございます」
「ああ。少し君と話をしたいと思っていて。ミントティーは嫌いか?」
よく見ると、カップを私のぶんも用意してくれている。
「いえ、好きです」
「そうか。ならソファに座って待っていてくれるか。掃除はあとでいいから」
「はい……」
言われたとおりにソファに座って待つことにしたが、落ち着かない。オーナーであるアッシュから話があるだなんて、嫌な予感しかしない。
まさか突然クビ、ということはないだろう。だったら他に可能性があるのは、減給、クレーム、家賃の取り立て……どれもあり得そうな気がしてしまう。
「待たせたな」
アッシュがミントティーのカップを目の前に置いてくれる。気を遣ってくれたのか、向かいではなく横のソファの離れた場所に座ってくれた。
「ありがとうございます、私のぶんまで……」
「ついでだったからだ。冷めないうちに飲め」
「いただきます」
アッシュが淹れてくれたお茶を飲むのははじめてだ。緊張しながら口をつけたそれは、意外なほどおいしいミントティーだった。
「おいしい。アッシュさん、お茶を淹れるの上手なんですね」
「祖母が好きだったから、よく淹れさせられていたんだ」
「おばあさまがいらっしゃったんですね。そういえば、うちのおばあちゃんも緑茶が好きだったから、私も小さいころは緑茶ばかり飲んでいたなあ」
「リョクチャ……?」
「えっと、私の生まれた国にあったお茶なんですけれど、緑色をしているんです。紅茶ほど渋みはなくてすっきりした味わいで……。健康にもいいんですよ」
「ほう……。それは少し興味があるな」
おばあちゃんの話になったから、一瞬緊張を忘れてなごやかな雰囲気になってしまった。お茶を半分ほど飲んだところで、カップを置く。
「あの、それで、話って……」
胃がぎゅうっと痛くなりながらも、自分から切り出した。待っている時間は少ないほうがショックが少ない。あらゆるパターンを予想して身構えていたのだけど……。
「ああ。ケイトの、もとの世界での仕事のことが聞きたい」
アッシュから返ってきたのは思ってもみなかった台詞だった。
「えっ、私の? どうしてですか?」
「君のこの一か月の働きぶりを見ていて、そちらの世界での仕立て屋に興味がわいた。オーナーとして、見習うべきところは取り入れていきたいと思っている」
「なるほど……。そういうことなら、喜んで」
私も同じように、この一か月で三兄弟の働きぶりを見ていた。いちばん近くで見ていたクラレットは言わずもがな、一見自由人に見えるセピアも仕事に関しては職人肌で、妥協を許さなかった。
アッシュは意外と周りを見ていて、お客さまのことも従業員のことも、細かいところまで把握してくれている。ほとんどお店には出てこないと言っていたが、デザインを決めるときには必ずお客さまと顔を合わせていた。「顔も知らない相手にドレスを任せられないだろう」というのが持論だった。
冷たいだけじゃない。それがわかっているから、作り手のアッシュも、この店のドレスも愛されるのだろう。
「じゃあまず、向こうの世界でのドレスの販売形態だが――」
アッシュの質問に応じて、たくさんのことを話した。オーダーメイドではなくたくさんの既製品の中から選んで買う、ということには特に驚いていた。
私の仕事のこと、どんなお店で働いていたかということも、アッシュは聞きたがった。
「一般的な婦人服のお店ですよ。ショッピングモールにあって……」
向こうの世界での一般的なことならいくらでも話せた。でも、自分の仕事のことはあまり話したくなかった。アッシュに話して、私の未熟さを見破られてしまうのがこわかった。
「ケイトはどういう接客をしていたんだ? お客さまの反応は?」
「それは……」
私が黙ってしまうと、アッシュは席を立った。
「あの、すみません、うまく話せなくて……」
「怒っているわけじゃない。お茶を淹れ直してくるだけだ。冷めてしまっただろう」
「あ……」
すっかりぬるくなってしまったミントティーを口に運ぶ。苦みが増して、舌に残った。熱いお茶も冷たいお茶もおいしいのに、中途半端な温度のお茶はおいしくない。
なんだか今の私みたいだ。異世界にも染まりきれず、もとの世界の失敗をずっと引きずっている。クラレットのように完璧な女優にも、アッシュのような経営者思考にもなれない。ぬるくて、中途半端だ。
「待たせたな」
アッシュがティーポットとミルクポットをテーブルに置く。今度は紅茶を持ってきてくれたようだ。フリルテリア国の人は紅茶にミルクを入れて、砂糖は入れない。
「もとの世界での仕事のことは、あまり話したくないようだな」
「すみません……」
「謝らなくていい」
アッシュはため息をついて、眉間をもむように押さえた。
「……実は、クラレットから頼まれたんだ。ケイトが悩んでいるみたいだから、オーナーとして力になってやれと」
「クラレットが……?」
「君が時折、自信がないように振る舞っていることには気付いていた。お客さまと親しくなると、それ以上距離が近くならないように一線を引いていることも。それが間違っているとは言わないが、君の性格には合わない気がする」
そこまで見られていたのか、と驚いた。一線を引いていたのだって無意識で、自分では気付いていないことだったのに。
「俺は、君の能力を買って雇った。そして今も、君の仕事ぶりを評価している。なぜそんなに自信がない? 褒められると自分を卑下しようとする? 教えてくれないか。これは雇い主としての頼みだ」
アッシュのクールな眼差しに、懇願の色が混じっている。そんなふうに言われたら、そんなふうに見つめられたら、逃げも隠れもできなくなってしまう。
私はぽつぽつと、入社当時から店長と意見が合わなかったこと、ひとりだけきつく当たられていたこと、あの日言われた言葉についても、アッシュに話しはじめた。
アッシュは時折うなずきながら、ただ黙って聞いてくれた。それがなんだか、無性に嬉しかった。
「……これで、ぜんぶです」
ひととおり話し終わると、喉がからからになっていた。ティーコゼーのかかっていたポットから、紅茶を注ぎ足す。あたたかなミルクティーから出る湯気が、アッシュの姿に重なった。
「君の話はよくわかった。でも何か……引っかかることがあるな」
同じようにミルクティーでひと息ついたアッシュが、カップを置いて指を組んだ。
「引っかかる?」
「ああ。君の話を聞く限り、店長は経営者側の視点を持った人間のようだ。君だけに厳しくしていたのも、期待をしていたからだろう。俺も同じ側の人間だからわかるが、言っても理解できない人間にわざわざ注意することはない」
「そう……なんですか?」
「だとすると、接客のことを注意されたのも、言葉にしたこと以外の意味があるんじゃないか? ただ単に君を批判したかっただけではない気がする。話を聞けばわかり合えたんじゃないか? 君と店長は考え方の方向性は違うものの、似たタイプの人間だと俺は思う。俺たち兄弟がそうであるように」
私と店長が似ている? 言われて思い返してみれば、気が強く見られるところも、自分の仕事を人には頼めない甘え下手なところも、体調が悪くても無理をしてしまう不器用なところも、同じだった。どうして今まで気付かなかったんだろう。
「そういえば私……、店長に何か言われても、いつも否定の気持ちから入っていました。店長がどうしてこんな注意をするかなんて、聞き返したことがなかった。どうして自分のやり方を認めてくれないんだって、そればっかり思っていて」
「その店長の言い方も悪かったのだろう。しかし店長だって完璧な人間ではない。言わなくてもわかってくれると、お互いが過信していたのだろうな」
言わなくてもわかってくれる、それは私が嫌っていたことではないのか。話もしていないのに相手をこういう人間だと決めつけてしまうことを、とてもさびしいと思っていたはずだったのに。
「私……、もとの世界に帰ったら、店長とちゃんと話をしてみます」
「ああ。それがいい。それで、俺はクラレットに怒られなくて済みそうか?」
「はい。だいぶすっきりしました」
「そうか」
アッシュの口元がわずかに上がる。わかりづらいが、今の表情はきっと笑ったのだろう。
「アッシュさんって、本当は優しいですよね」
口調も態度も冷たいから理解されにくいけれど、アッシュに嫌な行為をされたことはない。むしろ、いつも助けてもらっている。優しいのにそれを表に出すのが苦手なだけの、不器用な人なのではないだろうか。
「何を言っている。俺は経営者として君に助言をしただけだ。勘違いしないでもらおうか」
さっき緩んだと思ったアッシュの表情が、一瞬で仮面のように凍りつく。
「話は終わった。俺はもう行くから、君はさっさと掃除に戻れ」
言いながら、乱暴にソファから立ち上がる。見下ろす目線からも、口調からも拒絶がにじんでいたが、ここであきらめたくなかった。
「褒められると否定するのはアッシュさんも同じですよね。どうしてですか?」
「否定しているわけじゃない。事実を言っているだけだ」
せっかく仲良くなれたと思ったのに、アッシュはひんやりとした冷気を出したまま作業場に行ってしまった。
「私にだけ話させておいて、自分はそのままなんて……ずるい」
近付いたと思ったのに遠くなった。それをさびしいと思ってしまうのは、アッシュだからというわけでは、たぶん――ない。
アッシュが去って行った方向から、甘い匂いがふわりと漂ってきた。