(4)
* * *
ホールに降りる階段を、ドレスをまとったクラレットがしずしずと降りていく。七五三の子どもよろしくタキシードを着た私は、クラレットを転ばせないようにエスコートするので精一杯だ。
ホールのざわめきが一瞬やみ、すべての人の視線がクラレットに向けられた。男性は感嘆のため息を漏らし、女性は嫉妬と称賛のまじった眼差しで息をのむ。
お化粧道具もメイク落としも借りられたのが良かった。クラレットにメイクはほとんど必要がなかったけれど。
「あの美女は誰だ?」
「なんで子どもがエスコートしている?」
階下が次第にざわめき始めた。クラレットに対する評価は予想どおりだが、私のほうは少年にしか見えないことに軽く落ち込む。
「クラレット・スティルハートよ。私のドレスを作ってくれたのも、仕立て屋スティルハートなのよ」
エリザベスさまが少し張った声で、まわりの人にアピールしてくれる。いい宣伝になりそうだ。
階段を降りた私たちに、まわりの人たちは自然に道をあけてくれた。その先に、見惚れて動けずにいるクラレットの元彼がいた。
「――クラレット」
夢から醒めたようにはっとして、クラレットの名前を呼ぶ。クラレットはそんな元彼に、優雅に微笑みかけた。
「一曲、踊ってくれませんか?」
「えっ、いや、しかし……」
元彼はクラレットと今の恋人を順番に見回して困惑していたが、「レディに恥をかかせないで」という恋人からの一言で覚悟を決めたようだ。
「わかりました。お手をどうぞ」
どぎまぎしながら差し出されたエスコートの手を、クラレットは悠然とした動作で受け入れる。その態度も、表情も、必死で作られたものだというのを私は知っている。
――クラレットは女優だ。それも、一流の。
このホールも、観衆も、クラレットのために作られたステージに見える。そう思っても、今日の主役のエリザベスさまは許してくれるような気がした。
ワルツを踊るクラレットと、見惚れる観衆。いつの間にかエリザベスさまと婚約者も加わり、踊りの輪はだんだんと大きくなっていった。
「ケイトも、踊りましょ!」
パートナーを交換しながら進む輪に、エリザベスさまが私の手を引いて連れていく。女性側の踊りはクラレットに教えてもらったけれど、今の私はタキシード姿だ。
「だ、だめですっ。私、男性パートは踊れな……っ」
「いいのいいの、適当で。楽しめればいいのよ」
ぎこちない踊り方の私を、慣れていない子どもだと思って貴婦人たちがリードしてくれる。これはこれで、悪くなかった。
クラレットと踊る順番になったとき「ありがとう」という呟きが、音楽に乗って聞こえた気がした。
このあと仕立て屋スティルハートに、『秘めた緋色』と『明るい湖畔』、そしてなぜか『千枚の葉』の注文が殺到したのは、また別の話――。
「ああ、気持ち良かった。注目を浴びながら踊るのって快感ね~」
帰りの馬車の中、すっかりいつもの調子を取り戻したクラレットは満足したように長い息を吐いた。
「うん。いろいろ迷惑かけちゃったのに、エリザベスさまも楽しんでくれたみたいだし」
「ちゃんとお礼しないとねえ……」
なんだか、どっと疲れてしまった。妙な気持ちの昂りのおかげで、いろんなショックが遠くに追いやられたのは良かったけれども。
「それにしてもケイト。あなた、男装に違和感がないわねえ! 貴族のおぼっちゃまに見えるわよ」
「それ、喜んでいいところなの?」
「凹凸のない体型とのっぺりした顔でも、役に立つことがあるのね」
「ひどい」
つかみかかるふりをした私の手を押さえて、クラレットは表情から笑みを消した。
「ごめん、冗談よ。ケイトには感謝している。……本当よ」
「……うん」
真剣な瞳で見つめられて、なぜかドキドキしてしまった。今のクラレットは女の姿なのに。まさか、男はこりごりすぎて「そっち」の扉を開いてしまったのだろうか。いやいや、さすがにそれはクラレットにも失礼だろう。
「ねえ、あの。さすがに見つめすぎじゃない?」
「……悪くないわ」
「え?」
クラレットが身を乗り出してきた。手袋を外した手をぎゅっと握られる。
「この姿のケイトだったら、私、いけるかも」
「ええっ?」
クラレットから甘い匂いがする。以前セピアとアッシュからも感じた匂いと、同じ――。
「ねえ、どこまでできるか試してみない?」
「ちょ、ちょっと待って。試すって何を」
「わかってるくせに」
私の上に覆いかぶさろうとしてくるクラレットから逃げ出したいのに、頭がくらくらして身体がしびれてくる。
今のクラレットは、私のことを女として「いける」と思っているのだろうか。それとも男として「いける」と思っているのだろうか。
「どっちでも、駄目……っ!」
渾身の力で押し返したら、クラレットが笑いをこらえる表情をしていた。
「顔が必死すぎるわよ……」
「ちょっと! からかうにしても限度があるでしょ!」
「いくらなんでも、馬車の中で襲いかかるわけないじゃない。私は紳士であり淑女なんだから。だまされるほうが悪いのよ」
「このっ……性悪オネエ!」
「なによオネエって? ……痛っ!」
もっと怒ってやろうかと思ったが、今日のクラレットに免じてデコピンで許してあげることにした。私はなんだかんだ、この「性悪オネエ」に親しみを感じているらしい。
「ちょっと! 赤くなったらどうしてくれるのよ!」
「知らない。やられるほうが悪いのよ」
クラレットの言葉を借りて言い返す。なんだかおかしくなって、ふたり同時に吹き出していた。
さっき感じた甘い匂いは、残り香をつかむ前に消えてしまっていた。
* * *
気が付くと、ピンク色のもやがかかった世界を彷徨っていた。いつかこの光景を見た気がするのだけど、頭がぼんやりして思い出せない。
道もないし、壁もない。足元はふわふわするけれど、かろうじて床があるのはわかる。外なのか、屋内なのかわからない世界を、ただ甘い匂いのする方向へ進んでいく。
甘い匂いが強くなってきたとき、やたら露出度の高いドレスを着たクラレットに出会った。
「あら、ケイトじゃない」
「クラレット、こんなところでどうしたの?」
「さあ、どうしたのかしら」
なんだか会話がおかしい。口元だけで無理やり作ったようなクラレットの笑みも、ぎらついている紫色の瞳も、いつもと違う。
「私、行かなくちゃ」
にじり寄ってくるクラレットに恐怖を感じて引き返すと、手首をつかまれた。
「ちょっと待って。もう少し遊びましょうよ」
「遊ぶって言ったって……」
振り返ると、クラレットがふたりになっていた。女装姿と、男装姿。男装のほうは、トラウザーズをはいただけで半裸だった。
「なんで? どうしてクラレットがふたりいるの?」
「ねえケイト。あなたはどっちの私が好きなの?」
ふたりのクラレットの声が重なる。変なエコーがかかって、耳がおかしくなりそうだ。
「どっちって。どっちのクラレットも同じじゃない」
「だからそうじゃなくて。こういうことをされるなら、どっちの姿がいいのって聞いてるの」
男装したクラレットに押し倒された。床に倒れたはずなのに、感触がベッドみたいだ。
「ちょっと、何する……っ」
もがいてもびくともしない。身体に力が入らないせいもあるけれど、クラレットの力が思ったよりも男性のものだったから。
「答えないなら、両方味わってもらうわよ」
女装姿のクラレットが、私の手をとってぺろりと舐めた。
「ひっ……! 変なことやめてよ!」
その舐め方があまりにも官能的だったから、身体ごとびくっと反応してしまう。
「交互にしましょうか。それとも三人で?」
「いいわね、そうしましょう」
ふたりがかりで抑えつけながら、ふたりのクラレットは私の上で物騒な相談をしている。
「大丈夫、痛いことはしないから」
「そうそう、紳士だし」
「淑女だから」
クラレットがふたりいると、迫力は二倍どころじゃないことに気付いた。そして厄介さはもはや計算できない。
「こんなのおかしいよ! 私は女なんだよ? クラレットの心は女性なんでしょ?」
もはや理性に訴えかけるしかない、と思って冷静にツッコんでみたけれど、クラレットは首をかしげた。
「今のあなたは男じゃない」
「え?」
顔を横に向けて自分の身体を視界に入れると、タキシードを着ていた。
「それなら問題ないでしょう?」
問題ありありだ。男装した自分がオネエと男装オネエに襲われるなんて、どんな倒錯した性癖なのだ。
迫りくるクラレット、かける二。ふたりの顔が、胸と唇にだんだんと近付いていって……。
「こんな新しい扉は、やっぱり、無理――っ!」
絶叫しながら飛び起きると、ベッドの上だった。
「ま、また、夢……?」
久しぶりにいやらしい夢を見てしまった。しかも、クラレットとの。罪悪感で胸がズキズキ痛む。
なんというか、親しい女友達を夢の中で辱めてしまったような、そんな気持ちだった。
ごめんなさい、クラレット。しかもちょっとドキドキしてしまっただなんて、合わせる顔がない。
きっと昨日は疲れていたからだ。しかも、クラレットがあんな悪ふざけをするから。自分が欲求不満なわけでは決してない、と思いたい。