(1)
むかしむかし、小さいころ。おばあちゃんの経営するブティックは、私の遊び場だった。
お姫さまみたいなロングスカートやワンピース。シルクのブラウスに、レースたっぷりのコサージュ。きらきら光るアクセサリーと、外の世界を夢見る靴たち。
新しいお洋服を手にしたお客さまたちはみんな笑顔で帰り、そんな場所の主であるおばあちゃんは、シンデレラの魔法使いみたいだと思っていた。
私も大きくなったら、自分だけのお店を作るんだ。素敵なお洋服をたくさん置いて、来た人みんなをしあわせにするんだ。――そう、魔法にかけられたみたいに。
それがずっと、私の夢だった。小学校の卒業文集にも『お洋服屋さんになりたい』と書いたし、大学だって家政学部を選んだ。
おばあちゃんが亡くなってブティックが取り壊されることになっても、私は夢をあきらめていなかった。『いつか自分のお店を持って、おばあちゃんのブティックの名前をつける』――大好きなおばあちゃんを亡くした私にとって、その目標が心の支えになっていた。
灰色の就職活動を終え、さほど大きくないアパレル会社に就職したあとも、私は夢と希望に満ち溢れていた。これから店頭に立って、たくさんのお客さまを笑顔にするんだ。そして開店資金がたまったころに独立できたら……。そんな人生設計に酔いしれていた。
自分の歩いてきた道を疑ったことなんてなかったし、後悔したり挫折するときが来るなんて、思ってもみなかった。だって、好きなことをやっているんだから。好きなものに囲まれて働いているんだから。それなのにつらいなんて、おかしいでしょ?
そんなふうに思っていた私は、まだ社会のことも人生のことも何も知らない、まっさらな夢に目をきらきら輝かせただけの、子どもだったのだ。
* * *
「わあ、有栖川さま! とてもお似合いです!」
鏡の前でガウンワンピースを羽織った顧客さまに、いつもよりワントーン高い声で、とびっきりの笑顔を向ける。
ショッピングモールの二階。イミテーションのシャンデリアと華やかなBGMに彩られたこの店が、私の戦場だ。
ショップの価格帯は、プチプラが主流のショッピングモールの中では高めで、落ち着いたミセスやOLの顧客さまが多い。
とは言っても、アラサー向け雑誌の常連ブランドだし、手の出ない値段ではないから一見さんも毎日訪れ、そこそこ忙しい部類のお店だった。
「本当? こういうの着たの初めてだから、自分ではよく分からないわ。桜井さんが着ているのを見て素敵だと思ったんだけど」
有栖川さまは、いつもコンサバなスタイルのお客さま。初秋向けのガウンワンピースは推していきたい新作だけど、カジュアル寄りなのでふだんの有栖川さまの系統とは少しずれてしまう。でも、ここからが店員の腕の見せどころだ。
「ありがとうございます。今は下にスカートを着てらっしゃいますけど、私みたいにスキニーでもいいですし、いつもの有栖川さまの雰囲気でしたら、きちんと目のワイドパンツでも合うと思いますよ」
デニムのスキニーと、チノ素材のワイドパンツをハンガーラックから取り、有栖川さまに合わせてみせる。
「あら、いいわね。だったら、この間ここで買った、テラコッタのワイドパンツなら合うかしら? ふだんはブラウスやニットとしか合わせていないんだけど」
「ばっちりだと思います。このワンピースが花柄だから、トップスは今日みたいな無地の半袖ニットや、カットソーでもいいと思います」
鏡の中の有栖川さまが、うんうんと頷いたあとにっこり微笑んだ。
「それなら、私でも着回せそうね。さっき預けた新作と一緒にこれもいただくわ」
「ありがとうございます!」
この瞬間が、仕事をしていて一番嬉しい。自分の提案したアイテムを買ってもらえる喜びは、いろんなつらさを一瞬だけ吹き飛ばしてくれる。
「本当に、桜井さんは明るくてしっかりしていて、いい子よね。さぞかしおモテになるんでしょう?」
レジカウンターでお買い上げの商品を包んでいると、有栖川さまにしみじみとつぶやかれた。手元を休めず、謙遜した笑顔を作って対応する。
「全然そんなことないですよ。もともと顔がきつめな上に、流行りのファッションとメイクで固めていると、どうも近寄りがたく思われるみたいで」
「男が気後れしちゃうのかしらね。じゃあ、彼氏はいらっしゃらないの?」
「ええと……。この間別れたばっかりなんです」
有栖川さまは私の答えを聞いて顔を曇らせた。
「あら……。悪いこと聞いてしまったわね。ごめんなさい」
「いえ、いいんです。もうだいぶふっきれましたし」
嘘だった。自分がモテないことは本当だったけれど、そのぶん好きになった人には執着してしまうタイプだった。問題なのは外からはそう見えないことで、振られてしまった彼氏にも『お前は強いもんな。俺と別れたことも、何とも思っていないんだろ』と言われてしまった。
「だったら、うちの息子なんてどうかしら。あなたみたいな子が恋人になってくれたら、私は大歓迎なんだけれど」
「えっ、有栖川さまのお子さんって、そんなに大きいんですか?」
「ええ。あなたと変わらないくらいだと思うわ」
「全然そんなふうに見えないです……。まだ小学生くらいかと」
「あら、そんなに褒めても何も出ないわよ」
美しい顔に手を添えて笑う有栖川さまは、スタッフの間でも謎の人だった。日本人離れした顔とスタイル、毎月新作を大量に買っていく経済力。そして年齢不詳なところ。こういう人を、美魔女というのかもしれない。
「有栖川さまのお子さんなら、すごく美形なんでしょうね」
「まあ、私が言うのも何だけど、顔は悪くないのよ。ただ女っ気がまったくないのよね。本当に、桜井さんがお嫁に来てくれたらいいんだけど」
こんなふうに、自分自身を気に入ってもらえるのは嬉しい。だけど、店頭に立っているときの自分とプライベートの自分は違う。ふだんはこんなに愛想も良くないし、全面的に相手を立てて話すこともない。お客さまが慕ってくれているのは『店員としての自分』であって、決して『桜井恵都』そのものじゃない。そんなことはよく分かっている。
「光栄です。でも私、本当に男性には好かれないんですよ。見た目も中身も、ふつうの男性は私みたいなの選ばないですよ」
少しは舞い上がってしまうけれど、社交辞令を本気に取らないくらいの社会性は、入社してからの半年足らずで身に付けてきた。だけど……。
「女が男より強いのは当たり前のことじゃない。女が見た目を演出する理由も、心の内を隠して笑顔でいる強さも、分からない男なんてこちらから願い下げよね」
私の心の内を見透かしたようなその言葉に、思わず笑顔も忘れて有栖川さまの瞳を見つめてしまった。
「有栖川さま……」
「気が変わったら教えてちょうだい。いつでもセッティングするから。じゃあ、また来るわ」
お店の出口まで見送った私に、有栖川さまは微笑んで颯爽と去って行った。
深々と、いつもより長めにお辞儀をする。胸の中がじんと熱くなって、気を抜くと泣いてしまいそうだったから。傷心の今、お客さまにあんな言葉をいただけるなんて反則だ。
――有栖川さまの息子さんだったら、会ってみてもいいかも。
ちょっとだけそう思ったときに、険しい顔の店長に手招きされた。
「桜井さん、ちょっと」
「……あ。はい」
店頭に出ている他のスタッフに断ってから、バックヤードに入る。そっけない態度でうなずかれたのは、有栖川さまの対応が長すぎたせいだろう。
「あなた、顧客さま一人にかける時間が長すぎない?」
腕を組んだ店長が、切れ長の目をさらに細くして私を見つめる。
これはきっと怒られるな、と思った予感は的中した。そもそも褒められたこともないのだから、予感も何もないのだが。
「すみません……。でも、有栖川さまは毎回たくさん購入してくれますし、セットを組もう思うとどうしてもロングの接客になってしまいます」
「ロングになることはいいのよ。かけた時間のぶん購入してもらえれば問題ないんだし。私が言っているのは、接客と関係ない雑談が多くないかってことよ。あなたが顧客さまにつきっきりになっている間、他のお客さまやレジをスタッフ一人で回さなきゃいけないのよ? せめて他のスタッフと連携を取って、雰囲気が悪くならないよう気を付けてちょうだい」
一応、接客中も周りは気にしているつもりだ。今日は平日だったし、他のスタッフだけでもじゅうぶん手が足りていそうだったから中断しなかった。けれど、今ここでそれを言っても無意味だろう。
「それは……すみません。でも……」
「でも、何?」
「有栖川さまは、私の丁寧な接客が好きだと言って通ってきてくれています。雑談が多くなってしまうのも、気を許してくれるようになったからで……」
そっけない接客をして、有栖川さまと疎遠になってしまうのは嫌だった。もちろんお得意さまだからというのもあるけれど、私自身が有栖川さまと仲良くなりたいと思っているからだった。
私の言葉を聞いて、店長は嘲笑を浮かべた。ふん、と吐いた息が澱んだバックヤードの空気を揺らす。
「お客さまはあくまで、うちの服が好きだから来てくださっているのよ。あなたに会いに来ているんじゃないの。それを勘違いして、自分の力だと思わないことね」
がん、と頭のうしろを殴られたみたいだった。目の前が一瞬だけ暗くなって、眩暈がした。
言葉を失ってしまった私を、店長はうっとうしそうに一瞥する。
「早く三十分休憩入っちゃってくれる? あなたが入らないと、次の私が休憩できないのよ」
「はい……」
ふらふらする足のまま、鞄をつかんでバックヤードから出る。
店長の言葉がショックだったのは、自分のうぬぼれを正面から突かれたからだった。
確かに私は、お客さまは自分の接客の力で笑顔にするものだと思っていた。効率重視の店長とは、それでぶつかることも多かったけれど、『お客さまのためを思ってやっている接客が正しい』と信じていた。
でも結局、お客さまと仲良くなって、親しい話をして、それで自分が慕ってもらっていると思って満足していただけだった。
お店の服が合わなくなればお客さまは通う店を変えるし、違うお店のスタッフと仲良くなる。そんな光景を、何回も見てきた。見てきたはずなのに、勘違いしていた。
私は自分が気持ちよくなりたかっただけ。自分の力でお客さまを掴んでいるって、思いたかっただけ。一番に考えていたのはお客さまのことじゃなくて、きっと自分のこと――。
「だから彼氏にも振られるんだ……仕方ないよね……」
頭の中に、元彼の顔が思い浮かぶ。投げつけられた言葉も、言えなかった言葉も、心の中でくすぶったまま消えてくれない。
もう、頭がぐちゃぐちゃだ。
「このまま消えてしまえたらいいのに。誰も私のことなんて知らない、違う世界に行けたらいいのに」
誰もいないのをいいことに、ありえない妄想を口に出してみる。そうなったら、元彼も店長も、少しは心配してくれるかもしれない。いや、もしかしたらほっとするかもしれないな。私がいなくなって本気で心配してくれる人なんて、いったい何人いるのだろう。
薄暗い従業員階段を降りていると、急に足元がもつれた。
「――あ」
手すりを握り、あわてて体勢を立て直そうとしたけれど、遅かった。バランスを失った身体は、重力に従ってぐらりと傾く。
――まずい、これは……。落ちる。
世界から音が消えて、スローモーションで流れていく景色。鞄の中身が宙に飛び出すのが見える。受け身って、どう取るんだっけ。職場での事故って、労災下りるんだっけ。
人間が、死ぬかもしれないときに考えることなんて、案外しょうもないことだった。地面がぐんぐん近付いてきて、衝撃にそなえて目を閉じる。
天国に行ったら、おばあちゃんに会えるかな。あんなに大事にしていたブティックを守れなくて、ごめんなさい。ああ、どうせなら、素敵な恋をしてから死にたかった。
最後に思い浮かんだ顔が、元彼でも店長でもなく、大好きなおばあちゃんの笑顔だったことに安堵して、私は全身の力を抜いた。