4:子供の情景、あるいは邂逅
思いの外北棟4階は遠い。一応隣の棟だが、私のクラスは西棟の端、図書準備室は北棟4階にある。とは言え、渡り廊下を渡って階段を1階層分登ったら4階なのは確かで。比較的簡単に行けるんじゃないかな。
やっと目的の階層に着くと廊下の先から優しい音色が聞こえてきた。──ピアノだろうか。どこかで聞いたことのある曲だ。もしかしなくても図書室は音楽室の隣なのだろうか。──いや、音楽室は3階、図書室は4階のはず。訳がわからなくなってきた。弾いている人に聞いてみよう。……怖そうな人じゃなかったら。
扉の窓から覗き見ると、そこに居たのは長めの髪をハーフアップにして、青いパレッタで止めた女子生徒がいた。見るからにお嬢様な雰囲気が漂っている。
曲は続く。柔らかな春の日差しを思わせるような音が空に溶ける。その曲は確かに聞いたことのある──以前住んでいた街の夕刻の報せの曲だった。
あの曲ってこんなにも繊細で、綺麗な曲だったのか。
「──っ」
あの街に住んでいた頃の記憶が走馬灯のように駆け巡って、視界は水彩画に水を落としたように滲みはじめた。
そして、その曲はふっと、まるで夕焼けに溶けるように余韻を残して終わった。
「泣いて、いるのですか?」
不意に扉が開くと、先程までピアノを弾いていた彼女がそこにいた。慮るようにこちらを見ている。
「どうしましたか?何か、辛いことでもあったのですか?」
「あ、いえ。通りかかったらピアノの音が聞こえてきて、すっごく綺麗だったから……」
彼女はそれを聞くと安心したようにそうですか、と笑った。
「それで……どうしてまたこんなところに?」
「え?」
さっきまでの穏やかな雰囲気が一変し、彼女はその目の奥深くに鈍く輝く鋭い光を宿している。烏みたいだな、なんて思った。
「どうしてって……?」
「今日は始業式の日だから、追試や補習、課外授業の類はありません。図書委員の会合も明日の筈です。これが3年生ならば、まっつんの使いかとも思いましたが、靴から察するに貴女は2年生です。不思議だなぁって思っただけですよ」
何この人、超怖い。多分3年生だよね。まっつんって誰。なんかめっちゃ無礼なことをしてしまった気がする。これ、正直に文芸部に興味があって来たんですけど、道に迷いました!って言って許してくれるのだろうか。
「あ、えっと……。私、文芸部に興味があって……。クラスの副担任の柘植川先生に今日は図書準備室に副部長の鷹山さんという方がいらっしゃると伺いましたので……その……」
「我らが文芸部を見学しに来た、という訳ですか」
「は、はい」
……我らが文芸部?え?この人文芸部の人?もしかして鷹山さん?
「入部希望者でしたか!お名前は?」
「こ、楮原、真澄です」
さっきとは一変、花の咲くような笑顔で私の手を取り、名前を聞かれた。美人である辺り、心臓に悪い。──こんなの、異性じゃなくたって照れる。
「私は烏丸綾乃と申します。以後お見知りおきを!文芸部3年の末席を汚す者です」
「よ、よろしくお願いします」
なんか、よくわからないけど許してもらえた。しかもめっちゃ歓迎してもらってる。何このハイテンション。さっきまでの雰囲気どこにいった。こちとら死ぬかと思ったのに。めっちゃ素敵な笑顔でいらっしゃる。
「あら?そういうことでしたら、図書準備室はもうひとつ上の階ですよ?」
とても親切で、嬉しいんだけど……もうひとつ上?
「そ、そうなんですか?」
「ええ!……2年生なのに、ご存知ないのですか?」
──どうやらこの学校では、図書準備室はもうひとつ上の階であることは常識らしい。
「何分、最近来たものですから……」
「ということは編入生かしら……?」
「まあ、そんなところです」
一瞬にして見抜かれた。烏丸先輩、恐るべし。
「この学校は山を拓いて建てた学校ですから、校内に勾配があります」
なるほど、高台にあるだけでなく、校舎の立地自体に高低差があるのか。
「巴先生が副担任ということは、2年6組ですよね?……そうすると西棟の3階はこの北棟の3階ではなく2階に繋がります」
なるほど、だからもうひとつ上の階なのか。烏丸先輩について4階に行くと、すぐ『図書準備室』と書かれた部屋があった。外から見た感じ、普通の教室の半分ほどの広さがある。
「ようこそ!こちらが我らが巣、図書準備室です」
──巣、なのか。確かに、温かみがあって思ったより広い。この部屋自体は10人ほどが集まり、くつろげそうな感じかな。奥の方には図書室に通じる扉がある。その奥には暗めの茶色の髪をした男子生徒がいた。逆光のせいだろうけど、どんぐり眼が鋭く見える。あの人が鷹山さんだろうか。
「巣ってなんだよ……まあ、確かに僕らの巣だね」
この人も鷹山さんではないのか。
「そうでしょう、そうでしょう。喜べ、トビカワ!入部希望者です!」
烏丸先輩は思ったより幼い調子でトビカワさんに報告している。さっきのあれは何だったんだろうか。
烏丸先輩は嬉しそうに壁際にある棚からティーセットを出し、紅茶を淹れているし、トビカワと呼ばれた人は孫を見守るような目で烏丸先輩を見ている。
「あ、ごめん。自己紹介がまだだったね。僕は鳶川実幸。トンビの川に幸せが実るって書くんだ。君は?」
「楮原真澄です」
「なるほどー。真澄ちゃんだね!うん、君ならじゃじゃ馬くるみんと軍師のぞみんとも仲良くなれそうだね」
──じゃじゃ馬くるみんと軍師のぞみん?なんか、物騒なんですけど。
「その2人は?」
「この2人は文芸部2年の2人だよ。きっとますみんとも仲良くなれる」
ますみんって私か。この人、本よりゲームのほうが好きそうな気がするのに文芸部だなんて、意外だな。
「そう、なんですか。どんな人達なんですか?」
「あー、くるみんはねぇ……。いや、これは直接会ったほうが面白いかな?」
はい、紅茶。と烏丸先輩が紅茶のカップを置く。──美味しい。紅茶って渋いだけだと思ってたけど、そうでもないらしい。
「そうですねー。くるみんとのぞみんは会ってから仲良くなったほうが面白そうですねー」
まさかとは思いますが愉快犯なんですか?
「割とそうですね」
心の声が漏れてたらしい。さらっと返されるぐらいで良かった。怒らせてたらマジでやばかった。本気とかいてマジで。
「ちなみに鷹山先輩は?」
「あー!そういえばそうですね。ナス、流石に今日は休みですか?ナスが来なくてトビカワがいるというのは珍しいですね」
「うん。今日は用事があるってさ。僕は……まあ、野暮用だよ?」
「そうですか。いつもは当たる巴先生の読みが外れましたねー」
「どうする?あやや、何か書いてく?今日はもう閉めようかなって思ってたんだけど」
「んー。まあ、大丈夫ですね。ますみんの用事は大丈夫でしたか?」
「あ、はい。文芸部の方がいらっしゃるなら、ご挨拶をと思っただけですから。それで、柘植川先生に副部長の鷹山先輩がいらっしゃると……」
結局、副部長の彼女はいなかったが。部長はどんな人なんだろうか。
「じゃあ部長の僕に会ったから大丈夫だね」
え、部長!?この人が、部長だったの?──全然気づかなかった。
「そ、そうだったんですか。今後とも、よろしくお願いします」
「うん!こちらこそよろしくね!」
とりあえず優しそうな人達で良かった。──しっかし、今日は色んなことがあったな。これからも、色んなことがあるんだろうな。……いっそ日記でもつけてみるか。そう思って、家路についた。