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表(女性視点)

「よし、出来た」


気合いを入れて煮込んだビーフシチューの出来に満足した私は、ガスの元栓を閉めた。いつも通りの時間なら、あと10分ぐらいで旦那さんが帰ってくる。盛り付けを終えて出迎えるには丁度いい。

―結婚して1年。今日は私達の初めての結婚記念日。


食卓の上に2人分のランチョンマットを敷いた。それでも随分木肌が見えている。やっぱりこのテーブルは夫婦2人には大きすぎる。

テーブルだけじゃない、キッチンもソファもテレビも、結婚前の私の感覚からすると大きすぎて贅沢。この1年で当たり前になったのは、全部旦那さんの一眞かずまさんのおかげだ。


私が新卒で入社した頃、彼はもう課長を務めていた。配属先が総務部に決まって、初めましての挨拶をした日。それが最初の出逢いだ。といってもそこでお互いに惹かれて、いくつもの障害を乗り越えつつオフィスラブを満喫―なんてロマンチックなことはなく、一目惚れしたのは私だけ。その頃の彼には眼中にすら入ってなかったと思う。

私が務めていた会社は化粧品と聞いたら誰もが名を挙げる大手で、毎年大量に新卒を入れていた。当然総務部も例外じゃなくて、毎年大量に入ってくる新入社員の1人。むしろ仕事を覚えるのは遅いし動作自体もトロいし引っ込み思案だしで、同期や先輩達をとにかくイライラさせた。給料泥棒って言われても文句は言えない。そもそもどうして私なんかが内定を貰えたのか不思議で仕方ない。

一方彼の方はといえば、30歳そこそこで課長の座につけるだけでも相当すごいのに、正直言って部長よりも仕事はできた。誰よりも効率的で素早くて、何かトラブルがあった時のフォローも丁寧。よく部長が歯軋りしているのを何度も見たことがある。

いつも無表情で感情を表に出さない。それがクールでかっこいいって女の人から人気がある。バレンタインデーには両手じゃ抱えきれない程のチョコレートを貰っていたし、クリスマスは誘いたい女の人が多すぎて小競り合いになっいてたほど。でも毎回頑なに拒んでいたから恋愛事には興味がないんだって思っていたし、実は男色家なんじゃないかって噂もあったぐらい。

…だから今でも信じられない。2,3日行動を共にしただけなのに、いきなり公開プロポーズされたこと。


ワインのボトルとグラスを用意して、ビーフシチューを盛り付けて、サラダを置いて、デザートには甘さ控えめのザッハトルテ。エプロンを外しかけたところで、玄関の方から足音が聞こえた。


「おかえりなさい」


いつものように一眞さんの鞄を受け取る。彼は真っすぐダイニングに向かった。


「あの、丁度ごはんができたところで」

「ああ。…その前に、書いてほしいものがあるんだ」

「書いてほしいもの…?」


たった今並べ終えたばかりのディナーの横に置かれたのは、何か細かい文字と枠でびっしりな薄い紙。その正体が分かった時、私の理性は信じることを拒否した。


「…これ」

「見ての通り、離婚届だ」

「…なんで、だって今日は」

「知っている。結婚記念日だろう?区切りになっていいじゃないか」


さっきから彼は何を言っているんだろう。理解できない。理解なんてしたくない。

空の上からコンクリートの地面へ容赦なく叩き落とされたような感覚。手の中のエプロンを強く握るけれど、指先が麻痺して握っている気がしない。


「わ、私が何か気に障ることをしてしまいましたか…」

「分からないのか?自分のことだろう?」

「…………………」


長い長い沈黙に、彼の溜息が被さる。いつの間にこんなに飽きられていたんだろう。

本当に悲しい時、涙が出てこないのは本当だ。もはや泣く気力すら残っていない。


「まず、結婚して1年も経つのに敬語のままだし“さん”を取らない」

「だ、だってそれは一眞さんの方が年上だから」

「休みの日に構ってやらなくても何も言わないし」

「仕事で疲れてると思って…」

「無理な家事を強要しても大人しく従うし」

「一眞さんが喜ぶかなって…」

「全然誘ってこないし」

「誘って…?」

「SEXしたがらないってこと」

「…………………っっ!!だだだだって、そんなの女の人からすることじゃっ…!」


そう、私と一眞さんはまだ性交経験がない。結婚する前はそんなはしたないことをするものじゃないって両親に教えられたし、一緒にごはんを食べて、会社に行くのを見送って、昼間は家事をこなして、夜は隣で寝て、休みの日はずっと一緒に過ごす―そんな毎日が私にとっては十分幸せだから。


「…はっきり言うけど、お前俺のこと好きじゃないだろ」

「そんなことっ…!」

「いい、この1年でお前の気持ちはよく分かったから。俺は家政婦と結婚したわけじゃない」


もう、もう本当にダメなの?本当に終わりなの?この紙を埋めたら全部なかったことになるの?


「こっちで勝手に結婚話進めて悪かったな。もう付き合ってくれなくていいから」


着替えてくる、と彼の足が寝室に向かっていく。ここで引き留めなかったら、もう間に合わない気がした。そんなの嫌だ。


「ま、待って…!待ってください!」

「………何?」

「わ、私頑張ります!敬語も名前も、…えっち…も、全部頑張ります。だから」


彼が女の人に人気があるのはよく知っていた。結婚が決まった時は夢かと思った。

だからこのまま年を重ねていつか死んだとして、会社で先輩に叱られる毎日に戻ったとしても私は驚かない。

例え浮気されても、冷えた関係になっても奥さんとしていられるならそれでいい。だから、


「…捨てないで…」


貴方に出逢う前どうやって生きていたのか、もう思い出せないんです。


頬を伝う熱い液体を感じて、私は自分が泣いていることを知った。泣きながら別れないでって彼に縋るなんて、なんて面倒な女なんだろう。でも涙は止まってくれない。


「…へえ」


彼が振り向く。ネクタイを緩めている仕草にさえときめいてしまうんだから、もうどうしようもない。


「そこまで言われるとは思ってなかったよ」


”好き”ってどう表現すればいいんだろう。毎日隣にいて家事をこなして、それだけじゃダメなのかな。


「いいよ。そこまで言うなら、離婚は考え直しても」

「ほ、本当ですか!?」

「ただし条件がある」

「じょ、条件…?」

「そう、条件。1つ目は敬語をやめること。2つ目はさん付けをやめること。3つ目は完璧な家政婦を演じないこと。最後に4つ目は」


生唾をごくりと飲み込んだ。とんでもないことを言われる予感がした。


「毎日俺に抱かれること」

「えっ…」

「君の方から誘ってくるのを待っていたら年寄りになりそうだからな。ということで今日も今から」

「ま、待って…!ごはん…!」

「そんなもの、後で温め直して食べればいいだろう」


急展開に心も体もついていけない。膝の裏に腕を入れられて抱え上げられる。手に持っていたエプロンがはらりと落ちた。お構いなしに寝室へ連れていかれる。少しだけ乱暴に落とされたのはダブルベッドの真ん中。


「待って…っ!今すぐなんてそんな…」

「全部頑張るんだろう?」

「それは…でも」


彼の両腕に挟まれてもう動けない。何もかも初めてで、こんな時どう反応したらいいかなんて知らない。でもここで逃げたら明日には無理矢理離婚届に判をさせられることだけは分かる。


「―佐和さわ


キスされた時はどうやって息をすればいいんだろうとか、やっぱり初めては血が出るのかなとか。色々考えたけれど、耳元で甘く名前を囁かれたらもうダメなんだ。





翌朝。まだ上手く立てない私の目の前に、彼が離婚届を持ってきた。何も書かれることのなかったそれが、真ん中から真っ二つに引き裂かれていく。もう必要ないだろう?と笑う彼に私も笑い返した。

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