ゼロキュウ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ん? どうした、つぶらやくん。いきなり怪訝そうな顔をして。
――どこからか、救急車のサイレンらしき音がする?
え~、そうかなあ。少なくとも、僕の耳にはあまり聞こえないのだけど。
間違いなく、あの「ピーポー、ピーポー……」の音だよね? あの音は他のサイレンが鳴らす「ウー、ウー」よりも、人のメンタルに優しい音なのだとか。
心理的な圧迫感が弱めで、外で聞く人にも、内部の患者さんにも負担がかからないようにする効果を期待できて……。
――なに? 大きくなったかと思うと、そばを抜けて、また小さくなっていったような感じがする?
おっと、そいつはちょっと注意が必要なタイプかもね。間違いなく、そう感じたんだね? 救急車らしき影を認めることなく?
よし……まさか、小さいころに習ったおまじないのたぐいが、役に立ちそうな場面が来るとはね。ちょっとつぶらやくん自身にも協力してもらうことになる。いいかな。
今はどうだい? サイレンの音は聞こえる?
まだ大丈夫そうか。ならば、引き続き音に気をつけつつも、話を聞いてくれ。
僕たちの地元だと、その救急車のサイレンだけを鳴らす姿なき存在を「零及配車」と呼んでいる。通称、ゼロキュウだ。
平たく言うと、死神の一種とされる。このゼロキュウに、自分の横を三度通り過ぎられたとき、その者の存在は「ゼロ」になってしまうというんだ。
ぶっちゃけ死ぬわけだが、その死に方はいまひとつ安定していない。通常の突然死のようになるときもあれば、姿が消えることもある。
場合によっては、そいつのいた痕跡すべてがこの世から消えるなんてこともあるんじゃないか……とうわさされているが、本当のところは分からない。みんな覚えていないことになるのだから。
本当にゼロキュウの音を聞けているのだとしたら、なかなかのレアケースだよ。たいていは聞こえないまま、たちどころにすべてが終わっちゃうのだから。僕も聞くことはできていない。
ただ逃げるだけじゃだめだ。ゼロキュウに物理的な制約はない。いずれは通り過ぎられて、一巻の終わりだ。
今からやる対策は、つぶらやくんを含め僕自身の護身のためでもあるってわけ。
――またサイレンが聞こえてきた?
よし、じゃあ作戦開始だ。
まず両手の指で、両耳の穴を順番にふさぐ。親指から始まって、人差し指、中指、薬指、小指とね。それぞれ同じ指を使い、三秒ずつたっぷりとだ。
そうしたら、手と手を合わせ、頭を下げて一礼する。参拝するときの動作によく似ているな。そのままの姿勢で、様子をうかがうんだ。
もし音が近づくことなく、遠ざかっていって消えたのならば、万事解決。姿勢を正して、いつも通りの日常へ戻っていけばいい。
――やっぱり音は大きくなって、そばを通りすぎていった?
おいおい、ほんとかよ? いつかは死ぬとわかっているけど、まさか今日、その危機に陥るとか考えていなかったんだけど?
だが、まだ手はある。
つぶらやくん、なんでもいい。血を出せ。
指からでも鼻からでも、自分が抵抗なく出せるところで構わない。そして、ほんのちょびっとでも構わない。
……できた?
そしたら、その血を手のひらでぐるぐるかき混ぜて、よ~くしみ込ませる。
――サイレンが聞こえてきた?
よし、じゃあ最後の手だ。
先ほどと同じように、両手の同じ指で同じ穴をふさぐことをやる。ただし今度はラストに、血をなじませた手のひらをあてがって、ぎゅうっと耳の穴をおさえつけて。
完全に外からの音を遮る体勢。もう耳も頭も痛くなるくらいに、思いきりね。
――どれくらい、やっていればいい?
さあ? 聞こえない僕には判断がつかない。君に頼るしかないな。
いいかい、そうしていると手の甲と掌の双方が、かあっと熱くなってくるはずだ。その熱が引くまで、決して動かすことなく耐えるんだ。
熱に屈して、ちょっとでも手を緩めてみな。たちまち「ゼロ」へ運ばれる。
貴重な体験かもしれないが、残すこともできず、それっきりなんて意味ないだろ? それが嫌なら、気張ってほしいな。
僕もタイミングは君に任せる。命あずけたんだから、できれば聞き届けてもらえると助かるな。
ん? よさそうかい? 信用するよ。
ふう、なんとかやり過ごせた感じかい? いま教えたことは、またゼロキュウが現れたときにも役立つ。ぜひ覚えていてほしいな。
ああ、そうだ。最後に、その両手は入念に洗っておいたほうがいいよ。ゼロキュウの力に強く触れただろうからね。けっこう汚れているはずさ。
そいつをそのままにして飲食などなどをはさむと、体調を崩しやすい。帰宅時の手洗いうがいが推奨される理由のひとつも、ゼロキュウがからんでいるみたいなんだよ。




