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戻らない日常  作者: リンダ


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壊れた食卓

 第22話「壊れた食卓」


 人がひとりいなくなると、家の中のすべてが少しずつ狂う。

 ドアの開く音。

 階段を下りる足音。

 洗面所の明かり。

 そして、いちばんはっきり壊れるのが食卓だった。


 食卓は、家族が今日を持ち寄る場所だ。

 だから、そこに来るはずだった人が来ないことは、

 家そのものが壊れたことと、ほとんど同じ意味を持っていた。


 1 台所に立てない母


 夕方になっても、今日子は台所に立てなかった。


 冷蔵庫を開ける。

 野菜がある。卵がある。味噌もある。

 手順も、献立も、体は覚えているはずなのに、頭の中でそれが繋がらない。


 流し台の前に立つだけで、耳の奥に幸枝の声が蘇る。


「お母さん、今日なに?」

「ちょっと味見して」

「このおかず、明日のお弁当にも入れてええ?」


 その声があまりにも自然に聞こえるから、今日子は何度も振り返ってしまう。

 当然、そこには誰もいない。


「……無理」


 今日子はそう言って、流し台に手をついたまま泣いた。


 龍樹が台所の入り口に立つ。


「今日はもう作らんでええ」

「でも……」

「ええ」

「ご飯くらい、ちゃんと……」

「今は“ちゃんと”せんでええ」


 静かな声だった。

 でも、それが今日子には逆につらかった。


 台所は今日子にとって、家族を迎える場所だった。

 その場所に立てないということは、母親としての自分の一部が止まってしまったような感覚でもあった。


 2 買ってきた弁当


 その夜、龍樹が商店街で弁当を買って帰った。


 煮魚、唐揚げ、白ご飯、小さな惣菜。

 以前なら幸枝が袋をのぞき込んで、

「唐揚げある!」

 と真っ先に言っていただろう。


 でも今日は、袋の中身を見ても誰も何も言わない。


 テーブルに弁当が置かれる。

 今日子、龍樹、充。

 そして加賀家にいた一貴も、すすめられて席につく。


 そこで全員が、どうしようもなく気づく。


 幸枝の席が空いている。


 いつもの場所。

 幸枝が最初に箸をつけて、食べながら話し始める場所。

 笑いのきっかけが生まれる場所。


 そこだけが、きれいに空白だった。


 3 「いただきます」が言えない


「……食べよう」


 龍樹がようやく言う。

 それでも、加賀家でいつも自然に重なっていた言葉は出ない。


 いただきます。


 誰も言えなかった。


 充が弁当のふたを開ける。

 一貴も割り箸を割る。

 今日子だけは、箸を持ったまま動けない。


 最初に食べたのは龍樹だった。

 無理やり白飯を口に入れる。


 充も続く。

 一貴も、一口だけ飲み込む。


 その時、今日子がぽつりと言った。


「幸枝、唐揚げ好きじゃったよね」


 それだけで、食卓が崩れた。


 充が箸を止める。

 一貴は目を閉じる。

 龍樹も下を向いたまま動かない。


「これ見たら、絶対“一個ちょうだい”って言うのに」

 今日子の声が震える。

「絶対、一番に手ぇ出しとるのに……」


 そこで今日子は、もう食べられなくなった。

 箸を置き、顔を覆って泣いた。


 4 食べることの罪悪感


 充はその夜、初めて知った。

 食べることがこんなに苦しいことになるのだと。


 自分たちは生きるために食べる。

 それは当たり前のことだ。


 でも幸枝は、もう何も食べられない。

 好きだった唐揚げも、母の味噌汁も、試作したケーキの味見も。


 そのことを思うだけで、喉が詰まる。


「……なんで、こんな気持ちで食わんといけんのん」

 充が低く言う。

「なんで俺らだけ普通に腹減るんだよ」


 その言葉に誰も返せない。


 一貴がかすれた声で言う。


「栗のやつ、今度持って帰るって言ってた」

「……」

「この前、そう言ってた」


 幸枝が作るはずだったもの。

 一緒に食べるはずだったもの。

 それら全部が、未完のまま残っている。


 5 一貴、自分の家でも座れない


 江守家へ戻っても、一貴はまともに食卓につけなかった。


「一口だけでも食べなさい」

 小百合が言う。


「……いらん」

「いらんじゃない」

「食べられん」


 一也が静かに言う。


「座れ」

「……」

「食う食わんはそのあとでええから、まず座れ」


 一貴は座る。

 だが味噌汁を前にしても、箸を持つ手が止まる。


 幸枝は以前、江守家での夕食を楽しみにしていた。


「今度そっちでご飯食べたい」

「百合愛ちゃんと買い物行ったあと、お腹すくじゃろうし」


 そんな言葉が、今は全部刃になる。


 味噌汁の湯気を見ているだけで、一貴はまた顔を覆った。


 食卓は、人が生きている証明の場所だ。

 だからそこにいない人を、いちばん残酷に突きつけてくる。


 6 固定される空席


 それから加賀家では、夕方が来るたびに“空いた席”が当たり前になっていった。


 誰も幸枝の椅子を片づけると言い出せない。

 減らすことなんて、もっとできない。


 ただ、その席だけが毎晩空いたまま残る。


 今日子は何度か、無意識にその席へ湯呑みを置きかけた。

 龍樹が黙って元に戻す。

 充はそれを見るたび、胸の奥が鈍く痛む。


 空席は、日に日に“現実”になっていく。

 それがたまらなくつらかった。


 7 SNSというもうひとつの刃


 けれど、食卓を壊すものは家の中だけではなかった。


 事件が大きく報じられるにつれ、SNSには無責任な書き込みが溢れ始めた。


 最初は、ただの憶測だった。


 彼氏いたのに夜にひとりで歩いてたの?

 なんか行動が軽率じゃない?

 本当に婚約者いたのかな


 それだけでも十分ひどい。

 だが、すぐにもっと悪質な言葉が混じり始める。


 二股かけてたんじゃないか?

 男に媚び売ってたんじゃないの

 テレビにも出てたし、目立ちたがりだったんでしょ

 幸せアピールしてたなら、逆恨み買っても不思議じゃない


 何の事情も知らない他人たちが、

 たった数行のニュースと、断片的な映像だけで、

 幸枝の人柄そのものを勝手に作り変えていく。


 充は最初、それを見てしまった時、怒りで体が震えた。


「……なんなんこれ」


 スマホの画面を握る手に力が入る。


「何見てるの」

 今日子が聞く。

「いや……」

 充は一瞬ごまかそうとしたが、今日子は画面を見てしまった。


 そこで今日子の顔から血の気が引く。


「……何これ」

「見んでいい」

「なんで……」

 今日子の声が掠れる。

「なんで、あの子がこんなふうに言われんといけんの……」


 被害者なのに。

 何ひとつ悪くないのに。

 死んだあとまで、知らない誰かに踏み荒らされる。


 その現実は、家族をさらに追い詰めた。


 8 幸枝の人柄を否定される苦しさ


 いちばんきつかったのは、幸枝の人柄そのものを否定するような書き込みだった。


 明るい笑顔。

 仕事への真面目さ。

 花を見て喜ぶ素朴さ。

 家族や一貴を大事にしていたこと。


 それら全部を知っている家族にとって、


 男に媚びてた

 幸せそうな顔して見せびらかしてた

 どうせ裏でだらしなかったんじゃないか


 そんな言葉は、事件とは別の形で幸枝を殺されるようなものだった。


「幸枝はそんな子じゃない」

 今日子が泣きながら言う。

「そんなこと、する子じゃない……」


 一貴もスマホを見てしまい、言葉を失った。

 幸枝を知っているからこそ、こうした無責任な言葉がどれだけ残酷か分かる。


「……なんで、知らんくせに」


 怒りより先に、悔しさが来る。

 幸枝はもう、自分で否定もできない。

 だから残された者が、その汚れた言葉を受け止めるしかない。


 9 壊れた食卓の外側


 家の中では食卓が壊れている。

 家の外では、SNSがさらに別の食卓を壊していく。


「今夜なに食べる?」

「おいしいね」

「一個ちょうだい」

 そういう小さな会話が生まれるはずの場所へ、

 他人の無責任な言葉が流れ込んでくる。


 それはもう、第二の事件だった。


 今日子はついにスマホを見るのをやめた。

 充もニュースアプリを消した。

 一貴もSNSを閉じた。


 それでも、いったん見てしまった言葉は頭に残る。

 食卓の空席と同じように、目を閉じても消えない。


 10 最小単位が崩れる


 家族にとって、食卓は日常の最小単位だった。

 朝に座る場所。

 夜に今日を持ち寄る場所。

 笑いが生まれ、愚痴がこぼれ、約束が交わされる場所。


 その最小単位が崩れた時、家は家の形を失う。


 今日子が台所に立てないこと。

 龍樹が味の分からないまま食べること。

 充が空いた席を見られないこと。

 一貴がどこの家の食卓にも居場所を感じられないこと。


 そして、家の外の他人たちが、その壊れた場所へ土足で踏み込んでくること。


 それら全部が、幸枝の不在を別の形で証明していた。


 11 それでも夜は来る


 夜は来る。

 腹は減る。

 人は生きるために食べなければならない。


 その当たり前が、今はひどくつらい。


 悲しいから食べられない。

 でも食べないと、残された者まで倒れてしまう。

 その矛盾の中で、加賀家も江守家も、今日という一日をなんとかやり過ごす。


 壊れた食卓のまま。

 空いた席のまま。

 知らない誰かの言葉に傷つけられたまま。


 それでも、夜は終わる。

 朝が来る。

 そしてまた、幸枝のいない食卓が始まるのだった。

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