第5話 南の町の静かな波
南の町は、港町よりも静かだった。
潮の匂いは薄く、代わりに乾いた風が通り抜ける。
石畳の色も淡く、人の声も抑えめだ。
私は滞在用の部屋に荷を置き、
窓を開ける。
遠くに丘が見える。
ここでは、まだ誰も私を知らない。
それが少しだけ、軽い。
午後、小さな集まりが開かれる。
机を囲むのは五人。
港町よりも少ない。
視線が集まる。
「基準を示していただければ」
代表が言う。
私は首を横に振る。
「基準は、内部で生まれるものです」
一瞬の戸惑い。
だが、拒絶はない。
「では、何から始めれば」
「小さく始めましょう」
私は答える。
「続けられる範囲で」
沈黙が落ちる。
やがて一人が口を開く。
「試験的に、三件だけ」
別の者が補足する。
議論が動き出す。
私は端に座り、聞くだけだ。
港町での経験が、
ここでも繰り返される。
整えすぎない。
急がない。
夕方、代表が並んで歩く。
「あなたがいると、安心します」
その言葉は、どこでも同じだ。
「安心は、皆さんの内部で作ってください」
私は穏やかに言う。
「私がいなくても続く形を」
代表はゆっくり頷く。
夜、滞在先に戻る。
机の上に置いた紙に、
今日の経過をまとめる。
「小規模で開始予定」
「内部決定」
短い文で十分だ。
窓を開けると、
南の町の夜は静かだ。
港町の灯台のような強い光はない。
代わりに、淡い灯りが点々と続く。
私は思う。
基準にされることは、
特別な位置に立つことではない。
場が揺れたとき、
少しだけ重心を整えること。
それ以上でも、それ以下でもない。
翌日、最初の試験が始まる。
小さな規模。
控えめな動き。
だが、止まらない。
私は見守る。
必要なときだけ、短く言葉を添える。
「急がないでください」
それだけ。
三日目の夕方、
代表が報告に来る。
「問題はありますが、続けられそうです」
私は頷く。
「それで十分です」
彼らは私の顔色をうかがわない。
決定は、内部でなされている。
基準は、背景に下がり始めている。
それが何よりの成果だ。
滞在は短い。
四日目の朝、私は町を発つ。
見送りは簡素だ。
「また必要なら」
「ええ」
約束はしない。
馬車が進む。
南の町が遠ざかる。
私は振り返らない。
戻る場所があることを、
疑っていないからだ。
屋敷の門をくぐる。
庭の小径に足を踏み入れる。
足音が一つ。
そして、もう一つ。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
南の町では基準にされ、
ここでは並ぶ。
役割は増えた。
けれど、位置は変わらない。
整わないまま、
動き続ける。
それが、
今の私の生き方だった。




