第3話 複数の拠点
港町の朝は、屋敷の庭とは匂いが違う。
潮の気配が混じり、
風は少し強い。
滞在用の住まいは、簡素な石造りの建物だった。
広くはないが、机と寝台と、小さな書棚がある。
最初にここへ荷物を置いたとき、
私は少しだけ立ち尽くした。
この場所に、
私の衣類があり、
読みかけの書物があり、
予備の筆記具がある。
それは、
“仮”の滞在ではなく、
“繰り返し戻る前提”の準備だったからだ。
窓を開けると、
遠くに船の帆が見える。
屋敷の庭とは違う景色。
それでも、私は落ち着いている。
机に向かい、
昨夜届いた報告書を開く。
北の港町は、活気がある。
だが、内部の足並みが揃わない。
代表者は熱心だ。
若手も意欲的だ。
ただ、急いでいる。
私は紙の端に短く書く。
「順番を入れ替えないこと」
それだけで十分だ。
昼前、昨日門で会った若い女性が訪ねてくる。
「お時間よろしいでしょうか」
「ええ」
彼女は資料を広げる。
「この形で正式に整えたいと考えています」
整えたい。
その言葉に、私はわずかに微笑む。
「整えなくても、動いている部分はありますか」
彼女は一瞬、考える。
「……はい。あります」
「では、そこを止めないでください」
私はゆっくりと言う。
「止めないことが、最初の整え方です」
彼女は真剣に頷いた。
納得したわけではないだろう。
けれど、受け止めている。
私は答えを渡さない。
完成形を示さない。
それでも、
彼女は少し安心した表情を見せた。
午後、港を歩く。
荷を運ぶ人々。
声を張り上げる商人。
帆を畳む船員。
活気の中で、私は目立たない。
それでいい。
数年前なら、
「中心に立たねば」と思ったかもしれない。
今は違う。
中心は、内側にできるものだ。
夕方、住まいに戻る。
机の端に、
屋敷から届いた短い報せが置かれていた。
形式ばらない文面。
「問題なし」
それだけ。
私は小さく息を吐く。
問題がないことを、
いちいち確かめなくてもよい。
それでも、
共有される。
それが、今の距離だ。
夜、窓辺に立つ。
港の灯りが揺れている。
屋敷の庭は見えない。
石畳も、あの木々もない。
それでも、
私は不安を覚えない。
拠点が増えた。
屋敷。
この港町。
さらに南の小さな町。
どこにも、私の机がある。
どこにも、数冊の本が置いてある。
けれど、
本拠は一つに定まらない。
戻る場所はある。
けれど、
縛られる場所はない。
それが、
数年かけて整った形だった。
私は椅子に腰を下ろし、
短い手紙を書く。
長い近況は記さない。
「順調です」
「焦らなくてよいようです」
それだけ。
封をし、
明日の便に託す。
返事を急がない。
急がせない。
距離は、
確認し合うものではない。
積み重ねた時間が、
それを保証する。
夜風が窓から入る。
私は目を閉じる。
遠くへ来ても、
並びは崩れていない。
数日後、
私はまた屋敷へ戻るだろう。
あるいは、
予定が延びるかもしれない。
どちらでもいい。
私は今、
この場所に立っている。
そして、
戻る場所も知っている。
複数の拠点を持ちながら、
私はどこにも縛られていない。
それが、
今の私の生き方だった。
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