第2話 広がった範囲
部屋へ戻ると、机の上には整えられた書類が置かれていた。
出発前に目を通すべきものと、
戻ってからでよいものとが、きちんと分けられている。
誰の配慮かは聞かない。
聞かなくても分かることが増えた。
椅子に腰を下ろし、一枚ずつ確認する。
北の港町からの報告書。
前回訪れた際の議事録。
簡素な地図。
どれも深刻ではない。
ただ、形を整えきれずにいる空気が伝わる。
真似をすることは難しくない。
けれど、土壌が違えば、
同じ種でも育ち方は変わる。
私はペンを手に取り、
短い指示を書き添える。
「形式を急がないこと」
「まず、内側で共有すること」
それだけで十分だ。
答えを渡さない。
完成形を示さない。
それが、私が守ってきた距離だった。
荷物は多くない。
数日の滞在であれば、
衣類と最低限の資料があれば足りる。
滞在先にはすでに、
いくつかの私物が置いてある。
最初にそれを用意したとき、
私は少しだけ戸惑った。
そこに“拠点”を作ることは、
ここを曖昧にすることではないかと。
けれど、時間が教えてくれた。
拠点は増えても、
戻る場所は減らない。
私は窓を開ける。
庭が見える。
彼の姿はもうない。
それぞれの仕事へ向かったのだろう。
追いかけない。
呼び止めない。
必要なら、夕方にまた並ぶ。
それだけのことだ。
支度を終え、
再び庭へ出る。
出発は明日だが、
今日は町の北門まで出向く予定がある。
門をくぐると、
屋敷は視界から外れる。
以前なら、
その瞬間にわずかな寂しさを覚えただろう。
今は違う。
見えなくなっても、
失われたわけではないと知っている。
町の通りは、以前より整っている。
行き交う人々の顔も、
どこか落ち着いている。
私の名を呼ぶ声が聞こえる。
以前より、敬意が混じっている。
私はそれを、
受け取りも拒みもしない。
ただ、必要な返事をする。
「滞在は短いのですね」
商人の一人が言う。
「ええ」
「戻られますか」
「ええ」
その問いに、
私は迷わず答える。
戻るかどうかを、
考えたことがないわけではない。
けれど、
戻らない未来を想像しても、
恐怖はない。
選び直せばいいと、
分かっているからだ。
北門の近くで、
一人の若い女性が待っていた。
数年前なら、
私の後ろをついて歩いていたような年頃。
真面目そうな瞳が、
こちらを見つめている。
「明日の件、確認に参りました」
丁寧な声。
「ありがとうございます」
私は頷く。
彼女は熱心だ。
少し、急ぎすぎるところもある。
かつての私に似ている部分がある。
「今回の滞在で、
形を整えたいと考えています」
彼女は言う。
「整えなくても、
回る形を探してください」
私は静かに返す。
彼女は一瞬、戸惑う。
完成を急ぐ気持ちは分かる。
けれど、
急いで固めた形は、
あとで軋む。
「焦らなくていいのです」
私は続ける。
「続く形は、
少し曖昧なほうがよいこともあります」
彼女はゆっくりと頷いた。
納得しきってはいないだろう。
それでいい。
私が納得させる必要はない。
北門から屋敷へ戻る道を歩く。
午後の光が、
石畳を照らしている。
明日、私はここを発つ。
数日後、
あるいはそれ以上先に、
また戻る。
戻る日を、
今日も確認しない。
それでも、
並びは崩れない。
屋敷の庭が見えてくる。
風が、やわらかく吹く。
私は思う。
距離は、
広がることができる。
時間は、
積もることができる。
けれど、
並ぶという感覚は、
そう簡単には変わらない。
門をくぐる。
今日も、ここに戻った。
そして明日、
私はまた遠くへ行く。
並んだまま。




