第1話 数年後の朝
本作は
『婚約は破棄されましたが、私は静かに身を引いただけです』
の続編にあたります。
前作を読んでくださった方へ。
あの選択の先を、少しだけ描きたくなりました。
変わらない並びの、その後の物語です。
そして、ここから読み始めてくださる方へ。
前作を読んでいなくても問題ありません。
婚約破棄の出来事はすでに過去のものとして、
穏やかな時間から始まります。
復讐や激しい対立はありません。
距離を選んだ悪役令嬢が、
そのまま静かに歩き続ける物語です。
安心してお読みいただければ嬉しいです。
朝の光は、数年前と変わらないはずなのに、
どこか角が取れて見えた。
時間がそうさせるのか、
それとも私のほうが丸くなったのか。
確かめるほどの違いではない。
ただ、庭に出た瞬間、
ここが「戻る場所」になって久しいのだと、
改めて思う。
小径に足を乗せる。
石の配置も、木々の影も、
以前と同じだ。
違うのは、
ここを歩く私の感覚だけだった。
迷いなく、まっすぐ進む。
急ぎもせず、立ち止まりもせず。
一人分の足音のあとに、
もう一つが自然に重なる。
「おはようございます」
振り返らなくても分かる声。
「おはようございます」
私たちは並んで歩き出す。
歩調を合わせようとはしない。
合わせる必要がなくなったからだ。
数年という時間は、
人の癖を変えるほど強くはないが、
意識を削るには十分らしい。
「今日は早いのですね」
彼が言う。
「少しだけ」
私は答える。
明日、私は遠方へ発つ。
三日ほどの滞在予定だが、
延びる可能性もある。
以前なら、
出発の日程を何度も確かめていただろう。
戻る日をはっきり決めて、
安心材料のように握りしめていたかもしれない。
今は違う。
「戻りは、未定で構いません」
彼は穏やかに言う。
「状況次第で」
その言葉に、
私は小さく頷いた。
戻る日を固定しない。
それでも、戻ることは疑わない。
約束ではなく、
前提になった。
庭の端まで来ると、
自然に足が止まる。
空は高く、
淡い色をしている。
数年前、
私は未来を決めないことを選んだ。
誰かの隣に立つことを、
条件にしないと決めた。
支える立場にも、
支えられる立場にも、
自分を固定しないと決めた。
あの選択が、
正しかったかどうかは分からない。
けれど、
少なくとも今、
私はここにいる。
外での活動は広がった。
一つの地域だけではなく、
いくつかの場所から相談が届く。
滞在用の住まいも増えた。
書類の宛名には、
以前より長い肩書きが添えられる。
それらは、
私を少し遠くへ運ぶ。
けれど、
私自身を大きくはしない。
「忙しくなりましたね」
彼が言う。
「少しだけ」
私は同じ答えを返す。
忙しさは、
誇るものでも、避けるものでもない。
ただ、届く距離が伸びただけだ。
「困ってはいません」
彼は続ける。
その言葉の意味を、
私は理解している。
私が遠くへ行くこと。
滞在が延びること。
予定が変わること。
それらを、
彼は問題にしない。
止めない。
引き止めない。
責任にしない。
それがどれほど静かな信頼か、
私は知っている。
風が吹き、
葉が揺れる。
並んで歩くこの時間は、
特別ではない。
特別にしないように、
互いが気をつけてきた。
「今回は、どちらへ」
「北の港町です」
新しく広がった地域の一つ。
真似をしようとして、
うまくいかなかった場所でもある。
私は助言を求められているが、
答えを与えるつもりはない。
形は、
外から渡すものではないからだ。
「長くなりますか」
「分かりません」
それ以上、会話は続かない。
説明は不要だ。
心配も、過度な励ましもいらない。
私たちは、
互いの位置を把握している。
同じ方向を向いている必要も、
同じ速さで進む必要もない。
ただ、
見失わない距離にいる。
それだけで十分だ。
庭を一周し終える頃、
屋敷の中から控えめな足音が聞こえる。
今日も、生活は動き出している。
私は立ち止まり、
小さく息を吸う。
数年前、
ここは「とどまる場所」だった。
今は違う。
ここは、
「戻る場所」だ。
とどまることを義務にしない。
離れることを裏切りにしない。
だから、
ここに戻れる。
「では」
私は言う。
「準備をしてきます」
「ええ」
それだけで十分だった。
特別な別れの言葉はない。
見送りの儀式もない。
明日、
私は遠くへ行く。
数日後、
あるいはもっと先に、
またここへ戻る。
戻る日を、
確認しない。
それでも、
並びは変わらない。
距離は、
関係の強さを測るものではない。
数年という時間が、
それを教えてくれた。
朝の光が、
庭をやわらかく照らす。
私は屋敷へ向かう。
足取りは軽い。
遠くへ行くことは、
離れることではない。
並んだまま、
私は遠くへ行く。
それが、
今の私の生き方だった。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
当面の間は、1日に3話を投稿予定です。
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