第1話 追放と、ひと匙の塩
王都を囲む城壁の影が、昼なお暗い路地に長く伸びていた。
冒険者ギルドの扉が、背中で荒々しく閉じられる。
扉の向こうからは、笑い声と、椅子を蹴る音と、最後に「二度と来るな、保存庫野郎!」という罵声だけが追いかけてくる。
俺――リオン・グレイは、革袋ひとつを抱えて路地に立ち尽くした。
たったひとつの固有スキル〈保存庫〉。
物を入れておける、ただそれだけだと誰もが言った。
剣でも魔法でもない。火花も光も出ない。パーティに一人いると便利かもしれないけど、いなくても困らない。そんな評価。
実戦で役に立たない奴はいらない――それが、今日俺が追放された理由のすべてだった。
路地を抜ける風が、汗ばんだ首筋を冷やす。
今さらギルドに土下座して戻る気もない。戻ったところで、また「荷物持ち」として罵られるだけだろう。
だったら、どこか静かな場所で、荷を減らして、ゆっくり息をついてみたい。そんな弱気な、あるいは素直な気持ちが、それでも胸の底にあった。
「……辺境に行くか」
独り言は石畳に沈み、やがて馬車の車輪の音に消えた。
◇
王都の北門から三日。
貸し馬車の背板に腰をかけ、がたがたと揺られていると、並んで座る商人の親父が声をかけてきた。
「兄ちゃん、王都の顔じゃないな。旅の冒険者かい?」
「……元、だな」
「元? 若いのに引退は早ぇ。怪我でも?」
「いや、スキルが役に立たなかっただけだ」
「あー、あるあるだ。うちの甥っ子も〈草むしり〉とかいうスキルでな。庭師になって結構儲けてる。役に立たないもんなんてないさ」
親父は笑い、ひょいと俺の革袋を指で弾いた。
「で、兄ちゃんのは?」
「〈保存庫〉」
「おお、便利じゃないか。腐らねぇんだろ? 肉でも魚でも、干し草でも、香辛料でも。俺が一番欲しいスキルだよ」
「腐らない、のかな……」
そこは、俺にもわからない。
〈保存庫〉で長期間しまっておいたものを、取り出して比べられる機会がそもそもなかった。
パーティでは、俺が入れる→仲間がすぐ取り出す→現場で使う、の繰り返し。腐る暇もない。
腐らないとしたら、どれくらい持つのか。
味は? 匂いは? 重さは? 変質は? ……考え始めると、馬車の揺れよりも胸のざわめきのほうが大きくなっていった。
親父は肩をすくめる。
「辺境にゃ、物が腐るのを嫌がる奴らが多い。水も悪いし、道も悪い。昨日の飯が今日も飯ってわけにゃいかねぇからな。もし本当に腐らねぇなら、英雄様だ」
「英雄はやめてくれ。俺は、静かに暮らしたいだけなんだ」
「はは、辺境で静かに、ね。まあ着いてみりゃわかるさ。次の町は霧の関ってところだ。山霧が降りるたびに川幅が変わって、橋が流れる。あそこを越えりゃ、もう王都の影は薄い」
親父は口笛を吹いた。
荷台の隅で、俺は革袋から木箱を取り出して〈保存庫〉に滑らせる。
意識を落とすと、暗い水面のような空間が、掌の向こうに現れる。
そこに木箱を落とすと、水紋のような波紋が広がって、すぐに静まる。
入る瞬間、箱の重さが、感覚からすっと消えた。
何度やっても、不思議な感覚だ。
◇
霧の関は、噂どおり白かった。
白い霧が川面を這い、白い霧が土壁を濡らし、白い霧が人の声を柔らかく包む。
馬車を降りた俺は、宿を探す前に、まず市場を覗いた。
並ぶのは干し肉、燻製、固い黒パン、塩漬けの野菜。
水が悪いのか、露店で煮立っている鍋はやたらと香辛料が強い。
果物は少ない。葡萄の干し房がひと串銀貨一枚。王都の三倍はする。
露店の女が、ぱしりと手首を掴んだ。
「兄ちゃん、買ってって。今日は塩が高いの。雨のたびに道が悪くなって、馬も死ぬんだよ」
「塩?」
「塩だよ。あっちの山の塩田が半分流れちまってさ。代わりに王都から買うと、今度は税が跳ね上がる。塩は命だよ。肉を守る、体を守る。……兄ちゃん、塩を持ってないかい?」
俺は一瞬、親父の言葉を思い出した。
もし〈保存庫〉が腐敗を止められるなら――。
逆に、塩の必要は減る。
でも、そんな確証はない。
「悪いが、試したことがない」
「試す? ……何を?」
「保存だ。腐るか腐らないか」
女はきょとんとしたが、すぐに目を細めた。
「兄ちゃん、腕は悪くなさそうだね。なら、あそこの酒場に来な。豚の塩漬けが足りなくて困ってる。うちの旦那が亭主だ。うまくいったら、今夜の飯ぐらいは出すよ」
腹が鳴った。
霧の関での最初の仕事。悪くない。
◇
酒場の厨房は戦場だった。
薄暗い板間に、油の匂いと、怒声と、湯気。
亭主の親父――太い腕に布を巻いた髭面――は、女房から話を聞くや、俺をまっすぐ見た。
「保存が得意って?」
「得意かはわからないが、やれることはやってみる」
「豚三頭分の肉だ。塩樽は空。今日じゅうに何とかしてくれりゃ、銀貨二十枚出す。できねぇなら追い出す。客は待ってくれねぇ」
「いいだろう」
俺は、巨大なまな板の前に立った。
吊るされた豚の腿。滴る血。
〈保存庫〉の空間を意識し、親父に指示する。
「まず、肉を一斤大に切ってくれ。筋の向きはこっち。常温で汗をかいてるから、余計な水分を拭く。塩の代わりに、胡椒と唐辛子と乾いた香草はあるか?」
「胡椒は高ぇが、ある。唐辛子と月桂樹は庭から取れる」
「胡椒は後で。今は香草を刻んでくれ」
俺は茹で釜の隣で、木鉢を拝借して、油と酢を使った簡易のマリナードを作る。
塩の代わりに酸で菌の増殖を抑える――王都の料理師から聞いた受け売りだ。
だが、それだけでは足りない。
俺の賭けは、ここからだ。
切った肉を、ひとつ、またひとつ、〈保存庫〉へ滑らせる。
冷たい水に沈むような感覚。
暗い空間の中で、肉塊は動かず、時も動かない――そんな直感めいた確信があった。
手を差し入れ、ひとつを取り出す。
取り出した瞬間、湯気立つ厨房の熱に触れて、肉は汗をかく。
俺は鼻を寄せ、目を凝らし、指で押して弾力を見る。
――変わっていない。
入れる前と、手触りも、匂いも、まるで同じだ。
次に、マリナードに浸した肉を〈保存庫〉へ入れ、すぐ取り出してみる。
液は肉に入っていない。
だが、香草の香りが、なぜか微かに強まっている。
最後に、刻んだ香草と胡椒を大胆にまぶし、〈保存庫〉へ入れて数呼吸。
取り出して、刃先で表面を薄く削ぐ。
すると――。
「匂いが……変わった?」
女房が目を見開いた。
胡椒の刺激に、月桂樹の清澄さが絡む。
香りが、まるで時間を飛ばしたみたいに、丸く馴染んでいる。
俺の背筋を、ひやりとした理解が走った。
〈保存庫〉は、ただ時間を止めるだけじゃない。
入れたものの「性質」を、わずかに整える。
雑味を削ぎ、香りを引き立て、角を丸める――そんな方向へ。
鍋を空けろ、と俺は叫んだ。
「強火。鉄鍋を煙が上がるまで熱して、油をひと匙。肉は動かすな。片面は焦げ目がつくまで我慢。返したら、すぐにワインか水を注いで、蓋で蒸し焼きだ」
「お、おう!」
肉が焼ける音は、いつだって世界を黙らせる。
酒場の喧騒が、ひと息だけ止まった。
焦げ目の香りが、胡椒を連れて立ち上がる。
皿に盛り、切り分け、塩の代わりに砕いた岩塩を指先でほんのひとつまみ――。
客の前に置いた。
最初のひと口で、俺は固唾を呑む。
客の目が見開かれ、頬がほどけ、次のひと口が急ぐ。
椅子の軋み。笑い。器のぶつかる音。
そして――。
「うめぇ!」
厨房が爆ぜたように沸いた。
女房は俺の肩を叩き、亭主の親父は腕を組んで頷いた。
「塩なしで、この味か。……いや、塩は少しやったか。だがな、兄ちゃん、これはいける」
「保存は?」
「明日の朝、確かめよう。今は客が腹を鳴らしてる。焼け! 焼け! 全部焼け!」
俺は笑い、汗を拭いた。
油の飛沫が腕に散り、熱い痛みが遅れてくる。
それさえ、どこか懐かしかった。
◇
夜が更け、霧の関は静けさを取り戻した。
酒場の片付けが終わると、亭主は銀貨を皿に置き、俺の前へ押しやった。
「約束だ。銀貨二十。……いや、二十五。明日の朝、もし本当に腐らず旨いままだったら、もう二十五追加だ」
「大盤振る舞いだな」
「塩がないんだ。塩がな。塩がなくても回るなら、うちは救われる」
俺は頷き、腰の革袋に銀貨を落とす。
軽い。
〈保存庫〉に入れれば、重量は消える。
だからつい、入れっぱなしにしてしまう。
盗まれる心配も、落とす心配もない。
便利なスキルだ、と初めて素直に思った。
「兄ちゃん、宿は?」
「決めてない」
「なら二階の空き部屋を使いな。特別に安くしとく。それと……」
亭主は声を潜めた。
「明日の朝、見張りを立てる。塩泥棒じゃねぇ、塩商人だ。塩の値を釣り上げるために、塩なし保存の噂を潰しにくる連中がいる。何をしてくるかわからない」
「物騒だな」
「ここは辺境への関所だ。王都のルールは薄まる。だからこそ、兄ちゃんみてぇな妙な技を持つ奴が生きやすいときもある」
妙な技。
悪くない響きだ。
階段を上がろうとしたとき、酒場の戸口が控えめに軋んだ。
霧を連れ込むように、外気がひやりと流れ込む。
入ってきたのは、灰の外套をまとった旅人だった。
フードの影から覗く横顔は、女のものだ。
背筋の通り方と、腰の剣の飾りが、ただの旅人でないことを告げている。
「すみません、水を一杯。……それから、焼いた豚があると聞いて」
「あるとも、嬢ちゃん。席に座りな」
女は座らず、俺のほうへまっすぐ歩み寄った。
目はまっすぐ。霧の色をした、涼しい灰色。
「あなたが、保存の人?」
「……人、ではあるが」
「この町の噂は、山を越えるのが早い。塩なしで肉を持たせた、と」
「大げさな」
「大げさかどうか、確かめに来た。私は王家北辺守の使い。名をサラ。――辺境の前で、塩は命。塩の道が止まれば、兵も民も干上がる。……だから、あなたの噂が本当なら、今すぐ協力してほしい」
王家。
辺境守。
俺は目を瞬いた。
わかりやすい面倒の匂いがする。
けれど同時に、なぜだか胸の奥が軽くなるのを感じた。
俺は、静かに暮らしたいだけだ。
だけど、困っているのを見過ごすほど冷たくもない。
それに――。
「明日の朝まで待て」
「夜襲のように急を要する」
「保存は一晩経って初めて価値がわかる。今は旨いだけだ。朝、同じ旨さなら話を聞け」
サラは一拍置いて、頷いた。
「わかった。夜は長い。私はここで待つ」
女房が肩をすくめて、湯気の立つマグを渡す。
サラはそれを受け取り、入口近くの柱にもたれて座った。
剣は膝に。外套は肩から少し落とす。
見張りだ。
誰に対してか。塩の商人か、俺にか、あるいは夜の霧そのものにか。
俺は二階の部屋に上がり、粗末な寝台に仰向けに倒れた。
天井板の隙間から、台所の灯りが筋になって差し込む。
指先に意識を向ければ、〈保存庫〉の暗がりがすぐそこにある。
そこに、肉。
葡萄の干し房。
胡椒。
針と糸。
そして、王都を出る前に、ふと買って、いつの間にか忘れていた――小さな布袋。
袋の口を開けると、指先に触れるのは白い粒。
塩だ。
王都の市場の片隅で、安売りしていた粗塩。
俺は苦笑して、また袋を閉じる。
今、これを取り出したら、女房は泣いて喜ぶだろう。
でも、それじゃ意味がない。
塩なしでもやれる、という確信が欲しい。
俺が〈保存庫〉で何ができるのか――自分自身、まだ何も知らないのだから。
階下から、椅子を引く音がした。
サラが姿勢を変えたのだろう。
外は静かだ。
霧の関では、夜に余計な音を立てるのは、古くからの禁忌らしい。
霧は人を迷わせる。音は敵を呼ぶ。
そういう迷信は、守って損はない。
「……いい眠りを」
ひとりごとを呟き、目を閉じた。
◇
朝。
霧は薄く、空は淡い。
酒場の厨房に降りると、女房と亭主、そしてサラが、すでにまな板の前に並んでいた。
吊るした肉のいくつかは、昨夜〈保存庫〉に仕舞ったもの。
いくつかは、仕舞わずに吊るしたもの。
比べるには、ちょうどいい。
「まず、仕舞わなかったほうから」
刃を入れると、内側にうっすらと色の変化。
匂いは悪くないが、鮮烈さはない。
表面に微細な粘りがあり、昨日の汗が馴染んだ気配がする。
焼けば食える。だが、酒場の看板にするにはやや心許ない。
「次に、〈保存庫〉のほう」
取り出した瞬間のひんやり。
刃を入れると、筋がきれいに切れ、断面の水分が澄んでいる。
鼻を寄せるサラの睫毛が震える。
「匂いが……昨日のまま?」
「いや、昨日より透き通ってる」
亭主が腕を組む。
焼いて、食べる。
昨夜と同じ手順。
油が弾け、香草が笑い、肉は素直に火を受け入れる。
噛むと、肉汁が舌の上でほどける。
塩が少ない分、胡椒と香草が仕事をする。
不思議なことに、塩気が足りないはずなのに、「旨味」はむしろ強く感じた。
サラは二口で飲み込み、短く言った。
「本物だ」
背筋の緊張が解ける。
女房がその場で小躍りし、亭主は大きく息を吐いた。
「兄ちゃん、うちに住まねぇか。月銀貨二十。飯つき」
「ありがたいが、俺は流れ者だ」
「流れ者が住み着くのが辺境だ。……だが、わかった。なら、もうひとつの口を考えなきゃならねぇ」
亭主がサラに視線を向ける。
サラは頷いた。
「私は北辺守の詰所に戻り、この技を報告する。正式に依頼を出す。塩の補給線が戻るまで、兵糧の保存と配給に協力してほしい」
「俺は料理人じゃない」
「知っている。あなたのスキルが欲しい。あなたは保存を考え、私は護る。役目が違う」
「護る?」
「夜のうち、店の裏に二度、足音があった。塩商人だ。……いや、塩を扱う連中の端だからこそ、動きが拙い。だが、本流が動く前に、準備がいる」
サラは懐から、封蝋のついた書状を取り出した。
赤い蝋に、北の狼の紋章。
それは、王家の辺境守が緊急時に使う通行と徴用の証――と、どこかで聞いたことがある。
「これを持って、私と来てほしい。川を越え、山を越え、辺境の手前の村まで。そこから先は、もっと荒い」
俺は〈保存庫〉の底を覗く。
暗い水面に、塩の袋が沈んでいる。
塩があれば、楽はできる。
でも、俺のスキルが本当に役に立つのは、塩がないときだ。
昨日と今日で、それははっきりした。
いつの間にか、俺は笑っていた。
「わかった。行こう。ただし、条件がある」
「聞こう」
「旅の途中、どこかに畑を見つけたら、少し寄り道をする」
「畑?」
「香草だ。月桂樹は庭にあったな。できれば、タイムとセージとローズマリー。……それから、ニンニク。匂いの強いのがいい」
サラは目を瞬き、やがて笑った。
霧の色をした目が、少しだけ柔らかくなる。
「いいだろう。護衛の手間は増えるが、軍には畑の人手もいる。香草なら尚更」
「あと、胡椒をもう少し。高いのは知ってるが」
「経費で落とす」
女房が「経費って何だい」と首を傾げ、亭主は「落ちるのか?」と妙なところに食いつく。
俺は肩をすくめ、まな板を拭いた。
静かに暮らしたい。
それは、本当だ。
だけど、静けさは、意外とこちらから歩いていかないと捕まらない。
辺境の前で、霧が薄れる。
霧の向こうで、きっともっと面倒くさい何かが待っている。
それでも、俺は行く。
自分のスキルが、どこまで通用するのか――。
そして、どこまで美味しくできるのか。
それを、この手で確かめたいから。
「リオン、だったな」
サラが手を差し出す。
硬い手。剣の柄を握り続けた手だ。
「ああ。リオン・グレイ」
「私はサラ・ヴァルト。……これからよろしく、保存庫の人」
「呼び名、なんとかならないのか」
「なら、保存の達人」
「もっと悪い」
笑い声が、霧の関の朝に溶けた。
俺は〈保存庫〉の口を開き、必要な荷だけを取り出す。
革袋は軽い。
心も、軽かった。
そして俺たちは、関所の北、まだ見ぬ辺境へ向けて歩き出した。
(つづく)