捌-大君-
再び現れた天女に連れてこられた場所は、天井のない洞穴のような場所だった。
苔生して、木の根が這う岩肌が四方から迫る。
ここは巨大な岩を六角形にくり抜いた穴の底。
今まで歩いてきた何処よりも柔らかな大地には、花のない葉ばかりの木々が空間を覆い隠すように生えている。
手入れなどされていないかのようなその狭い庭は、それでも自然のような強さを秘めていて、見る者全てを圧巻させる。
どの宮の庭よりも静かで、冷たく、ひっそりとした空気。遙か高い場所に見える空には鳥が飛んでいて、それが鳴くたび庭が生きているように蟲たちが鼓動する。
その小さな庭の中央には穴と同じ形の東屋があり、そこから琵琶の音が聞こえてきた。
それはどんな者の耳にも届く花の音色。どこかもの悲しく、いつかは尽きてしまいそうで、それでも力強く人の心に響いてくる。
天女に案内されるがまま緑をかき分け見えた東屋は、その全ての柱の間から御簾が下ろされ、人一人が座れる程度の部屋となっていた。
今はその御簾が一つだけ上げられて、琵琶を奏でる者の口元までが見える。
紫苑は天女とお付きの仙女二人、そして何故か付いてきた狗と並んで、その建物から数歩離れた場所で足を止めた。天女と仙女は揃って深々と頭を下げて、狗だけがチラリと紫苑の表情を伺う。
「姫様」
天女が声を掛けると、白くほっそりとした指は弦から離れ、銀杏型の撥も動きを止めた。
唐草模様の見事な十二単が敷かれた畳の上に広がっている。
その上を流れるように艶やかな黒い髪が滑り、彼女が動くたびに光を受けて、深い緑の色に輝いた。
白くほっそりとした顎で小さな桜色の唇がそれ花を添える。
これだけ見たって年齢が分かる訳じゃ無いし、神様なのだから年齢はそもそも無いのだろうけれど、何となく、紫苑は自分と対して変わらない年齢の見た目だと感じた。
ただその動きは紫苑とは比べものにならぬほど優雅で、琵琶を置く動作一つとっても無駄がなく、流れるようにしなやかだ。
そんな動きにひたすら見とれていた紫苑は、そんな美しい人がこちらを向いていることに気がついて身を固くした。
その桜色の唇が開かれると、春のような声が漏れだした。
「よくぞ参られたの」
体つきよりもずっと幼い声だ。
「春宮紫苑です。時を渡る前にご挨拶を」
天女はそう言い置いて、自分は楚々と後ろへ下がった。お付きの仙女達は、初めから入り口付近から動かずに、顔さえ上げていない。紫苑の隣にいるのは、何故か着いてきた焔の狗だけで、彼は後ろに下がった者たちと違って飄々とした表情で東屋を見ている。
「狗から話しを聞いたようじゃの」
「は……はい」
「主に力を与える理由は、あくまでもあの女を捕らえるため。決して主の願いを叶えるためではない」
「は?でも」
「が、その力を主がどのように使おうが妾には分からぬ。あの女が目的を達する前に妾の願いを叶えてさえくれれば何に使おうと主の自由じゃ。但し、人を不幸にするような使い方をしてはならぬ」
「それはもちろん」
彼女の唯一見える口元がふわりと笑った。
「簡単なことではないぞ。時宮ならいざ知らず、主は時宮が決めた時の流れを無理矢理曲げることによって時を渡るのじゃからの。時宮には主のことを伝えてあるが、あやつらにとっては自分の管理下にある時を壊されたも当然のこと。それを元に戻すことなく去ることは、あの女がしていることと同じじゃ」
紫苑が眉間に皺を寄せると、彼女は益々楽しげに笑った。
「そのような顔をしておるうちは心配なかろ。時の直し方はその地の時宮が知っておる。必ず挨拶し、崩れた時を直すよう。それと、サネの事じゃがの」
「ここにいるんですか!?」
「そんな嬉しそうな顔をされても期待には応えられぬよ。あの者は今も、妾が与えた時を護り続けておる」
「与えた時?」
「あの者に与えた時は、主が住んでいたあの土地の千年の時間。そこで起こる事象全てをあの者は管理し、それ故に主を護るよう妾が指示した。あの者は何度もあの女と巡り会い、何度も主を護った。そして主が生きた時でも同じようにそれは果たされたが、少し、主と同じ時を過ごしすぎたようじゃの。主が幸せでなくなることが許せなくなったようじゃ。どの時でも、主が両親とともにおられぬ事が悲しかった。主はそれほどの悲しみ方をしたのであろうの。今からは想像も出来ぬが」
確かに、あそこで翁……焔が居なければ、きっと泣きじゃくって、絶望して、サネの所へ行って世を呪う言葉を吐き散らしていただろう。あんな両親でも居てくれたからこそ文句も言えたし、不満もあったのだと。居なくなってしまえばそこには優しい思い出しか残っていない。そしてその優しさが二度と得られないことに、失ったものの大きさを見るのだ。
祖母が死んだ時、紫苑はこの世の終わりとばかりに泣いた。あの頃の紫苑にとって世界を教えてくれたのは祖母だったし、祖母以外に彼女の周りには誰もいなかったのだから、ひょっとしたら世界の終わりと言っても過言ではなかったのだろう。
けれどそんな祖母が死んだ時は、まだ寿命だったのだから仕方のないことなのだと思うことが出来るようになった。世の理なのだから仕方がないと思って、三週間ほどで立ち直ることが出来た。
けれど今回は父も母も理不尽な運命に巻き込まれただけで、そこには何の因果も見出せない。それにあそこでサネに追い帰されなければ、きっと両親を殺した者の姿を見ることも出来ず、ただ自分を責めて、死にたいとさえ言ったかも知れない。
そんな私を見て、サネはきっと自責の念に駆られたのだろうなと紫苑は自分が泣きついた時のサネの表情を考えた。紫苑に負けず劣らず辛い思いをしていたに違いない。
時を決めているのはサネで、残酷な運命が訪れることも、全て彼女が時を流すことによって起こる。
けれど時宮に運命は変えられない。時宮は神々が決めた運命を受け入れ、ただそれを時に乗せて流すだけ。
「あの者が主にあれほど関わったのは、今回が初めてじゃったからの。例え自分が運命を変えられぬと知っていても、諦めきれぬようじゃの。優しいサネ。可哀想なサネ。妾はあの者を不憫に思う。あの者ほど哀れな運命を辿る者もそうおるまい」
「……サネは、何故時宮に成ったのでしょう」
そう問うと、彼女は柔らかく身体を肘掛けに預けた。
「自ら訊いてみるが良かろう」
「でも、もう会えるかどうかも分からないのに」
「会えるとも。主らの時は執拗なほど交わっておる。主とサネと、あの不届き者との。会いたければ探すよい。あの不届き者と違って、サネは妾の信ずる時宮。妾が与えた千年の時から出る事はない」
「千年も……」
「会って安心させてやるが良かろう。何、探す必要はそう無いはずじゃ。時宮は自身の管理する時の流れに遺物が入れば敏感に察するゆえ、必ず排除するために主の前に現れる」
それが、時宮の役目じゃからの。と言い置いて、美しい動きで再び琵琶を手に取った。これで話は終わりだという合図だ。
「待って、あと一つ。あの女の目的とは何なのでしょう」
「知らぬ。あの者はしばらくの間は時宮として立派に働いてくれたが、ある日何かが壊れたかのように狂い、ここを襲った。時宮は妾と同じ神に近しい者ゆえ、あの者が何を考えておるのかも分からぬし、時は時宮に一任しておるから、あのものに何が起こったかも分からぬ。お主を狙っておると分かったのも、別に奴の感情を読んだからではなく、やたらとサネの時を妨害して回っていたからじゃ」
(目的が分からない……?)
「何か明確な事をしておるならともかく、あやつの動きにはとにかく統一性がない。そんな奴の唯一明らかな動きが主の殺害だったのでな、阻止せぬ手はあるまい」
少し彼女の言い方には違和感があった。
けれどその違和感が何なのか分からない。
「主に与えた力は基本的には時宮と同じじゃが、主には管理する時を与えぬことが時宮とは異なる。そして妾は主を時宮ほど信用しておらぬゆえ、いつでも奪えるよう術を組み込み、そして主があの女の手に落ちぬよう、そして主を監視するよう、そこの狗を付ける。良いな、狗」
「ご命令なのでしたら」
「命令じゃ。あやつに指一本触れさせるな」
「はい。命をかけて守らせていただきます」
「それと、初めのうちは狗、お主が時を渡る手伝いをしてやるがよかろう。目的の時に行くのは難しいようじゃからの。唯主が力を使うのは命に関わるゆえ、必ず札を使うように」
「分かりました」
「以上じゃ。下がりゃ」
撥で弦をはじくと、はっとするような音が周囲に伝わり、突然湧き出した木の葉の雲が視界いっぱいに迫ってきた。
東屋はあっという間に隠されて、襲ってくる葉に思わず顔を覆う。
けれど恐れていたような痛みも感触も全くなくて、しばらくしてからそろそろと目を開けると、そこには姫様に会うためにくぐってきた廟があった岩壁しかなく、濃い緑色と朱の廟も、扉さえも無い。
あまりのことに呆然として、そっと苔生した岩肌に触れてみるけれど、当然固く冷たい感触しかない。
「では」
突然後ろから声が聞こえて振り返ると、もうすでに踵を返した天女と仙女が肩越しにこちらを見ていた。
「妾は戻る。行く場所が決まるまで、宮は自由に使って構わぬ」
「色々ありがとうございます」
慌ててそう言うと、天女は嬉しそうに微笑んだ。
「力になれればよいが。また何か会ったら来るがよい」
「はい。本当に、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げ、再び顔を上げると彼女はもう居なかった。
仙女達ももう居ない。
ただ吹いてきた風に羽が一枚と、楽しげな子供達の笑い声が乗せられていた。
「…………」
「天女と仙女は、混じりっけなしの人外だからね」
「どういう事ですか?」
狗が隣にいるのをすっかり忘れていた。紫苑はちょっと驚いてしまった事を隠そうとして、少し必死に訊いてしまった。
けれど狗はそんな事に気がつかないまま、紫苑の手を取って宮の方へ向かっていく。
来る時もこうして狗が紫苑の手を引いてきたのだけれど、手を引くのは必ず焔であって、仙女や天女は紫苑に触れもしない。その理由は分からないけれど、紫苑はそのたびに気恥ずかしい思いをしていた。
「天女は元が人間じゃない。キミ達の世に生きていたものだけれどね」
「あぁ、鳥でしょう?何の鳥かは分からなかったですけど」
「へぇ。どうして鳥だと?」
「鳳って名前もそうだし、あと仕草がそんな感じでしたから」
首を傾げた時の仕草なんかは鳥にそっくりだった。それに目の周りの化粧のせいかもしれないが、目つきも鳥を彷彿とさせるし、何処がどうとは言えないけれど、遠くから見ると何となく足と首の長い鳥を思い出される。
それだけで言うなら恐らく鶴なのだろうけれど、そのほかの鳥だと言われても別に納得しただろう。
「そう。天女はまだ大君が生きていた頃飼っていた鳥なのだそうだよ。僕も何の鳥かは知らないけれどね。そして仙女達は、この天界で大君から想像された……まぁ子供のようなものだね」
「へぇ」
紫苑はここに来た時に会った、二人の子供達を思い出した。
「ここにいる人達は、みんな薺様の家族なんですね」
「そうだよ。そして時宮と焔は、彼女たちが快適に過ごすための使用人みたいなものだ」
そんな自虐的な言い方に、紫苑は何かが胸につかえるような気がした。




