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時宮  作者: 鷹凪 悠
緑眼ノ章
8/26

漆-狗-

恐ろしい夢を見た。けれどそれは幽霊のような恐ろしいものを見たわけではなくて、なんだか不安になる恐ろしさ。


私は薄暗い通路にいる。申し訳程度に蝋燭の点されたその回廊には、窓もなく、天井も低く、敷かれた赤い絨毯は色あせて、後ろも前もただまっすぐに闇に向かって壁が続いている。


私が恐ろしかったのは、左右の壁一面にびっしりと掛けられた大小様々な時計だ。柱時計のような大きな物から、置き時計のような小さな物まで、隙間なく掛けられた時計がみんなばらばらの時を刻んでいる。


その音といったら、太鼓の音のように腹の底を振るわせるほどで、その音の波に潰されそうになる。


その音と共に、この先の暗闇から何かが襲ってくるようで、私は胸を押さえ逃げ腰で、 そこから一歩も動くことが出来ない。ただ闇の向こうにある物を見ようと、冷や汗を流して注視する。


でも私はあの闇の向こうにある物を知っている。知っているけれど、思い出せないだけ。けれど、思い出したくもない。だってそれが分かってしまったら、私はきっと無くなってしまう気がするから。


だから私はそこから動かず、ただ震えをこらえて耳をふさいでうずくまった。

怖い物が私に気付かないように。私が怖い物を見ないために。




「…………」


ふいと目を覚ますと、見慣れぬ天井が見えた。いつもの木目が見えず、代わりに随分と近い位置に、金箔や鮮やかな色で美しい鳥が描かれた豪華な天井が見える。


瞬きをして、そして驚いて飛び上がるようにして身体を起こした。身体に掛かっていた絹の布団がするりと落ちて、その下からやっと見慣れた藍色の着物が見える。それに安心して辺りを見回して、そこが天界で案内された一つの宮の寝台だと言うことに気がついた。


今寝台は紗が下げられて、その向こうに行燈に照らし出された薄暗い部屋が見えた。

宮の扉は全て閉じられていて、今が昼なのか夜なのか分からない。結構寝た気もするけれど、そんなに身体の疲れが取れていないような気もする。


誰かが布団を掛けてくれた。誰かが部屋を暗くしてくれた。誰かが目が覚めたときのためにと、行燈を点しておいてくれた。そして寝台から降りてみると、部屋に置かれた丸い卓上に桃が二つ置いてあった。そのおかげで、部屋には甘い香りが漂っている。


「誰かいるの?」


けれど返事はない。紫苑は立ち上がって桃を手に取り少しその香りを嗅いでから、ちょっと皮をむいてそれを囓った。


とても甘く瑞々しい。柔らかすぎず、堅すぎずといった食感のそれを食べると、夢から与えられた不安は胸の奥で分解されるように消えた。身体がふわりと軽くなった気がして、もう一口だけ囓る。


結局二つともを食べきってしまって一息ついたところで、紫苑はやっと辺りを見渡す余裕が出来た。ぐるりと見渡して、やっと戸口から明るい光が漏れているのに気がつく。部屋は閉め切られているから暗いだけで、外は明るいのだ。


耳を澄ませば、サワサワと葉を擦る風に乗って、微かに笑い声聞こえてくる。子供の笑い声ではなくて、恐らく天女の声と、数人の女性の声。それに聞き慣れぬ男の声だ。


なんだかとても楽しげで、紫苑はそっと扉を開けた。眩しさが目にしみる。夏よりも弱いけれど、春に比べれば随分と強い日の光。けれど、眠ってしまう前のここに来るまでの道のりで太陽は見あたらなかった。


光源が何かは分からないけれど、とても眩しい何か。それが目に慣れるまでの間扉は細めただけで、目が慣れる頃にやっとゆっくり開いた。


外は寝る前と変わらずに明るい。開けた扉の向こう側には全ての扉が開け放たれ、柱の天井ばかりの部屋が幾つも続いていて、どうやら声は奥の部屋から聞こえてくる。一瞬鳳天女の言った忠告が思い出されて暗い部屋から出ることを躊躇したけれど、宮と言うからには部屋が幾つもあり、この向こうの部屋だって宮の一部なのだから大丈夫だろうと一歩踏み出す。


部屋は外と同じように風が吹き、強い光が差し込んで、濃い陰が出来ている。それがいっそう宮を穏やかな場所に見せるのは、真夏の春宮の屋敷に似ている所為なのだろうか。


見た目だけなら、ここは似てもにつかないほど豪華なのに、持っている雰囲気は紫苑の実家の空気に似ている。何故なのだろうと不思議に思いながらも、紫苑は何も無い回廊のような部屋をいくつか過ぎり、やがて細い渡り廊下のような場所に出た。


長いその廊下を更に進むと、周りの庭園は一層緑の濃い場所になり、それに合わせるように笑い声はだんだん近くなり、やがて鮮やかな赤と緑の屋根が見え、そこで紫苑は急に自分がここにいてはいけないのではないかと感じて足を止め、そっと木の陰から声の方を確かめるにとどめた。


宮の離れの美しい東屋に、美しい人々が集まっている。けれど丸い卓に座って向かい合っているのは二人だけで、一人は一番美しい装いをした鳳天女、そしてもう一人は黒い着物を纏った背の高い男の人だ。そのほかに桃色の着物を着た三つ編みにした髪の長い女性が三人ばかりいるのだけれど、彼女たちは立ったまま天女の後ろに控えて、天女と男性との話に時折加わっては華やかに笑っている。


そのうちの一人が草の影から覗きこんでいる紫苑の姿を見つけて、あら、と声を上げた。その声に反応して天女と男性もそちらを向いて、柔らかく微笑む。天女は東屋と同じ、深く鮮やかな緑色の着物に替わっていて、髪を飾る幾つもの簪もそれに併せて別のもになっていた。


開いたままだった扇子を閉じて、天女は美しいその手で紫苑を招く。


「ゆっくり休まれたようじゃの。何を隠れておる。こっちに来や」


向かい合って座る男性は……男性というのも何だか可笑しいほど若い青年だった。天界へ紫苑を誘った焔よりも少しだけ若く、焔よりもずっと優しげな表情をしている。焔も優しい顔はしていたけれど、どこか精悍さを備えた顔つきで、それは昔何かの絵巻物で見た竜のような瞳からくる印象だった。


今目の前にいる彼はその印象は全くない。目は若干吊り目だけれど鋭いわけではなく、優しさを通り越してどこか儚げな印象を受ける。肌も白いし、中性的な顔つきの人だった。これで体格が女性のようにほっそりとしていたら、簡単に性別を間違われてしまいそうだ。


「こんにちは」


春の穏やかな風のように、穏やかで優しい声。二人の遠くで立ち尽くしていた紫苑は、そんな人外の二人の雰囲気に惹かれるようにして東屋へ足を進めた。


「こんにちは」


そう返事を返すと、彼はますます穏やかに微笑んでから椅子を用意するように周りの女性に言いつける。すぐに揃いの椅子が一つ用意されて、彼と天女は揃って座るように促した。


なんだかとても居心地が悪い気分を感じながらも、紫苑はちょこんとそこに腰掛けて下を向く。初めて親戚の家を訪れた幼い子供のような有様だった。


「姫とは話が着き申した。迎えに来たが、よく寝ておられたのでな」


「え、でも会うのは明日だって……」


「おや」


天女は青年と顔を見合わせて、すぐにあの華やかな笑い声を上げた。青年の方も声こそ上げはしなかったが、本当に可笑しげに目を細めて紫苑を見る。


「もう主のいた場所での日は過ぎ申した。主の時間に合わせたつもりだったが、混乱させてしまったようじゃの」


「え?」


「つまり、天女はキミが元々住んでいたあの土地での時間の流れでものを言っていたんだよ。ここに決まった時間はないから」


「ここでは、人はそれぞれ自身が感じるままの時を過ごす。自身とその周囲の時間を決めるのは自身じゃ。ゆえに宮の外では、意識を同調させねば他人と出会うことは難しい」


「どういうことか……」


「分からなくても、大丈夫だよ。キミの場合は大君が良いようにして下さる」


青年の話し方は、焔そっくりだ。薺姫を大君と呼ぶところも、人をキミと呼ぶところも、天女の言葉の補足をするところも。紫苑に穏やかに笑いかけるところも。


そう思って紫苑がまじまじと見ていると、青年は焔よりも少し長めの髪を揺らして不思議そうに首を傾げた。


「どうかした?」


「いえ……あの……」


「先に会った焔に似ているかえ?」


濁しているところをそのままずばり言い当てられて、紫苑は下唇を隠してうつむいた。それを見て天女はまた笑い扇を広げ、彼は納得したように頷いた。


「よく言われる。あの方に似ていると言われるのは嬉しい限りだけれどね」


「彼はそんなに偉い人なの?」


「焔に身分はないけど、尊敬される人というのは居るよ。彼は全ての焔から尊敬され、焔はこうあるべきだと、全ての焔の理想とされている人だよ」


「ゆえに、我ら仙女や姫に遣える時宮一族はあの者だけを焔と呼び、その他の焔一族ではそれぞれ別の名で呼ぶのが暗黙の了解じゃ」


「それじゃあ、あなたは?」


「僕は狗と彼女たちは呼ぶ」


「コウ?」


「イヌと書いて狗」


彼は宙に文字を書いて教えてくれた。


「私は紫苑。春宮紫苑。よろしくお願いします」


「聞いているよ。春宮の娘は、この場所では有名だから」


「……何故?」


そう聞いたところで、天女が待ったを掛けた。扇を二人の間に広げて会話を妨げてから立ち上がる。周りに立っていた仙女とおぼしき者たちが、慌ただしく椅子を引いた。


「その話をする前に、妾は姫に面会を願い出てくる。しばらく席を外すゆえ、ゆっくり二人で話すが良かろう。まぁ、それほど時間は掛からぬが」


「あ……えっと、はい」


「皆はついて来や」


はい、と声を揃えて女性達が返事をして、それを合図に天女たちは木々の間に消えていった。


サワサワと風の通る音が聞こえるほどの静寂が訪れるまでに、そんなに時間は掛からなかった。長い沈黙を覚悟して、何か言わなければと思うのだけれど、先ほどの質問もなかなか口から出てくれない。


何度も口を開いたり閉じたりしていると、卓上に両肘を付いて組んだ手の上に顎を乗せてじっと紫苑を伺っていた彼が、やっとその沈黙を消してくれた。


「さっきの質問だけど」


「えぁ……はい!」


「キミはあの女の目的を達するための要の人物だと言われている」


「あの女って……私の」


「ご両親を殺した女だよ」


先を読んだその言葉に、紫苑はまたのどを詰まらせるような思いをした。心の奥では死んだ訳じゃないと必死に自分に対して言い聞かせている。


あの時を無かったことにするのだから、あの二人はまだ死んだわけではない。


ずっとそうして心に言い聞かせてきた。だから涙もすぐに消えたし、焔に連れ出されたときも冷静でいられた。だって、怖いことは何も起こっていなかったことになるのだから。私がそうするのだからと、少なくとも紫苑自身は自分を信じようと決めていた。


そうやってここにいることを心の中で呟くと、やっとのどの奥がすうっと通って、「死んだと決まった訳じゃありません」と言うことが出来た。


「そうだったね。じゃあ、キミの両親を殺そうとした人物、かな」


「焔に……あの人に、あの女は天界を荒らした大罪人だと聞きました。そのために時宮として与えられた力を乱用し、時の狭間を逃げ回っていると」


「ただ逃げ回っているだけじゃないけれど、ほぼその通りだよ。ただ彼女には未だに果たせない目的があって、それを果たすために必要なことを幾つかの時の中で果たす必要があったようだ。そしてキミは、彼女が目的を達するか達しないかを分ける要の存在。そのことは僕だけでなく、天女はもちろん、大君もご存じだ」


あの女は炎の中現れた紫苑を見て、何故上手くいかないのかと考えあぐねていた。


あなたが生まれる前にどうにかしなければならないのに。どうしてずれてしまうのかしら。


そう言っていた。


「サネ殿はキミに最も近しい時宮として、キミを護るように言われていた。一つはあの火事を起こさせないこと。そしてあの日の夕方、キミを家から出さず、焔の一人が必ず側に居られるようにしておくこと」


「でも……私……」


「キミは夢を見て、家を出て行ってしまった。焔もキミを探して慌てて村へ繰り出し、そして火事は起こってしまった……が。キミを護ることだけは成功したようだ。けれどあの時の流れでキミを護ったところで、今度は別の時でキミを殺そうとあの女が現れる」


「どういう事ですか?」


「……そうだな」


狗は少しだけ考えて言葉を探した。


「僕は、人一人が生きる時を幾億本もの糸の集まりだと考えている」


「糸?」


「そう。みな同じ方向に並べられ、同じ場所へ纏められた糸。それは全てに同じ時の流れで、つまり、そのうちの一本が切られたところで、他の糸があればその時は今までと同様の流れを維持することが出来る」


「予備の時間の流れみたいなのがあるってことですか」


「そういうこと。キミが生きていた時が本線だとしたら、少しずつ遅れて予備の糸が他に幾億も併走している」


「はぁ……」


分かったような、分からないような。


「世界の時の流れとは、そういった個人の糸の集まりが幾つも交わって出来ている。それが人と出会うことであり、生活を営むということだけれど、時折その糸の束同士は上手く交わることが出来ずに途中で別の方向へと曲がってしまうことがある。そうすると曲げられた人の運命は大きく変わり、本来だったら目的を果たすはずだった運命が、果たせないものになってしまうという事が起こる」


「じゃあつまり、いつかあのまま私が生きていたら、あの女と出会うことになっていたってことですよね?そして私があの女が目的を達するのを邪魔した」


「そういうことだね。併走する世界でも、当然同じように彼女の行く手をキミは阻む。だから彼女は、キミのどれか一本でも良いから糸を絶ち切り、自分のたった一つの糸をその切れ間から通そうとしているんだ。今までそれが成功していないことは奇跡だった」


まず、彼女がどの糸の時に現れるかが分からない。紫苑は別の糸の時で何度も殺され掛けては助かっているのだという。


多くは彼女が言っていたように、上手く時が合わせられないと言うこと。彼女が紫苑を確実に殺すためには紫苑が生まれる前に両親の命を絶つことが重要となるが、それが上手く出来なかったのだという。


「今は簡単に言ったけれど、人の時の流れに介入することはとても難しい。あの女は特に修行不足だから、そういうことが起こる。けれど彼女がコツを掴むのもそう遅くはない。だから焔は、焔一族を何人も投入してキミの全ての時を護ることより、何よりも自身のことをよく知るはずのキミ自身に自分の時を護らせようとここへ連れてきた」


「えっ……あの人は私に両親を生き返らせてくれるって言ったんですけど」


「そういえば来ると思ったんだろう。まぁ……間違いじゃない。あの先キミがここに来なければ、あの時間の時では当然キミの両親が生き返ることはなかったし、あの女はそのうち全てのキミの時のどれかを切り裂いてしまっていただろう。それならご両親が生き返るという名目を与えてこちらに連れてきて、あの女を追わせた方が僕らにとっても効率も良いし、キミの願いも成就する可能性が高い」


紫苑はもう、話の大半の意味が理解できなかったけれど、とりあえず自分がここに連れてこられたのは、あの両親を殺した女を追うためだったのだと理解した。何がどうあれ、あの女の目的を阻むことが、両親の死という運命を変えるのだ。


「天界に来て何らかの力を得ることは、この先幾万とある糸を一度そこで捨てて、たった一本の糸になってしまうという重みがある。その代わり一本の糸を好きなように操れるようになると言う良い面もある。キミにとってどの面が大きく出るかはキミ次第だ」


狗はそこまで言い置いて、忘れていたとばかりに紫苑の前に茶器を置き、すっかり冷めた茶を注いだ。彼の茶碗にも残りの茶を注いで、まるで酒でも飲むかのように一気に一口で飲んでしまう。


紫苑も色の薄いその茶を少しだけ口に含んで喉を潤した。


「先ほど僕も大君にお会いしたけれど、あの方はキミに時宮でも焔でもない力をお与えになるつもりのようだ。時を渡る力を得て、あの女をキミが追う。そうすればあの女はまず邪魔者を排除しようとキミを探すだろう」


「私が今死んだらどうなるのかしら?その女の目的は達成されると思うのですけど」


「さぁ……それは分からない。ひょっとしたら彼女は知っていたのかも知れないね。キミがこんな方法ではなかったにしろ、彼女の前に立ちはだかることを。彼女の目的を阻むことには代わりがないのだから。そうじゃなければ、キミはもっと彼女にとって狙いやすい的となるだろう。何も幾万もの時を歩かなくても、ただここにいるキミ自身を殺せば、この先のキミの人生は全て絶たれ、彼女の目的も無事果たせるだろうから」


「……もし、私が彼女を捕らえたら……私は元の時に戻ることが出来るの?父も、母も、サネも居るあの時間に戻ることが出来るの?」


「出来るよ。今キミが生きている時間は、まっすぐ延びた糸のたるみのようなもの。今ここで切られることがなければ、再びそれは元のように枝分かれして、まっすぐな糸に戻ることも出来る」


「彼女が目的を果たすか、私が目的を果たすか、どちらかと言うことですね」


「そうだね。そういうことだ」


紫苑は茶碗の中の自分の姿を見た。


そこには黒い瞳をした、ちっぽけな人間が映っていた。


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