伍―天界の門―
時間が一体どのようなものであるのか、私は知らなかった。
今だって、知っている訳じゃない。けど、ただ優しいだけの物じゃないことは分かる。時は多くの人に平等だが、突如であっても、徐々にであっても、確実に変化を与える。時の残酷なところは、悲しみは突如与えるくせに、それを癒すための時間は徐々にしか与えないこと。
たったそれだけだけど、私にとってそれはとても大きな事実だった。
お婆さまを失ったとき、私の心は大きくえぐられたような痛みが走り、沢山泣いて、失った者の大きさを初めて感じて、そして居場所がそこにしか無かったことを初めて知った。
それを癒すための時間は二年。サネと会って、少しずつ少しずつ私の心の穴は塞がれていった。お婆さまを失った分だけ、サネが私の心の中を占めた。
優しかったお婆さま。厳しかったお婆さま。沢山の事を教えてたお婆さま。
そんなお婆さまとサネはどこか似ているようで、私が勝手に重ねていただけなのかも知れない。サネにしたら、迷惑なことだっただろうか。
頭の中では拒むという言葉が木霊している。
「なんだ……」
紫苑をつれた翁は、山を見るなりそう呟いた。
炎の中から出てきた紫苑と翁の姿を見て、燃え上がる屋敷に群がっていた村人達が唖然としている。
「紫苑!良かった。お前……」
「火に飛び込んだっていうから、心配してたんだよ」
「すぐに出てきたんで良かった」
それで……と、みんながそろって翁を見る。
「生き残ってた人か?……こんな人いたか?」
「あの、この人は家に寄ってた人で……」
説明しようとしていたところで思いっきり手を引かれて、紫苑はつんのめりながらも人々の間を縫って屋敷の庭を出た。驚いた人々が慌てて後を追ってきて、身元の分からない奴に紫苑が連れて行かれては大変だと紫苑の手を掴もうとする。
翁はその手が紫苑に届く前に、そのもの達に振り向いて、もう片方の手を上げ、横に凪いだ。
「邪魔だ」
途端に、人々の動きが止まる。辺りが突然、虫の鳴き声と炎の燃え上がる音だけになった。
目の前の人は、表情を固めたまま。追いすがろうとして石に躓いた人は、倒れかけるそのあり得ない状態で停止していた。走って宙に浮いたまま止まっている者もいる。
時が止まってしまったよう。
「行くぞ」
紫苑は振り返り、何をしたのと訊こうとしたけれど、翁の姿を見るなり言葉を失ってしまった。
信じられないほど若くなっている。身長もぐんと伸びて、髪の毛も黒い髪がふさふさとしていて、あの細い腕もしっかりと肉の付いた逞しい腕になっていた。
「は?ちょ……えぇ?だ……?」
誰、と訊くのか?彼は間違いなく翁であるはずなのだ。それはとても愚かな質問のように思えるのだけれど、でもそれが信じられないほど彼は若々しく、美しい顔をしていた。あまりに事に戸惑って足が鈍っているのに気がついたのか、翁は……翁と呼ぶのも憚られる彼は、こちらを振り向いてどうした、と訊いてきた。
「な、なんで若くなってるの……」
見た目だけで言うなら、紫苑と対して変わらない。なまじ男前なだけに、それがあの優しげな翁かと思うと気持ち悪かった。
「あぁ、ここに来るときはいつもあんなもんだ。その土地の時に併せて行かないと、不審がる奴もいるからね」
口調も違う。何処も翁だったときの要素はないのに、その緑色の目だけが変わらない。
「待って待って。でも焔は人間だって……」
「人間だよ」
「でも、人は若くなったりしない」
「若くなったんじゃなくて、これが私の本来の姿なんだよ。ちゃんと説明してあげるから、おいで。急がないと。山の様子がおかしいようだ」
返事を待たず、彼はまた強く腕を退いた。紫苑は今度こそ引きずられずにしっかりと自分の足でついて行く。若くなった彼の歩く速さはとても早くて、紫苑は小走りでないとそれに間に合わない。
「山がおかしいって……蟲がいないって事?」
「あぁ、キミは見えるのだったね」
「蟲は隠れているだけだったわ。何かをとても恐れているみたいに」
「それは恐らく、あの女が来ていたからだろう。帰った後も光を取り戻さないのはおかしい」
「あの……女って」
赤い炎の中で、美しく笑ったあの女。真っ赤な着物を翻し、舞うようにこちらを振り返ったあの様は、まるで炎を統べる者のようだった。
「あの女って、何者なの?」
「理を歪める者……といったら分かるかい?」
全然。紫苑はふるふると首を振った。
「あの女は、元々時宮だった者だ。サネと同じように、大君に選ばれ、土地を与えられ、その土地の時を定めていた」
「でも……目が」
彼女の瞳は黒かった。煌々と燃え上がる赤の光にすら色の変わらない、恐ろしいほど深い黒。
「時宮だけれどその瞳は黒い。キミにはこの理由が分かるだろうか」
「時宮では無くなった……ということ?そんな事があるの?」
「ない。普通は時宮に選ばれた者は、その命が尽きるまで時宮だ。その命も、その土地に合った次の時宮が選ばれるまで尽きることはないけれどね」
「じゃあ」
「普通ではないことが起こったんだよ。簡単に言えば、大君の怒りを買ったんだ。大君は基本的に地上の出来事に関与しない方だ。そんな彼女が怒るほどの事を、あの女はした。自身が預かる土地に火をかけ、それだけでは飽きたらず、天界にまで攻め込みそこで暮らす仙女達を殺害し、焔の者たちがやっとの思いで取り押さえたと同時に時の狭間へ消えてしまった。それ以来私たちは大君に指示されて、こうしてあの女を見つけ次第捕らえようとしているが……」
「あの女を追いかけることは出来ないの?」
「時宮なら可能だが、時宮はその土地から離れることが出来ない。よって焔が追うしか無いわけだが、焔はあの者のように好き勝手に時を渡る技術を持たない」
「そうよ。その時を渡る能力は大君が与えたものなのでしょう?大君がそれを剥奪すれば、彼女は時を渡れなくなる」
「そしてその力を剥奪するためには、一度あの女を大君の前に連れて行かねばならない」
紫苑が言葉を失うと、彼は苦笑して紫苑を振り返った。
「神様と言っても、出来ることと出来ないことがある。この世界と同様に、天界にも天界の理があるからね」
「でも、瞳の色は……」
「これは、大君の信用によって現れるものだから、信用を失ってしまえば消えてしまう。時宮はね、先に瞳が緑に変わる。その目の色を頼りにして、焔が探し出して大君の元へ連れて行き、大君が力を与える。そういう風になっているんだ」
「焔は?」
「焔は違うかな。焔は、焔が連れてきた者が大君より力を与えられてなる。大君自身が選び出した者ではないから、大君がすぐに奪えるような力しか与えてもらえない。時を渡るためには誰かしら時宮の手を借りなければならないし、寿命だってある。だから私たちは人間でしかないんだ」
丁度森の入り口について、やっと紫苑が彼の横に並ぶと、彼は目を細めて険しい表情になった。紫苑も同じようにしてみるが、紫苑がさっき入った時のようにひっそりしているだけで、特に変わった様子はない。
「どうしたの?」
「……サネが山を放棄したようだ」
「え……?」
「山を閉じなければならないが、先にお伺いしなければならないだろうな。となると、山の泉は使えないか」
紫苑は彼と会ってから混乱しっぱなしだ。脳はとっくに考えることを拒否してしまって、とりあえず「こういうこともあるんだな」と呑み込むことにした。分からないことは後で聞けばいい。
「近くに水が堪っている場所があるだろうか」
「水が溜まっている場所?」
「湖とか、池とか……井戸でも良い。あぁそう言えば」
この村には大きな水脈が走っている。そのため何処の家にも井戸があり、生活用水はそこから汲んでくるのが基本。けれど水脈は流れている、いわば地下の川だ。溜まっているとは言えない。
「そこら辺の家のお風呂を借りようか」
「あぁ……?えぇぇぇ……?」
一瞬納得しかけて、思わず彼の顔を二度見した。彼は不思議そうな顔でこちらを見返す。そもそも紫苑には訳の分からないことが腐るほどがあるのだから、そんな顔をされるいわれはないのだけれど。
「自然じゃなくて良いの?っていうか、人の家に勝手に入るのって犯罪なんじゃ……」
「水はどうやっても自然のものだろう?問題はその量と、流れているか流れていないかの違いだ。それに何か盗む訳じゃないし、今みんなあんなだから気がつかないよ。こんな時間だし、きっと湯が張ってある家もあるだろう。行こう」
「ちょっと……」
手首を引っ張られ、相変わらず引きずられるようにして歩く。逃げ出す訳じゃないのだから離して欲しい。手首がいい加減痛くなってきた。けれど抵抗するわけにも行かず、結局そのままついて行く。
きっと、と言っていた割には彼の足には迷いが無く、幾つかの家を横切って、比較的大きな家に向かう。玄関先で靴を脱ぐこともせず、そのまま下駄で家に侵入して、きょろきょろと数度家の中を見回しただけであっという間に風呂釜がある部屋を見つけてしまう。
紫苑の住んでいたあの屋敷ほど広い家ではないけれど、部屋数の多い割と立派な家だ。そんなすぐには見つけられないだろうとも思うのに、彼は目印を知っているかのように迷いがなかった。
暖かい湯気が漂う風呂場はびしょびしょで、ちょっと壁に触れれば服が濡れてしまいそうだ。所々焦げて穴が開いているから、もう着物を気にする必要は無いのだと思うけれど、濡れるとその分重くなりそうで厭だった。
「光ってる……」
「大君が天界への道を開いて下さっているんだ」
小さな湯浴からは、サネの湖で見た月の光が放たれていた。青白い優しい光。
「さぁ、入って」
翁だった彼はやっと紫苑の手を離して、自分の前に立たせた。手を離してもらったのは嬉しいんだけれど、今度は途端に不安になる。
入れってか。この格好のまま。下駄すら脱がずに。
「どうしたの?」
「え……いや。あの……若干お風呂に入るのにこの格好は抵抗があるというか」
「脱いでくれても構わないけど」
「えー……」
「厭だろう?それに、向こうに行ったら恐らく迎えの者がいるだろうし」
「うーん」
「心配しなくても、服は濡れないよ」
風呂は相変わらず明るい光を放っている。ここが神様の住む場所へ続く道だというのだから驚きだ。世の中全ての風呂が神のすみかへの入り口かと思うと有り難みも半減。それにサネが住む湖で見たこの光はあんなにも神々しかったのに、この庶民感はどうだろう。
うーん、色々残念……。と首を捻りながら湯浴の淵に立ち、中をのぞき込む。本来なら湯浴の底が見えているはずの場所は、光が強すぎて何も見えなかった。
「行動が遅い。早くしなよ」
「へ!?」
少し苛々とした風な声が聞こえるやいなや、紫苑は抱え上げられたかと思うと、そのまま背から湯の中に放り込まれた。激しい水音が水を通して聞こえてくる。突然のことで口どころか鼻からも水を吸って、溺れるように水を掻いた。鼻の奥が痛んで目を閉じて、残った少しの空気を逃すまいと口を閉じる。
ぐっと身を固くして浮き上がるのを待ったけれど、身体はどんどん沈んでいく。
まだ底に着かないのかとそっと目を開くと、水が眼球を舐める痛みはなく、あれ?と思って身体を動かすと、水の重さも全くなかった。
「うわ!」
背から放り込まれたはずなのに、水面は紫苑の正面にあった。しかしその水面は紫苑の身体を呑み込むことなく、四つん這いに着いた手足をしっかりと受け止めている。水と呼べるような流動体はほんの表面だけで、その下は水のように透き通ったガラスがあるようだった。紫苑は一瞬天と地が分からなくなって、思わず体勢を崩し、仰向けに倒れ込む。
そこは、何処までも水面が続き、何処までも白い空が連なる空間だった。
空と言うよりも、それは空虚だ。高さなど無く、そもそも空間という概念がないように見える。水面はあれど大地は無く、彼方はあれど果てはない。そんな感じ。
上半身だけ起こすと丁度真正面には赤い廟があり、その扉がゆっくりと開くのが見えた。
ふと隣をみると、堅いはずの水が山のように盛り上がっている。そこには翁だった青年が抱かれていて、紫苑と同じ高さまで来ると水は弾け、再び平らな水面へと戻った。彼はなれたように立ち上がって、倒れ込んでいる紫苑を見つけると、少し笑って手を貸してくれる。
「初めてだと、天地が分からなくなるんだよね」
「放り込むこと無いのに……」
「早く行かないのが悪いんだ」
不満げに元翁の姿を睨む紫苑の耳に、ちりんと涼しげな音が聞こえてきた。
その音に二人して振り向くと、赤い廟の扉から、三人ばかり人が現れた。
全員女性のようで、中央を一歩一歩ゆったりと進んでくる人が、一番偉いように見える。艶やかな深紅の羽織を着て、その下には幾枚もの美しい花柄の着物。それらを藤色の帯で纏め、身体の前で華のように結わえている。幾つもの簪と紐で高く結い上げた黒髪は、まっすぐに背に垂れて艶々としている。両耳からは揃いの大きな飾りが下がり、その金がぶつかるたび、涼しい音を立てているのだ。
その女性の両脇を固めて歩くのは、紫苑よりも幼そうな子供で、二人ともゆったりとした見たこともないような着物を着ている。上に着ている者は地面に尽きそうなほど袖が長く、下にはいている物は袴に見えなくもない。二人とも袴のような物は濃い紺の色だけれど、上着は優しい桃色で、それを腰のところで白い紐を回して締めていた。
三人はちりんちりんと音を立てながら紫苑たちに向かい、数歩離れたところで足を止める。
女性はまさに絶世の美しさだった。大きな目は笑みの形に細められ、形の良い唇がそれを優しさを加え、そうやって微笑まれただけで誰もが幸せになれそうだ。
そして何よりも目を惹くのが、その泉のように透き通った美しい緑の瞳。
サネの瞳よりも更に明るく、少し青が混じっている。その所為か彼女は全体的に色が薄くて、儚い存在のように感じた。
(この人が薺?)
少しだけ、想像していた姿と違う。もう少し、厳しい感じだと思っていた。
「お迎えいただき光栄です」
焔の彼が頭を下げてそう言うと、彼女はころころと持っていた扇子で口元を隠して笑った。その動作一つ一つが、とても上品で流れるように美しい。
「ほんに、主は変わらぬようじゃの」
「変わらぬ」
「変わらぬ」
予想通りの美しい鳥の声で笑う女性の言葉を、両脇に立つ幼いおかっぱの少女が二人そろって復唱した。
「また人の子を拾われたか。いつか時宮の数よりも多くなってしまうのではないかえ?」
「ないか?」
「ないか?」
「なに。焔は所詮大君に言わせれば消耗品だ。多いに越したことはないだろう?」
「自虐的じゃの。ぬしは少なくとも姫様より多大なる信頼を得ておるのじゃから、もっと自信を持っても良い」
「良い」
「良い」
「焔は個人ではなく、集団ですから。そう言うわけにもいかないでしょう」
ふむ、と彼女は頷いて、やっと紫苑の方へ視線を移した。
「よくぞ参られた春宮の娘」
「参られた」
「参られた」
「いろいろなことがあったようじゃが、今日はこのまま休まれよ。明日、姫様に伺いを立て、再びお目にかかる」
「お目にかかる」
「お目にかかる」
「……あの、あなたは?」
どうやら薺ではないようだ。会話の流れからして、恐らく彼女のいう姫様がそうなのだろう。では、彼女は?
「妾は鳳天女と呼ばれておる。薺姫の、直属の遣いじゃ」
そう言って、彼女はころころと鈴の音を漏らした。




