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時宮  作者: 鷹凪 悠
緑眼ノ章
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肆-炎妃-


目の前を、凄まじい勢いで森が通り過ぎる。

否、通り過ぎていくのは私だ、と紫苑は眼を見張った。通い慣れた道を、背中からあり得ない速さで下っていく。葉の残像は幾重にも重なり、草はその風で根本から分かれて道を造るのに、体どころか手足にさえそれらが触れる感覚がない。

首根っこを捕まえられて、空中を浮くほどの速さで何かに引っ張られているような感じ。それを嫌って、草木が驚き道を空けているのだ。


「………………!!」


たぶん悲鳴は上げていたのだろう。ただ通り過ぎた場所に声は置き去りにされて、自身の耳には届かない。それでも声を上げたのは、進む方向が全く見えないことが怖かったから。手足は前屈をしているがごとく目の前に放り出されて気流に揺れている。その風の壁は分厚くて、手を伸ばして何かを掴もうとすると頑としてその動きを封じた。


(サネ……!)


意味わからない。何故紫苑は拒まれたのか。何故サネはあんな悲しい顔をしていたのか。

ただ、今体を飛ばしているこの力は、森が紫苑を拒否したことによるものであることだけがはっきりとわかっていた。


我らはそなたを拒む。


我らとは、サネを含む森の全て。木も水も草も空気さえもが紫苑に触れることを拒否する。だから息も出来なくて、叫んでしまったことを後悔する。苦しさと悲しさの両方の感情がひたすら涙を押し出した。紫苑の体に住まう水までもが、その体に留まることを嫌っているかのようだ。


(厭だ!)


眼を固く閉じて、心だけで森の全てに向かって叫ぶ。頭の中では、必死に過去のことを思い出していた。その思い出を失いたくない一心で、過去の記憶が書かれた巻物を一気に解き放つ。


祖母を失ったとき。サネに出会ったとき。サネの元へ通った五年。薬草を学び、蟲の性質を習い、病を知り、その治療を覚えた。サネの美しい緑眼。森に生きる者として相応しい緑の黒髪。花の香りのする煙管。そして明確に思い出されるのはここ数日で交わしたサネとの会話。そしてその仕草。


それは走馬燈のようにぐるぐると頭の中を廻った。呼吸が出来ずに意識が朦朧としていたから、それは確かに走馬燈だったのかも知れない。

けれど紫苑はそれによって気がついた。


(あぁ……)


サネは、最近何かがおかしかった。何かを恐れるようにしていた。何かを恐れて……焔の翁が来てからそれは焦燥に変わったように見える。歯切れの悪い解答。急に話をそらして、いつものサネらしくない。そしていつもなら夜遅くまであの小屋に入り浸ってもあまり文句を言わないのに、今日はまだ陽も落ちぬうちに帰された。


サネは何を恐れていたのだろう。

けれどそれは紫苑の関係する何か。


「……!」


もう無理、と気絶する直前に、ふわりと体が止まった。そのまま草の上にゆっくりと落ちて、突然呼吸が出来るようになる。入ってきた酸素に噎せて咳き込み、それがしばらく治まらないもんだから、紫苑はまた涙目になりながら呼吸が出来なくて苦しんだ。けれど頭に酸素が回って、何とかいろいろな器官が正常に動き始める。


(戻らなきゃ)


山へもう一度入って、サネに会わないといけない。何度拒まれても彼女に会って話を聞かなければならない。眠りに入る直前のような脳内でその事ばかりを考えて、紫苑はよろよろと立ち上がり、足下が不確かなまま歩き出してよろめき、近くの木に手を突いた。顔を上げて、照らし出された山を見上げる。そこでふと、今度は息を吸うことさえ忘れて動きを止めた。


(……明るい)


月明かりではない。当然太陽が出ているわけでもない。もっと赤くて不確かな光源に、山全体が照らされている。


(何が)


蟲の光なんかじゃない。あんな儚く緑を含んだ色じゃない。何よりも、蟲たちの姿は全く見えないのだから。山は夕日よりも更に赤く、てらてらと舐めるような光を映している。


(火が)


炎の光だ。間違えるはずがない。この山は以前、その光を映すばかりでは飽きたらず、あの忌々しい赤に裾野を燃やされているのだから。


自然に紫苑は振り返る。山を照らす光源を探して村の方を見る。

途端紫苑の頭は真っ白になって、何よりも先に足が動いていた。手を全力で振り、下駄は途中で脱ぎ捨て、何よりも速くと村へ走る。心臓が止まってしまいそうだった。


少し走れば村の喧噪が聞こえてきた。大人たちが声を張り上げて叫び合い、小さな桶で水を運んでいる。女子供は遠巻きにそれを眺めていて、紫苑はそんな人たち全員に向かってやめて、と叫んだ。


日常を切り離さないで欲しい。村の者たちはこの時間、それぞれの家で夕餉の支度をしているのが普通だ。その普通を変えないで欲しい。


「紫苑ちゃん!」


一番近くにいた女性が、子供の肩を押さえながら声を上げた。周りの人もその声を聞いて、紫苑を振り向く。


「あぁよかった!紫苑ちゃんだけでも外にいたんだね」


そんな声を無視して、必死に火の元へと走る。今は何も聞きたくない。


村で一番大きな屋敷。広い庭を持ち、塀に囲まれて、屋敷には数多くの人が住む。

屋敷の主にその妻に、数人の親戚。使用人の者が数名に、商売を手伝う者たちが数十名。


あんなに人がいたのに、その屋敷が焼けているのに、こうやって火を見上げる人の中に屋敷で見た顔が誰もいない。父も母も、使用人たちも、焔翁さえ。


煌々赤い光を放ちながら天へと伸びる炎が、屋敷を丸ごと飲み込んでいる。


「何で燃えてるの……」


足を止め、唖然と呟いた紫苑の言葉に、水を担いで息を切らせた青年が汗を流しながら答えを返した。


「村のみんなが気づいたときは、もう炎が屋敷を飲み込んでたんだ。誰も出てこないし、騒ぐ声も聞こえなかったから、気がつくのが遅れちまった」


「誰も……?」


じゃあ中にいるんじゃないのか。そう思ったらたまらず足を動かして、家へと急いだ。

助け出さなければ。家なんてどうでもいいけれど、みんながいなくちゃ日常は決して取り戻せない。サネはあの日常が無くちゃきっと取り返せない。あの日常には、家族が必要不可欠なのだ。


「おい!?」


水を運ぶ人たちに紛れて庭へと入り、そこで男たちがまた途方に暮れて空を見上げ、垣根を作っている。


「どいて!」


「おい!何処に行く気だ!」


人の間をかき分け無理矢理通りながら玄関先にたどり着いたが、そこで慌てた大人数人に腕をつかまれ羽交い締めにされて止められてしまった。紫苑はそれを解こうとがむしゃらに暴れる。足をばたつかせて腕や手を振り回し、そうすることで数人の手がはじかれた。


「紫苑!今行ってもお前が死ぬだけだ!これだけ経っても誰も出てこんのだ!」


「うるさいっ!何よ大の大人が炎ごときに!何で助けに行かないの!?人がいるのをわかっていて!みんなまだ中にいるのでしょ!?何で助けに行かないのよっ!」


「行けるわけ無いだろう!少し落ち着け!」


「離して!あそこにいるのよ!まだ助けを待っているんだわ!」


「暴れるな!おい行かせるな!」


押さえていた男の一人のかけ声で、またしても紫苑の腕を押さえつけるために人々が集まってきた。今度は誰かが足を蹴り、紫苑はまともに体勢を崩して地面に叩きつけられる。


「う……」


下はごつごつとした砂利だ。体中にその角が当たって、もの凄く痛い。

けれどまだ腕は伸ばせる。まだ這うことは出来る。


「紫苑。もう遅いんだ」


頭の上で、誰かがそう悲しげに呟いた。


「うるさい!見て見なきゃわかんないじゃない!」


体を揺らしてくねらせて、どうにか脱出を試みる。


「良いわよね。あなたたちは他人事だもの。でもあそこには私の家族がいるのよ」


ぐっと体が動くのを感じた。これなら抜けられる。


「誰も行ってくれないのでしょう?なら私が行くしかないじゃない」


ずりずりと、体を滑らせる。誰かがもう一度上から押さえ直したが、もう炎まであと少しだ。もうすぐに抜け出せる。


「紫苑、もう誰が行っても間に合わなねぇ。間に合ったとしても、今度は外に出られん。あきらめるしかねぇんだよ」


「いやだわ!離して!」


「行っちゃならん!」


「――離せ!」


紫苑は滑り出た。その勢いのまま、炎の切れ目に飛び込む。


「紫苑!」


誰かがそう声を上げたが、もう聞こえない。

炎の中は、まるで別世界だった。忌まわしい炎が作る赤く輝いた世界。その境界線を越えてしまったのだ。とても熱くて、汗が一気に流れ出る。勝手知ったる玄関が火山口のような有様だ。自ら光を放つ炎は森とはまた違った意味で美しいが、とても好きになれそうな場所ではなかった。


煙を吸わないよう着物の袖を口に当て、下駄のまま玄関先を上る。

廊下の先で天井が崩れた。急がないと、すぐにここも崩れてしまう。誰か一人でも……出来れば父や母を見つけたい。


どこから探そうか思ったところで、ふと台所の入り口が眼に入った。玄関から一番近く、出てくる前に何か騒いでいる声を聞いた。あそこから火が出たのであればそもそも台所が残っているはずがないのに、そこは未だに形を保っている。じゃあ何で残ってるんだろう。


何となく、惹かれるようにして紫苑はそこに足を向けた。


熱い壁に触れないよう気をつけながら、そっと入り口をくぐる。


「……!母様!」


そこには折り重なるようにして、五人の人が倒れていた。その一番上に、上等な着物を着た母親が倒れている。すぐにでも駆け寄って抱き起こしたかったけれど、無事を確認するにしろ、悲しい事実を確認するにしろ、その側に立ちすくむ者の所為で道が阻まれていた。


母の物よりも更に上等の着物。こんな場所にいたらすぐに燃えてしまうのではないかと言うほど髪が長く、その髪は黒く艶やかで炎の光をテラテラと受けて輝いている。まるで平安の貴族のようだった。彼女は紫苑の声を聞いて、それは優雅に振り返る。手には黄金の扇が広げられ、それで口元を覆っている。信じられないほど美しい女性だった。


「あら、まだ残っていたの。なかなか難しいものだわ」


「……だれ……」


「しかもあなた……、春宮の娘ように見える」


「そうよ。ここで何してるの?人が倒れているのに」


「倒れている?」


彼女は心底不思議そうに首を傾げて、足下の母たちを見た。


「まぁ、倒れているわね」


「何でそんな悠長なこと言ってるのよ。煙を吸っているだけでしょう?早く助け出さないと死んでしまうわ」


「おかしなことを言う」


彼女はころころと玉のような笑い声を上げて、裾を翻し体ごとこちらを向いた。


見えなかった右手が紫苑の視界に入る。


そこには彼女の様相からは信じられないほど不釣り合いな、真っ赤に染まった小刀が握られていた。炎よりも更に赤いそれは、彼女が振り向いた時の揺れで何滴かが滴り落ちる。


紫苑はもう混乱してしまって、驚いた顔のまま停止してしまった。


「死んでいるの、間違いだわ」


轟々と、炎の音が少しだけ流れた沈黙を埋めた。

それにしても、と女は困ったように呟く。


「上手くいかないものだわ。何故こうもずれてしまうのかしら。本当に難しい。あなたが生まれる前にどうにかしなければならないのに。どうしてずれてしまうのかしら。一体何に原因があるのだと思う?」


聞かれても意味がわからないし、答えられるはずがない。


「まぁ、今回も失敗なのでしょうね」


「そのようだな」


突然後ろから声が飛んできて、呆然としていた紫苑ははじかれたように後ろを見た。

女も突然現れた姿に目をすがめる。


「……随分お久しぶりねぇ、焔の古狸。もう死んでいるかと思った」


「お前さんも変わりないようだなぁ、まだこんな事やってんのか」


「貴様には関係のないことだろう」


焔翁。

彼は紫苑の肩に手を乗せて、余裕そうに笑っていた。手には火のついていない煙管を持っている。


「関係あるさ。お前はふん縛ってでも天界に連れて行かなきゃならない」


「ふん。捕まえられるものなら捕まえてみるが良い」


彼女はそう言うや否や、手に持っていた短刀を紫苑へ向かって投げ放つ。翁はそれを見計らったように紫苑の襟を退いて立ち位置を入れ替え、飛んできた短刀を煙管で弾き堕とした。それから一気に彼女との距離を詰めようと踏み込むが、美しい女は不敵に笑って身を翻す。するとその回転で風が起こり、小さな竜巻のよう渦が巻いて、彼女はそれにかき消されるようにして宙に姿を消した。


翁の伸ばした手は、勢いよく宙を掻いて終わる。


「ちっ……おい!出るぞ!」


翁はすぐに踵を返してまた紫苑の襟を引っ張る。けれど紫苑は、今度ばかりは反抗した。やっと頭が働き出す。


「待ってよ!何が起こってるのか全然わからない!あの女は誰!?母様は……」


「出たら全部説明してやる!あいつが消えた以上ここもすぐに崩れるぞ!」


「だって!」


紫苑の上げた声は、もう金切り声だった。


「だって母様があそこにいるのよ!?何で放って出て行くの!?あなた神様の遣いなんでしょう!?何で母様を助けてくれないの!何でみんなを助けてくれないのよ!」


涙が溢れてくる。まだ諦めきれなくて、力を込める翁の手に足を踏ん張って反抗する。そんな紫苑を、翁は哀れな眼で見つめた。


「父様だっているんだわ!他のみんなだってまだここにいるのよ?ねぇ、まだ生きているかも知れないのに、それを放って出て行くの?」


「…………」


「あなたは何をしていたの?この家のご飯を食べたでしょう?この家に泊めてもらっておいて、それはないんじゃないの?あなたは恩を仇で返すつもりなの?」


自分でもとても厭なことを言っている。とても汚いことを言っている。でもきっとこれが本音なのだと思う。私は本当に汚い人間で、その汚さを隠すために美しい物を愛でるのだ。


「ねぇ、助けてよ。何でもするから。私の日常を返してよ……っ」


最後は嗚咽に飲まれた。膝が頽れ、縋るように翁の着物を掴む。

あらゆる物が熱かった。床も、空気も、風も、体も、頭も、心の中も、熱が溶かしていく。端を焦がし、炎を点けて、全てを灰にしてしまう。


どこかでまた天井が崩れた。翁は気にせずに腰をかがめて、紫苑の背を優しく撫でる。


「…………本当に何でもするかい?」


紫苑は顔を上げる。


「とても辛いことだ。とても苦しいことだ。とても悲しいことだ。このまま生きていれば、母や父を失った傷も癒えるだろうし、他の生き甲斐を見つけることも出来るだろうが、もしそれを捨てるというなら、連れて行ってあげよう」


はらはらと涙がこぼれ落ちる。


「いくかい?」


差し出された細い腕。もう一度顔を上げると、濃く深い緑の瞳が悲しげに紫苑を見下ろしている。


紫苑は更に手を見た。

彼の手には、見慣れない位置に岩みたいなタコがある。細くも逞しい手の平。


紫苑はしばらくその手を見つめ、たくさんの過去と、たくさんの思い出と、これから来るであろう未来を考えたが、最後にサネの事を思って、そろそろと手を上げて翁の手を取った。


翁は耐えるように眼を閉じて、良いだろうと小さく呟く。


「連れて行ってあげよう天界に。薺大君に会ってくると良い」


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