弐-時ノ世-
老人の名は知られた。『焔』というらしい。名字が語られることは無かったが、夕餉に集められた春宮の一族は、彼のことを一様に焔翁と呼んだ。ひょっとしたら焔こそが名字なのかもしれない。
彼は紫苑が頭を下げて挨拶する際も、人の話を聞く際も、信じられないほど穏やかな表情で聞き入っていた。人の話を聞くことに慣れているようで、相槌も絶妙な手合いで打ってくる。ただその分、彼は自身の話を全くせず、彼がどのような理由でこの場にいるのかがわからなかった。
こっそりと母に聞いた話によれば、彼は先代の古い友人で、春宮の商いがまだ波に乗っていない頃、今の財産を築くのに十分な助力してくれたのだという。ただ彼が一体何を生業にしている人なのか、今は何処に住んでいるのか、何故ここにいるのかは父にさえわからないのだとか。時折ふらっと来て、商いの調子はどうだとか、困ったことはないかとか、春宮の現状を逐一把握して、何かあれば助言を残し、何もなければそれでよい、なんて言って、颯爽と去ってしまうのだという。
何で父はそんな人を家に上げるのか、紫苑には不思議でたまらなかった。
恩があるとはいえ先々代の話だろうに。そんな物見遊山気分で現れて何泊もしていくというのだから、質の悪い物乞いのようじゃないか。
そんな風には決して見えないのに、そんな事を考えながら食事中ずっと彼を見ていると、その視線に気がついた彼は何の気なしににっこりと笑った。
紫苑はびっくりして顔を真っ赤にし、蝋燭の明かりで顔色が見えるはずがないと心の中で念じつつ、さっさと食事を済ませて逃げるように部屋を出た。
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「焔?」
「そう。先代の友人なんだって」
いつも通りの昼下がり。サネの住む小屋で涼んでいた紫苑は、会話の切れ目を狙ってその話題を投げかけた。サネは紫苑の話し相手をしながら紙に筆を走らせていたが、その名を聞いて筆を止め、紫苑と視線を合わせた。
「知ってるの?サネ」
「ん……あぁ。まぁ」
何とも歯切れが悪い。思わず反射的に聞き返してしまったようで、そのとっさの反応を悔いているようだった。気を取り直すように書物に向かうが、書き損じてしまったらしくため息が漏れる。紫苑は見なかったことにして、先を続けた。
「何でも彼は山を廻っているそうなの。うちみたいな山間にある村を廻って、その山の調子を確かめているんだって。どういう事かわかる?」
「その言葉通りの意味だろうね」
「だから、どういうこと?」
そうだな、とサネは顔を上げた。
「お前は二年前の事を覚えているか?この森が山火事になって、麓が焼けてしまった」
覚えている。と紫苑は頷いた。
深部こそ無事だったものの、この森の麓は真っ黒になり、近くの山など半分が焼け焦げてその肌を人目にさらしていた。火の手は同じように森を襲ったけれど、被害はこのサネがいる森が一番少なかった。それも蟲が押さえてくれたためだという。
「その時蟲の数は減り、山の輝きも無くなってしまったろう?そういう状態を、焔は山が弱っていると判断するわけだ。あの時はお前や他の者たちにも見える炎によって傷つけられたが、時には目に見えない悪しきものによって森が汚される場合もある。そういうときも蟲は敏感に反応し、数が減ってしまうから、そういうときは何が原因かを事細かに調査する。それがあいつらの生業だ」
「……調査して、どうするの?」
「調査するように頼んでいる者がいるのさ。そいつらに報告して、どうすればよいかを仰ぐ。時には近隣の村人とともに山を再生したり、手の施しようがなければ山を閉じる。霊山が病めば、入った者に害があるからね」
「山を、閉じる」
昔春宮を訪れた行商人より、どうしても入れぬ山の話を聞いた。
その山は周囲のどの山よりも高く美しい山であったが、いつか異臭が漂い、物の怪が出るようになったのだという。そうして周辺の村人が近寄らなくなった後、いつの間にか山に入ることが出来なくなったのだとか。何度その山に足を踏み入れようとしても、いつの間にか麓の村に戻ってきてしまっていたと行商人は語った。しかも不思議なことに、村人達には男がずっと村の入り口で立ちすくんでいたように見えたのだという。三時間もかけて山に向かったのにも関わらず、棒立ちになっていた時間はたったの二分程度だと言うが。
男は狐にでも化かされたのかと言っていたが、そんな化かし方をする狐が何処にいるだろう。その村自体が狐の村だったというならいざ知らず。
「そういえば紫苑。お前、下駄は大丈夫だったのか?」
何がどういうふうに『そういえば』なのかわからなかったけれど、紫苑はとりあえず足を上げて見せた。足にはここに来るまでに泥だらけになった昨日とは別の下駄が引っかかっている。
「ん?」
「母様の」
サネは火を点けかけた煙管ごと手を額に当てて、盛大にため息をついた。
「今頃大騒ぎしてるんじゃないか?」
「しょうがないじゃない。いつもはまぁ、私の所為だとしても、昨日のは不可抗力じゃない。岩の上に脱ぎ捨ててあったの、猿に持ってかれちゃったんだから。サネにせっかく見つけ出してもらったのに鼻緒は切れてるし」
「置いてくるのが悪いんだよ」
紫苑は唇をとがらせて見たけれど、サネは見ていなかった。代わりに火を点けた煙管を加えて、口の端をつり上げている。そしてぎりぎり紫苑が聞こえるぐらいの音量で、
「……そうか。あの偏屈ジジイ、まだ生きているのか」
そうつぶやいた。
その後早めに家に帰されて、いつも通り母親にお叱りを受けてから井戸で汚れを落としていると、縁側に腰掛けてこちらを伺っている焔翁の姿に気がついた。紫苑が気がついたのを見て、また穏やかににっこり笑う。
「お帰り」
「あ……どうも」
もうちょっと気の利いた反応が出来ないものだろうかと悩む今日この頃。しかしそんな事気にせずに、翁は笑っている。ただそれ以上話す気がないのか、それとも単に紫苑が作業を終えるのを待っているのか、翁は何も喋らなかったので、紫苑は手に持った桶を抱えて、目の前の木々に向かって撒いた。
桶を井戸の脇に置いて、下駄の水を払って作業の終わりの姿勢を見せるが、やはり彼は何も言わない。このまま立ち去ってしまってもよかったが、なんだかそれもきまりが悪くて、迷った末に紫苑の方から口を開いた。
「あの、サネという方をご存じですか?」
翁はサネと同じように煙管を咥え、煙を燻らせている。その煙の香りも、やはり通常の煙草とは違う花の香りの物だった。ただ少しこちらの方が薬草くさい気がする。
「知っとるよ」
ちょっと時間がかかったような気がしたのは気のせいだろうか。表情も何の変化も見られないから、きっと気のせいだろう。紫苑は砂利の上をとことこと裸足で歩いて、彼の目の前で止まった。でこぼことした砂利の上は以前は裸足だと痛かったけれど、何度も繰り返しているうちに皮が厚くなって平気になってしまっている。
「お知り合いなんですか?」
「あぁ、そりゃあ長い付き合いさね。儂は山守なんでな、時宮のことはよく知っとる」
「トキノミヤ?」
「おや、知らないかい?」
そのことに驚いて、翁は垂れた瞼を持ち上げた。夕方の日が放つ最後の目映い赤色に、彼の瞳が照らし出されて緑色に染まる。紫苑ははっとしてその緑を見た。
サネのものより更に濃い緑色。昨日会ったときは蝋燭の光だけで薄暗かったから気がつかなかったのだ。いや、ひょっとしたら、昼間見ても気がつかなかったかもしれない。陽にさらされてやっとこの濃さなのだ。近くで見なければ、黒と間違えてしまいそうなほど深い緑。
その瞳はすぐに隠されて、老爺は煙草盆に煙管を置いた。
そうさな、と前置きをして、まっすぐに紫苑を見て語り始める。
「この世は全て時の流れによって成り立っておる。この世の時の存在のあり方は、大きな時の流れに従って、土地ごとにいる時宮一族がその土地の時間を決める。植物も動物も、もちろん人間も、そしてあらゆる事象さえ、全て時宮一族によって統一されておる」
「……それは」
「もちろん人間ではないよ。彼らはむしろ神に近い。薺という神を、知っているかい?」
「ナズナ?……いえ」
「先ほど言った、この世の全てを決める大きな時の流れを司る、時の神。時宮一族はその薺の大君によって定められ、纏められる。サネという女性はね、そういうものだよ」
何十年も前から、ここで暮らしている。なぜならこの森から出られないから。なぜならそう定められたから。出られたところで、出るつもりもない。私はこの森が山が土地が好きだから。
サネはそう言っていた。
「時宮一族には、大抵山に住む者が選ばれる。サネという女性はね、俗世を捨て山には入り、そうして住むうちに時宮の一族となった。薺の大君に招かれて、この土地一帯の時間を決めている」
森に入ったとき、いつもと違う時間の流れを感じる。あそこは時宮一族たるサネが住むために、薺が与えた時の中。そしてあの正確な時を知る能力は、能力なんかじゃなく、当然のことだった。自分が時を決めているんだから、時間を正確に知っていることぐらい当たり前だ。
「儂は大君より命を授かり、全ての時の流れを知り、知らせる者。それが焔一族であり、もちろん儂の他にも何人かいる。血は繋がっておらんし、時宮と違ってみんな人間だがね」
この目は、と翁は持っていた煙管で自身の目を示した。
「嬢ちゃんも気付いているだろうが、大君に仕える者の証だ。色の濃さこそ様々だが、みんな一様にその色は緑色をしておる」
「緑の瞳……」
呆然と繰り返す。
神様なんて、想像の物だと思っていた。人が縋るために作り出した偶像だと。だって彼らは何もしない。昨年村を襲った干ばつの時だって、一体村の人たちがどれほど祈ったことか。遙か遠くの都では、何故あんなにも戦が起こるのか。紫苑は実際に見たことが無いけれど、行商人達はみな沈痛の面持ちで外の世界を語る。
焼け野原になったかつての村で、声を枯らして祈る人がいるという。
焼け落ちた霊廟に唯一残った大根の葉を集めて持ち寄り、何度も何度も頭を土に擦りつけ、願う人がいるという。
なのに何故、神はそれを助けてくれないのだろう。
紫苑がそう問うと、翁はまた煙管を咥えてあっけらかんと答えた。
「そりゃあ他の神さんがすることだ。八百万の神つってな、全ての事象をそれぞれ神が司っている。薺の大君はそのうちの一人。ただ時の流れを決めているだけで、起こることを変えたりはできやしない。早いか遅いかだけのことだ。運命は何も変えられん」
「でも、その人達は薺様だけに祈っている訳じゃあないでしょう?他の神様にだって……というか神様全員に祈っているのでしょう?」
「違うねぇ」
あっさりと否定されて、紫苑は少しばかりカチンと来た。あからさまに眉をひそめてみるけれど、翁は何処吹く風で煙を風に乗せる。夕方の光に照らし出されて、煙までもが赤く染まっていた。
「そうさな。おまえさん、この国におられる神、全ての名を言えるか」
「は?」
「言えんだろう。何しろ八百万。こりゃ実際に八百万いるというわけじゃなく、もっと膨大な数の神さんがいると言うことだ。人が想う分だけ、神さんはいらっしゃる。その神さん一人一人が、この世にいる全ての現象一つ一つを作り上げ、この世界は成りたっとる。運命を変えようとすることは、その神さん全てを知り、その神さん全てに祈りを捧げなきゃならん。そんなことは無理というものだ」
例えば手を挙げるという動作。例えば髪をとかすという仕草。例えば人が巡り会うという偶然。例えば木が芽吹くという必然。例えば太陽が昇るという事象。例えば人が動物を食うという事情。すべてその生命活動一つ一つに神が宿り、幾万という神が壱から拾まで全てを決めて、そこでやっと人は一つの動作が出来る。歩くこと、話すこと、食べること、見ること、聞くこと、さわること、感じること、認識すること、反応すること、その全てをそれぞれの神が決める。
この世界はたった一つの神によって作られた物じゃない。
いわばこの世界は合作だ。八百万の神の誰かが思い立ち、仲間を集めて企てた図案。その構築物がこの世界。
「大君は名こそ知られておらんが、神の中でもかなり上位におわすお方だ。大君はほぼ全ての神の意志を纏め、地上にいる時宮に伝える。時宮の一族はそれに従い時間を動かす。それがこの世の仕組みなんだよ」
「サネはそんなこと、教えてくれなかった」
あぁ、そのようだねぇと、とのんびりした口調で翁は言う。
「幼い頃は蟲の姿がよく見えるが、それも大人になると見えんようになる。それと同じように、時宮の姿は生まれて一年で見えなくなるのが普通というものだ。まぁ、全員確認したわけではないがね。だいたいそういうものなんだよ」
「でも、私は見えます」
「そう。儂も久しぶりに会ったが、時々おるんだよ。そういう者が。見られた時宮は、大抵がそのものの記憶を消し、大君に報告してその能力を消してもらう。だがあやつは、何故かそれを怠っとる」
「悪いことなんですか」
「いや、そういう風にした時宮もいないことはないし、問題も特にないが、まぁ珍しいことには変わりない。しかもお前さんは随分と付き合いが長いようだ」
「……まだ五年ですけど」
「十分長いと思うがね。だからまぁ、こういう話もしていると思っとった。少し驚いたが、ひょっとしたら何か考えてのことかもしれんしの。儂は知っておいた方がよいと思って話したが、お前さんがサネの事を考えるなら、聞かなかったことにしておくれ」
そういえば、何故この老人は私が五年前からサネのところに通っていることを知っているのだろう、と今更ながら紫苑は思った。彼は知っていたから話したのだ。もし知らなければ、こんな話しなかったに違いない。
そしてそれに思い至ったからこそ、翁が彼にとっての真実を語っているのだと理解する。
彼は紫苑が突然こんな話を聞かされても信じないだろうと言うことがわかっていた。ただそんな神の話をされても、何処の村にでもある御伽草子程度にしか聞かないだろうとわかっていた。
でも紫苑には彼の言葉が真実である事を認めざるを得ない。本来なら彼が知り得るはずのないことを、彼は間違いなく知っているのだから。
口には出していないはずなのに、翁はお見通しだと言わんばかりににんまり笑って、龍のごとく口から煙を吐いた。
「我ら焔は時宮の目付役。彼らのことでわからないのは、あやつらの性格だけだ」




