金風ノ拾伍-崩壊-
その光景を見て、私はなんて恵まれているんだろうって、思うべきなのだろう。
でもそう思うことが私には酷く沙代に対する侮辱に思う。
彼女は辛いと思って良いだろう。彼女が私を見て羨ましいと思うのも構わない。
でも私が彼女を見て、自分の人生を幸せだと感じることは、長いこと嫌悪し続けた奴婢として扱うことと何ら変わらないじゃないかと思う。
わざと酷い生活をさせているわけではないけれど、こんな生活よりはマシだろうと現実の辛さから目を逸らさせようとする国の政策と変わらないじゃないか。
人は自分の苦しみを当然のものとして受け入れるべきだ。目を反らさず向き合って、その辛さを乗り越える術を見つけるべきだ。
でも幼い沙代のあまりの人生に、ただただ紫苑は目を閉じた。
隣で沙代が静かに涙を流し、必死に嗚咽を堪えている。
「……死にたくないわ」
「そうね」
「やっと……やっと手に入れたのに」
人並みの幸せを手に入れたのが、そんなにいけないこと?そう続けられて、紫苑は唇を噛む。
悪いはずが無いじゃないか。
人は幸せになる権利を誰もが持っているはず。沙代にとって家族を得ることがそれで、彼女はやっと幸せを手に入れたのだ。
それがこんなに短い期間だったなんて。
でも……
そう思った紫苑の目に、縁側の下から覗いた鎌が見えた。
なんとなく腕を伸ばして、それを拾う。
「でも、所詮まやかしだわ」
紫苑はぎゅっとその鎌を握ると、飛ぶように縁側から立ち上がって稲穂に向かって走り出した。沙代はその行動にぎょっと目を見開いて、慌ててよろよろと立ち上がる。
だがその間にも紫苑は一番手近な稲穂の首に向かって、鎌を振り下ろしていた。
「やめて!」
沙代が叫ぶ。だが紫苑は無視して、また別の房に向かって鎌を振り下ろした。それを刈り取ればまた別の房へ。稲刈りとも呼べない乱雑さで田を荒らしていく。
「やめてよ!」
縋るように背後から掴みかかってきた沙代を紫苑は振り払った。そうしてまた稲を刈る。
一際多くの束を刈ったところで、空の一角が硝子のような音を立てて割れ落ちた。そこには何も無く、白や黒に絶え間なく色を変じる空間が顔を覗かせる。
紫苑は時を支配する方法を知らないからよく分からないのだけれど、少なくともじわじわ広がっていく物ではなく、ある一定の範囲を切り取って支配するようであることは分かっている。
そして時の支配は割と変動的で、彼女の望みが一番叶えやすいように行われていることも。
彼女の望みは、この風景が壊されないこと。
この状況が壊れることなく、レンの成長を見守り、直崇を待ち続けられるこの風景を維持すること。そのどれか一つ掛けてしまえば、この世界はこんなにももろい。
ミツとレンだけがここにいて、直崇さんの笑い声は聞こえない。
「なん……で」
縋り付いたままさめざめと泣く沙代を振り返って、紫苑は思い切り息を吸った。
「何で直崇さんを待つことしか望まなかったの!何で彼が帰ってくることを願わなかったの!その所為で彼はずっとあなたの側に寄れなかったのに!」
五年よ!?と紫苑は叫んだ。少なくとも彼女は体感に過ぎないが五年間、彼の帰りを阻んでいた。彼女があれほど望んでいた家族が、彼女自身のせいで揃うことはなかった。
「それにあなた自身はこうしてこの自分だけの世界を見ていられるでしょうけど、レンはどうなのよ!あの子はずっとあなたの変わり果てた姿を見続けなければならなかったのよ!あなたと歩くことも、会話することも出来なかった。ねぇ、あなたの望んでいたのは、本当にこんな世界だったの?あんなに苦労して、やっと幸せを手に入れて、あんなに優しくレンを育てたあなたの世界がこれ?レンや直崇さんを苦しめて、ミツさんをずっと困らせるような世界だったの」
彼女は顔を上げて、その表情を歪めた。
歪んだ瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「ねぇ。現実を見てよ。私だったら、会えない愛しい人を待ち続けるより、最後に人目だけでも……ほんの数秒でも会える方がずっといい。あなたは違う?」
沙代はふるふると首を振る。
それと同時に、世界全体に罅が走った。ばらばらと破片が落ちてくる上に、当然足下にも罅が走り、ぐらりと揺れ始める。
「う……わ……」
「娘!走れ!」
「絆狸様!?」
持っていた鎌は消えていた。足下に蹲って泣く沙代も、風景と一緒くたに罅が走っている。
紫苑は身を翻して走り出したが、ふと足を止め、崩れゆく沙代の姿を振り返った。
「沙代さん!」
彼女は顔を覆っていた手を離し、快活な少女を見た。
「直崇さんは帰ってるわ。レンも、ミツさんもいる。一目だけになっちゃうかもしれないけれど、あなたの家族に会えるわ」
彼女は一瞬意味が分からず呆然としたが、すぐに優しく微笑んだ。
紫苑はそれを見てから再び走り出す。足下もゆっくりゆっくりと崩壊を始めていて、崩れていない場所を選びながら渡らないと行けない有様だった。
「娘!こっちだ!」
目の前に尻尾の生えた絆狸の姿が見える。
紫苑はその姿がおかしくて笑ってしまった。
「絆狸様。尻尾」
「黙っとれ」
年老いた手が紫苑の伸ばした手を捉える。
そうして引き上げられると、そこはもう沙代の世界でも回廊でもなく、あの待合室のような美しく小さな花畑だった。




