金風ノ拾肆-沙夜-
誰か……聞いて。
私の声を。
聞いて。
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それは瞬間的な映像だったと思う。
景色が流れるように、紫苑はサネの一生を追った。
最初は幼い子供。
泥だらけで、汚らしい。
襤褸ような服を着て、道ばたにうち捨てられたゴミを漁る。
空腹で空腹で仕方なかったのだ。
やっと見つけた大根の端くれに嬉々としてかぶりつき、その柔らかな感触からやっと滲み出した久しぶりの水に涙した。
母に手を引かれた少年がそれを指さして笑う。
何がおかしいのか分からなかった。
子供は少しばかり成長して、働くことを覚えた。
大きなお屋敷の下女になれたのは運が良い。屋敷の中を優美に歩く者たちに憧れた。
華やかな庭園の隅で、汚らしい身なりをした者が働いている様は酷く滑稽だったろう。
美しい女達は子供を虐げて笑う。
主は見向きもせず、その子息は子供を虫けらのような瞳で見下ろした。
あの者達は何故美しくあれるのか。分からない。
それから少しばかりして、屋敷は燃えた。
大きな物を呑み込む赤が恐ろしい。黒い空を舐めようと立ち上がった炎が美しい。
まるで赤い衣を纏った者が舞っているようだ。
爆ぜる音は哄笑。
叫び声がそれを称えるように響き渡る。
それがどうにも恐ろしかったが、少女に成長した子供は、どうにも晴れ晴れしい気分だった。
少女は再び道に迷い、死にかけた。
燃えた屋敷にいた者を雇ってくれる者はない。
燃えて更に襤褸になった着物を纏った者の話など、誰も聞いてはくれない。
人の通らぬ路地裏で、ただ狭い空を見上げていただけなのに、
突如袋を被せられ、暗い部屋に押し込められた。
暗い。
暗い。
次に見た光景は、見たことも無いほど賑やかで、華やかな通りだった。
美しく化粧した艶めかしい女達が、澄ました顔で通りを過ぎる。
ここがどういう場所であるか、何故突然見ず知らずの男が少女を車から引きずり出したのかを理解して、少女は暴れた。
どうしてこんな場所を知っていたのかは知らない。
ただ嫌な予感がしただけだ。
必死に暴れて噛みついて、一目散に逃げ出した。
逃げられたのは運が良い。
ただ遠くへ、遠くへ、力尽きるまで走り続けた。
泥にまみれた少女が道に倒れている。
樹の木陰で、冷たい地面に横たわったまま、少し先にある街道を眺めていた。
少年に手を引かれて歩く幼い少女。
風車を買って貰って自慢げにそれを掲げ、兄に羨望の言葉を掛けて貰いたがっている。
兄はそれに応えて、お前は幸せだねぇと言ってやって、大切にするんだよと妹の頭を軽く撫でた。
声が、
手が、
当たり前のようにある返事が、
欲しい。
悔しくて悲しくて、とても惨めで。
当たり前の物を何も持っていない自分が嫌で。
誰にも気付いてもらえなくて。
私の声など誰にも聞いてもらえない。
私に誰も触れてくれない。
あの温かい手が欲しい。あの暖かい返事が欲しい。
一方的な暴力でなく、一方的な暴言でもなく。
冷たい嘲笑でも、差別に満ちた視線でもなく。
一度で良いからあの慈しみに満ちた暖かさが欲しい。
少女は初めて泣いた。
泣くほどの水分が残っているなど思わなかったが、確かに熱い何かが瞳からこぼれ落ちた。
跳ね上がる心臓を手で軽くなだめようとしたが、それは言うことを聞かない。
呼吸が苦しくなって、自然をしゃくるように声が出る。
苦しくて苦しくて、柔らかい草に顔を押しつけた。
熱い物が頬を流れ落ち、冷たい地面にしたたり落ちる。
もう最後だと思ったから、身体のやりたいようにさせてやればいいと思った。
体力は限界で、だからもうこの命が尽きるまで泣いてやればいいと思った。
今更になって、暖かい言葉が降ってくるなど露ほども思わなかったから。
今更そんな物が与えられるなど、夢にも思わなかったから。
だから。
「……具合でも悪いのか?」
突然降ってきたそんな言葉に心臓は一度跳ね上がり、それが気付けにでもなったように大人しくなった。
「どれ、見せてみろ」
背の高い青年。
決して上等ではないけれどきちんとした身なりをしていて、旅をしているのだろうか、背に荷を背負っている。
彼は最初に水を与えてくれた。
次に少女が食べたこともない、純白に美しく輝く握り飯を与えてくれた。
暖かい着物を貸してくれて、優しい手で身体を支えてくれて、街まで連れて行ってくれた。
その間に話をしたら、それに優しい答えがあった。
彼の見知りの大きな店で、働き口を見つけてくれた。
それから何もかもが嘘だったように世界が変わった。
汚れた場所などどこにも無い。磨いてみれば少女の肌の白いこと。少女の髪の艶やかなこと。人形のようなその姿に、店の誰もが驚いた。
着物に十分な布がもらえて、それで初めて自分のための着物を作った。
助けてくれた青年はたびたび店にやってきて、少女の身を案じては、話し相手になってくれて、最後には必ず着物姿を褒めてくれる。
店の者は優しく、少女を本当の娘のように扱った。
少女はそれが嬉しくて懸命に働いて、お陰で店は繁盛した。
誰かのために働くことを初めて知った。
感謝という言葉を初めて体験した
人に報いることがこれほどに喜ばしいと思えるほど、人と接したことが無かった。
やがて少女は女性になって、かつての青年と結ばれた。
誰もが祝福してくれて、二人の間に子供が出来て、女性は生まれて初めて家族を持った。
子は幸せに成長する。
四つん這いで歩き始めたと思ったら、あっという間に立ち上がって、手を引いて一緒に歩けるようにまでになる。
この手を引ける自分が誇らしく、手を引いてもらえる子が誇らしかった。
この子には間違い無く自身の優しい手が答えてやれる。
どんな言葉にも、必ず自身の優しい返事が返してやれる。
かつて自身があれほど欲しかったものが、この子にはずっと与えてやることが出来るのだ。
ずっと。ずっと。
この子が大きくなって、自分以外の優しい手が見つかるまでの間。
あの愛する夫が私にくれるように、私はこの子に慈しみを与え続ける。
はずだった。
女性は病に苦しみだした。
体調のよい日も、外に出れば悪化した。
だからあの子の手を握って……あの優しい夫に手を引かれて、外に出掛けることは出来ない。
襖の閉め切られた部屋で布団から半身を起こし、戸の向こうにある黄金の稲穂を思う。
愛しい子の笑い声と、愛しい夫の話し声。
優しい義母の古い歌。
潮騒に似た揺れる穂の音。
太陽の光を強く強く写して揺れる波。
声を上げても、誰もその場にはいない。全ては襖の向こうの出来事。
それはあたかも舞台を見ているようで、誰もが台詞の通りに動いている。
女性は客で、だから女性の言葉は聞こえない。
優しい返事は返ってこない。
暖かい手は触れてくれない。
小さな部屋はどうにも孤独で、また涙がこぼれた。
死にたくない。
愛しい人が戻らないから。
愛しい子がまだ大きくなっていないから。
だから私はまだ死なない。
死ぬ、はずがない。
私はあの人を待っている。
私はあの子を守っている。
それが沙代の物語。




