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時宮  作者: 鷹凪 悠
金風ノ章
23/26

金風ノ拾参―回廊ノ時計―



暗い通路。


けたたましい時計の音がする。


紫苑が呆然とその光景に立ちすくんでいると、彼女の後ろで、重い扉の閉まる音がした。

慌てて後ろを見ると、そこには扉など無い。

目の前と同じように、暗い回廊が続いている。


「どうした、こっちだ」


絆狸の姿はかろうじて輪郭が分かる程度。


「絆狸様。これ、帰れるの」


そう聞くと、彼はクツクツと笑った。


「お前次第だな。ほれ、行くぞ」


「どこに」


慌てて彼の元へと走りながらそう聞くと、彼はゆるりとした態度でほれ、と目の前を顎でしゃくるのが見えた。


恐らく無数に掛けられた時計の一つ。それが蝋燭に照らされているわけでもないのに、ぼんやりと薄暗い橙に光っていて、その存在を知らせている。


「そんなに遠くなくて良かったのう」


「あの時計が、何?」


「見てみろ」


そう言われて近寄って、紫苑は文字盤を見る。

長針が凄まじい早さで回っていた。短針は長針に合わせた速度で動いていたが、真下を指すと同時に瞬時に逆に回転して真上を指す。


文字盤には金色の稲穂が揺れていた。


「綺麗」


「見入っとらんでさっさと入れ」


「入るの!?」


「当然だろうが。ほれ、さっさと行け」


どうやって!?と叫ぶ前に、もう背中を押されていた。

つんのめるようにして顔から文字盤に突っ込んで、そのままするりと金色の中に入る。


「うぎゅ!」


予想外に高い場所に出たことに驚いて受け身を取ろうとしたが、足が引っかかって結局それも叶わなかった。ザリザリと地面と肌を擦りつけて、ちょっと泣きそうになる。


「ぎゃふん」


しかもその後から慣れた足取りで現れた絆狸に身体を踏まれて、紫苑は起き上がる気力も無くしてしまった。

それを慰めるみたいに、柔らかいものが頬に当たる。


「む。さっさとどかんか娘」


「……絆狸様……尻尾出てるよ……」


「おぉ。気を抜くとどうもな」


そう言いながらも仕舞う気はないらしい。

彼は紫苑の上から退くと、その襟首を引っ張って無理矢理立たせ、ほれ、と顔を上げさせた。


遠くで笑い声が聞こえる。


「……直崇さんの家じゃない」


「そうだ。だがあの家の住人で、お前が唯一会えんかった者がおる」


「沙代さん?」


「そうだ。ほれ、行かんか」


「絆狸様は?」


「儂はここで待っておるよ。お前の仕事だからの」


紫苑はふぅんと眉根を寄せてから、踵を返した。

そうして、ここへ来たときと同じように金の稲穂が揺れる畦を通り抜け、古びた藁葺き屋根の家へと向かった。


近づくにつれ、笑い声がどこからか聞こえてくる。


半分ほどまで来て顔を上げたが、笑い声の主はどこにも見えない。けれど多分ここは現実とは全く違う場所だから、例え笑い声の主がいなくても不思議ではなかった。

現に、この世界には空と、黄金の大地と藁葺き屋根の家以外何もない。まるで水平線みたいに、黄金の水面が続いている。現実にあった山も、他の家屋も何もないのだ。


赤い空に、笑い声だけが響く。

そう言えば、天界でも笑い声が聞こえていたな、と紫苑は思い出していた。

あのときと違って、声は二人分しか聞こえないし、一つは大人の声だけれど。


更に進むと、今度はしゃがれた歌声が聞こえてきた。

決してうまいとは言えないけれど、どこか暖かくて、祖母のことを思い出す。


そうして、あぁそうか、と思い当たった。


「この家の、家族の声なんだわ」


でもやっぱり声の主は見えない。

それに、この家に住むもう一人の声だけは聞こえず、代わりに今度はその姿が見えた。


「……いらっしゃい」


縁側に、寝間着の上から上着を羽織った女性が座っていた。

真っ黒の艶やかな長い髪。

現実の彼女よりもずっと健康そうだけれど、やはり肌の色はあまり良くない。けれどそれでも、あの化け物のような顔は全くしておらず、優しげで、暖かい声をした人だった。


紫苑は一度振り返って絆狸を目で探るが、予想以上に背の高い稲穂の波にのまれて彼の姿は見えなかった。


それでもう一度縁側に据わる女性を見る。


「あの、沙代さん?」


「そうよ」


「私、紫苑と言います。春宮紫苑」


「知っているわ」


彼女はあっけらかんとそう言って、自身の横の席を叩いた。

紫苑は少し戸惑ったが、大人しく彼女の隣に腰を下ろした。


隣を見ると、沙代はまっすぐに稲穂を見つめている。

そこには主の見えない、声ばかりが聞こえるだけなのに。


「……何か見えるんですか」


「えぇ。私の大切な家族が」


「あの笑い声の中に入ろうと思わないの?」


「入りたいわ。でもそれはもう叶わないから」


「だから、見ているの?」


「だから、見ていたいのよ。……ずっと、ずっと」


「でも、ここには誰もいないわ」


紫苑がそう言うと、沙代はふわりとした動きで紫苑を始めてその視界に収めた。


「いるわ。あなたには……見えないだけ」


柔らかく微笑んだまま、囁くようにそう言う。

紫苑は首を振った。


「あなたの大切な人は、みんな別の場所にいる」


「そう?私はそうは思わないけれど。みんなここにいるわ。私の周りで、いつもの生活を送ってる。私の楽しみは、こうしてみんなを見ていること。畑を耕す直崇さんや、野菜を干すお義母さま。それに日に日に大きくなるレンの成長を見ることが、何よりも楽しみ」


「だから、みんなを縛るの?」


「縛る?おかしなことを言うのね。私は誰も縛ってなどいない。みんなが自由に生きるところを、ずっと見ていたいだけ」


「でも、本当の時間は全然自由なんかじゃないわ。直崇さんは帰って来れないし、レンはずっとあなたの死を繰り返し目の当たりにして、お婆さんは一人で家を回してる。レンも、ミツさんも、直崇さんも、みんなあなたに囚われてるんだわ」


「何のことを言っているのか、分からないわ」


一蹴されてしまって、紫苑は口を閉ざした。

駄目だ。


「……何故、私の名を?」


「あなたがここに来ることを、教えてくれたからよ」


「教えた?誰が……」


「空が。あなたを説得できれば、この夢のような時間がずっと続くと教えてくれた」


嘘だ。

とっさにそう叫びそうになったけれど、なんとか口を噤む。

そう教えたのは、狗が物怪と言ったものだろう。そうやって、自分の居場所を守っている。


どうしよう、と紫苑は肩を落とした。

説得は難しい。


「ねぇ沙代さん。沙代さんは、ずっと病気だったの?」


「いいえ。体調を崩したのは五年前。どうしてそんなことを訊くの?」


「……何となく……」


何となく、あの絆狸が治める時さえ崩してしまうような彼女の願いが、一体何によるものなのかが気になったのだ。


「あなたのことを教えてくれたら、嬉しい」


そう言うと、沙代はもう一度紫苑を見てから、そうね、と呟いた。

それから再び笑い声の絶えない稲穂を見て、やんわりと語り始める。


「私は幼い頃、貴族の屋敷で働いていたの」


沙代の時の物語。




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