金風ノ拾参―回廊ノ時計―
暗い通路。
けたたましい時計の音がする。
紫苑が呆然とその光景に立ちすくんでいると、彼女の後ろで、重い扉の閉まる音がした。
慌てて後ろを見ると、そこには扉など無い。
目の前と同じように、暗い回廊が続いている。
「どうした、こっちだ」
絆狸の姿はかろうじて輪郭が分かる程度。
「絆狸様。これ、帰れるの」
そう聞くと、彼はクツクツと笑った。
「お前次第だな。ほれ、行くぞ」
「どこに」
慌てて彼の元へと走りながらそう聞くと、彼はゆるりとした態度でほれ、と目の前を顎でしゃくるのが見えた。
恐らく無数に掛けられた時計の一つ。それが蝋燭に照らされているわけでもないのに、ぼんやりと薄暗い橙に光っていて、その存在を知らせている。
「そんなに遠くなくて良かったのう」
「あの時計が、何?」
「見てみろ」
そう言われて近寄って、紫苑は文字盤を見る。
長針が凄まじい早さで回っていた。短針は長針に合わせた速度で動いていたが、真下を指すと同時に瞬時に逆に回転して真上を指す。
文字盤には金色の稲穂が揺れていた。
「綺麗」
「見入っとらんでさっさと入れ」
「入るの!?」
「当然だろうが。ほれ、さっさと行け」
どうやって!?と叫ぶ前に、もう背中を押されていた。
つんのめるようにして顔から文字盤に突っ込んで、そのままするりと金色の中に入る。
「うぎゅ!」
予想外に高い場所に出たことに驚いて受け身を取ろうとしたが、足が引っかかって結局それも叶わなかった。ザリザリと地面と肌を擦りつけて、ちょっと泣きそうになる。
「ぎゃふん」
しかもその後から慣れた足取りで現れた絆狸に身体を踏まれて、紫苑は起き上がる気力も無くしてしまった。
それを慰めるみたいに、柔らかいものが頬に当たる。
「む。さっさとどかんか娘」
「……絆狸様……尻尾出てるよ……」
「おぉ。気を抜くとどうもな」
そう言いながらも仕舞う気はないらしい。
彼は紫苑の上から退くと、その襟首を引っ張って無理矢理立たせ、ほれ、と顔を上げさせた。
遠くで笑い声が聞こえる。
「……直崇さんの家じゃない」
「そうだ。だがあの家の住人で、お前が唯一会えんかった者がおる」
「沙代さん?」
「そうだ。ほれ、行かんか」
「絆狸様は?」
「儂はここで待っておるよ。お前の仕事だからの」
紫苑はふぅんと眉根を寄せてから、踵を返した。
そうして、ここへ来たときと同じように金の稲穂が揺れる畦を通り抜け、古びた藁葺き屋根の家へと向かった。
近づくにつれ、笑い声がどこからか聞こえてくる。
半分ほどまで来て顔を上げたが、笑い声の主はどこにも見えない。けれど多分ここは現実とは全く違う場所だから、例え笑い声の主がいなくても不思議ではなかった。
現に、この世界には空と、黄金の大地と藁葺き屋根の家以外何もない。まるで水平線みたいに、黄金の水面が続いている。現実にあった山も、他の家屋も何もないのだ。
赤い空に、笑い声だけが響く。
そう言えば、天界でも笑い声が聞こえていたな、と紫苑は思い出していた。
あのときと違って、声は二人分しか聞こえないし、一つは大人の声だけれど。
更に進むと、今度はしゃがれた歌声が聞こえてきた。
決してうまいとは言えないけれど、どこか暖かくて、祖母のことを思い出す。
そうして、あぁそうか、と思い当たった。
「この家の、家族の声なんだわ」
でもやっぱり声の主は見えない。
それに、この家に住むもう一人の声だけは聞こえず、代わりに今度はその姿が見えた。
「……いらっしゃい」
縁側に、寝間着の上から上着を羽織った女性が座っていた。
真っ黒の艶やかな長い髪。
現実の彼女よりもずっと健康そうだけれど、やはり肌の色はあまり良くない。けれどそれでも、あの化け物のような顔は全くしておらず、優しげで、暖かい声をした人だった。
紫苑は一度振り返って絆狸を目で探るが、予想以上に背の高い稲穂の波にのまれて彼の姿は見えなかった。
それでもう一度縁側に据わる女性を見る。
「あの、沙代さん?」
「そうよ」
「私、紫苑と言います。春宮紫苑」
「知っているわ」
彼女はあっけらかんとそう言って、自身の横の席を叩いた。
紫苑は少し戸惑ったが、大人しく彼女の隣に腰を下ろした。
隣を見ると、沙代はまっすぐに稲穂を見つめている。
そこには主の見えない、声ばかりが聞こえるだけなのに。
「……何か見えるんですか」
「えぇ。私の大切な家族が」
「あの笑い声の中に入ろうと思わないの?」
「入りたいわ。でもそれはもう叶わないから」
「だから、見ているの?」
「だから、見ていたいのよ。……ずっと、ずっと」
「でも、ここには誰もいないわ」
紫苑がそう言うと、沙代はふわりとした動きで紫苑を始めてその視界に収めた。
「いるわ。あなたには……見えないだけ」
柔らかく微笑んだまま、囁くようにそう言う。
紫苑は首を振った。
「あなたの大切な人は、みんな別の場所にいる」
「そう?私はそうは思わないけれど。みんなここにいるわ。私の周りで、いつもの生活を送ってる。私の楽しみは、こうしてみんなを見ていること。畑を耕す直崇さんや、野菜を干すお義母さま。それに日に日に大きくなるレンの成長を見ることが、何よりも楽しみ」
「だから、みんなを縛るの?」
「縛る?おかしなことを言うのね。私は誰も縛ってなどいない。みんなが自由に生きるところを、ずっと見ていたいだけ」
「でも、本当の時間は全然自由なんかじゃないわ。直崇さんは帰って来れないし、レンはずっとあなたの死を繰り返し目の当たりにして、お婆さんは一人で家を回してる。レンも、ミツさんも、直崇さんも、みんなあなたに囚われてるんだわ」
「何のことを言っているのか、分からないわ」
一蹴されてしまって、紫苑は口を閉ざした。
駄目だ。
「……何故、私の名を?」
「あなたがここに来ることを、教えてくれたからよ」
「教えた?誰が……」
「空が。あなたを説得できれば、この夢のような時間がずっと続くと教えてくれた」
嘘だ。
とっさにそう叫びそうになったけれど、なんとか口を噤む。
そう教えたのは、狗が物怪と言ったものだろう。そうやって、自分の居場所を守っている。
どうしよう、と紫苑は肩を落とした。
説得は難しい。
「ねぇ沙代さん。沙代さんは、ずっと病気だったの?」
「いいえ。体調を崩したのは五年前。どうしてそんなことを訊くの?」
「……何となく……」
何となく、あの絆狸が治める時さえ崩してしまうような彼女の願いが、一体何によるものなのかが気になったのだ。
「あなたのことを教えてくれたら、嬉しい」
そう言うと、沙代はもう一度紫苑を見てから、そうね、と呟いた。
それから再び笑い声の絶えない稲穂を見て、やんわりと語り始める。
「私は幼い頃、貴族の屋敷で働いていたの」
沙代の時の物語。




