金風ノ拾弐―待合室―
紫苑の身体を抱いたまま、狗もやっと息をついて床に座り込んだ。それを見てレンとミツが慌てて駆け寄り、沙代の身体を抱き上げる。
「沙代、沙代」
「母様……。兄ちゃん、何したの?」
狗は袖で汗をぬぐって、顔色の悪い紫苑の顔を見る。
「僕じゃなくて、紫苑の方がやったんだよ。……せっかくキミにいろいろ聞いて貰ったのに、無駄になってしまったな」
けれどそれも、彼女が沙代を説得する上では役に立つかもしれない。
「そうじゃなくて、何でいきなり母様がこんな風になったんだよ。今までこんな事無かったのに。今までこんな風に暴れ出した事なんて一度もなかったのに」
「……キミは、お母さんに生きていて欲しいかい?」
レンは目を見開いて、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「優しいお母様だね。ずっとキミの身を案じていたよ。この家に住む家族の幸せを、心から願ってる。僕にはそんな風に見えたよ」
「それが何だよ」
「さぁ?少し気になったから、聞いただけだよ。別に答えなくても構わない」
レンは彼の言葉の意味がまるで理解できなかった。けれど何も言っていないのに、何も知らないはずなのに、全てを理解していると言わんばかりに微笑まれたのが悔しくて、レンは何故だか悔しくなる。
それで、
「生きていて欲しいよ。当たり前じゃないか」
と、そう嘘をついた。
嘘だわ、と思う。
全部。
正しい事なんて、何もない。
母が……恐らく父も死んだとき、何が起こったのか分からなかったし、本当は悲しさなんか無かった。
涙が流れたのは、ついに私を育てることさえ投げ出すのか、と思ったから。
母親らしいことなど一つもしないまま、仕事だと言い訳して子育てから手を引いて、そのくせ何も知らない紫苑の事を何もかも理解しているふりをして、母親面して、叱ってみたり、命令してみたりして、いつだって紫苑の心を知ろうとしなかった。
でもあの家族がなければ、サネと会うことがなかったのはその通りで、それだけは酷く悲しかった。あの家族がいなくなったからサネもいなくなったのだと、本気で思った。
でもだからって家族を生き返らせたい訳じゃない。
あの忌まわしい赤の記憶を消し去りたい訳じゃない。
本当は……
「本当は……」
目を開けると、明るい緑の色が視界を満たした。
土の匂いがする。
耳には葉のさざめく音と、鳥の優しい鳴き声。
「……は!?」
紫苑はそのあり得ない状況に飛び起きて、そうして唖然とした。
彼女は今、花畑にいる。
ぐるりと緑の濃い木々に囲まれていて、ここが森の中なのだとすぐに分かった。
ぽっかりと丸く切り取られた空からは柔らかい日の光が降り注ぎ、そこだけ太陽の恩恵を受けた大地を絨毯のように小さな草花が覆っている。
紫苑はその上に倒れていたのだ。
飛び起きたときに舞い散った花びらが髪にも着物にも付いている。
「……ここ……」
紫苑はここを知っている。
いつか、夢の中で見た。
そうしてその予感は、彼女が首を巡らせ、右の方を向いたときに確信へと変わった。
(石の……廟)
右側だけ森は続いておらず、まるで紫苑のいる場所が地震か何かで大地がずれたように低くなっていて、そこには崖の上から伸びた木の根に飲み込まれた石の廟があった。
夢の中では殆ど崩れていたにも関わらず、扉だけはぴったりと閉じていた廟。
今も崩れかけているのは何も変わらない。けれど今は、その扉がほんの少しだけ開いていた。
人一人が通れるくらいの隙間から、その闇の色を覗かせていた。
(入れってこと?)
そもそも、何故ここにいる。夢ではなかったと言うことだろうか。
狗に言われてずっと奥へと進んだつもりだったのに、突如意識が切れたのは何故だろう。
そんな事を考えながらも、紫苑は闇の中から聞こえる音に恐怖していた。
かきん…こきん…かきん…こきんと、静かに時を刻む音。
でも紫苑はその音が、あの中では何倍にも増幅されていることを知っている。
「……嫌だ」
行けるわけがない。この場所の夢が本当だったのなら、あの廟の中の夢だって本当に違いない。
あの中には、怖いものが眠ってる。
あの中は真っ暗だ。
一定の間隔で置かれた光の弱い蝋燭が真っ赤な絨毯を更に赤く染め、そうして窓のない両側面の壁、それに天井さえ埋め尽くした大小の時計が時を刻んでいる。
考えるだけでもぞわりと鳥肌が立った。
でもふと目に映った緑色に、はっと伏せかけていた顔を上げる。
背けるわけにはいかない。緑の瞳。それがあの闇の中に現れたからだ。
「……サネ?」
そう呼びやると、目の主はくすくすと笑って扉を押し開け、闇の中からするりと姿を現した。
クシャクシャの白髪交じりの髪を肩まで伸ばした中年の男だ。目が信じられないほど据わっていて、皺の浮いた顔には柔らかい笑みを浮かべているのに少し怖い。その瞳の色も闇から出てしまえば、サネの深い緑の色とは似ても似つかない、とても明るい緑の瞳。
紫苑はその緑色も知っていた。
「狗め、こんなところで放り出しおって……さぁ、紫苑、儂が誰か分かるか」
「……絆狸様?」
彼はただでさえ鋭い瞳を更に細めてその通り、と微笑んだ。
その目の色も、声も、確かに絆狸のもの。なのにこの姿はどうしたことなのだろうと、紫苑は彼のその姿をまじまじと上から下まで眺め回す。
若い頃はさぞかし女性に色目を遣われたであろう色男だ。若い頃もなにも、彼は元々巨大な狸なのだけれど。
焔翁の若い頃は狗によく似た優男だったけれど、彼の場合は関わるのは危険という匂いがぷんぷんする。危険も何も、彼はどうやったって狸なのだけれど。
「何故ここに?それに、何で人間に……」
「ここは精神世界なのでな、姿形はどうにでもなる。今回みたいに人の強い願いが時を歪めたときには、驚かせないよう人の姿の方が都合が良い。まぁ、姿は借りているだけだがの」
「……精神世界?」
「正確に言うなら、その入り口かの。さぁ、おいで」
紫苑はそう言って伸ばされた手を見た。
何故か、焔翁が伸ばした手が重なる。
「どこへ行くの?」
「沙代の世界に決まっておるだろう。お前の仕事だ。やって貰わねば困る。本来なら手を出さぬ所だが、お前はここへ来るのも初めてだろうし、何よりいつも祠に木の実を置いていってくれる少年の母親だとわかったのでな。お前を案内してやるぐらい良いだろうと思ったのだ」
「あぁレンが。そう言えば近くの山に祠があるって言ってたわ。その周りにはいつも薬草が生えてて、助かってるって。……まさか」
絆狸はクツクツと笑う。
「あの場所は私の別荘みたいなものでの。ほんの礼だ。あの子のために少しあの場所の時を弄くるなど造作もない」
「そんなことしていいの?」
「もとより儂の時間だ。どうしようと儂の勝手。それで世界が大戦に見舞われるわけでもなし。あの方は、それが時宮であれば大抵のことを見逃してくださる。我らはその権利を得る代わりに、あの方が納めきれぬほどの膨大な事象を流し、守っているのだから」
紫苑は未だ差し出されたままの彼の手に捕まって立ち上がり、ぱたぱたと着物に付いた草花を払った。
そうして絆狸の出てきた廟の闇を見て、複雑な表情で口を開いた。
「あそこへ……入らなくてはならないの」
「なんだ娘、闇が怖いか」
いいえ、と答えるも、紫苑は心の中でそうなのかも知れないと思った。
闇が怖いから、あんな夢を見たのだろうかと。
「あの中を通って、沙代さんの心の中に入るのね」
「なんだ、分かっておるではないか」
「うん……でも絆狸様、きっとあの時間を直してしまったら、レンのお母さんは死んでしまうわ」
「かもしれんの」
「私、それが嫌。私にはこうするしかないって分かってるのに、頭の中ではどうにかならないかと考えてる」
そう言いながらも紫苑は廟に近づいて、そっと闇の中を覗き込んだ。
そこには夢と同じ光景が広がっている。
赤い絨毯。かろうじて見える程度の距離で点された蝋燭。壁と天井一面の時計。それらが生み出す、時を刻む大きな音。
「迷うな。迷えばお前が触れた時も同様に迷う」
「狗にもそう言われた。でも、人の命が掛かってる。……絆狸様ならどうするの?」
そうさな、と彼は着流した着物の袖に片手を入れて、もう片方の手で顎を触った。
「儂は、生きている者の事を考える。そうして、迷いを払う」
「やっぱり迷うの?」
「勿論だとも。けれどどうしてもやらねばならない事というものはある。だからそう言うときは、自分の中で納得出来る理屈を考えるのだ。儂にとってその理屈は、生きて、残される者の事」
紫苑はそうか、と息をついた。けれど紫苑は、時を狂わせたままで何が起こるのかなど分からない。だから残された者の事を考えたところで、やはり迷いは消えない。
紫苑は少なくとも、父や母が死んでしまって悲しかった。
正確に言えば、彼らの死によって引き起こされることが、悲しくて堪らなかった。
レンだってあんな強気なことを言っていたけれど、優しい母が死んでしまうのは嫌に決まっている。生きられるのなら生かしてやりたいに決まっている。
それで依然複雑な表情を浮かべている紫苑を見て、絆狸は彼女に近寄り、その髪に付いた花びらを払ってやった。
「なに。迷うことは悪ではない。むしろ迷わぬ事こそ悪だろうよ。それが植物であれ、動物であれ、命は重い。ここでの時間の流れはお前の心のさじ加減だ。まずは沙代に会って、それからよくよく考えるが良い」
はい、と答えると、絆狸は自身の人型に比べれば随分と小さな紫苑の頭を軽く叩いて、彼女よりも先に闇の中へと足を踏み入れた。
紫苑は叩かれた頭に手をやって、それから背後に広がる美しい花畑を見る。
静かな場所。穏やかな場所。優しい場所。
この闇へと入る前の待合室。
紫苑はふいとその光景に背を向けて、明るい世界とは真逆の場所へ飛び込んだ。




