金風ノ拾壱―潜―
どくん……と鼓動のように闇が押し寄せる。
それは歪みだ。正しく並んだ時の系列が波紋のように波打って、そのたびに外との時間が更にずれていくのが分かる。
もの凄く気持ち悪くて、吐きそうだった。
「姉ちゃん、大丈夫か?顔が真っ青だぞ?」
「大丈夫。もうすぐそこだし」
「でもなんで急に……」
「元々具合はそんなに良くなかったわ。旅に疲れたのかしらね」
嘘は言ってない。外からこの秋の時間に来たときから、どうにも頭の中がモヤモヤしてすっきりしなかった。今はそれが悪化して気持ち悪くなったという感じ。それでも歩けないと言うことはないし、寝込むほどの事もない。
「まぁ、ちょっと休めば治るでしょ。それより、狗が心配だわ」
「兄ちゃんからしたら姉ちゃんの方が心配だと思うよ」
「余計なこと言わなくていいのよ」
そんなやり取りをしながら、たどり着いた家の扉を開け放つ。
そして目の前の光景を見るなり、紫苑もレンも「はぁ!?」と声を合わせて驚愕した。
「狗!?」
まるで粘土をこねて出来たような人影が、自分よりもずっと体格のいい狗を組み敷いている。紫苑はその人影は蟲が何匹も集って出来たものだと分かっていたが、それが髪の長い女性で、その目が黒目どころか白目まで穴が空いたように虚ろな黒色をしていることなど見えるはずもなかった。
狗はのどを絞めようと伸ばされた手を剣の鞘でもって押しとどめていたが、彼の額の汗の量といい、苦しい顔といい、長くは持ちそうにない。
二人から少し離れた場所で、ミツが恐怖の表情を浮かべていた。
「母様!なにしてんだよ!」
「来るなっ!」
そう言って飛び出したレンは、しかし狗の厳しい叱責でたたらを踏んだ。狗の意識がそれた所為で、彼の首と、光の塊が伸ばした手の距離が縮む。
「狗……」
「紫苑。気分はどうだ?」
「は?こんな時に何言ってるの」
「さぞかし気持ち悪いだろうな。なぜだか分かるだろう」
彼が言葉を発するたびに、彼の力が弱くなっている様に見えるのは気のせいだろうか。よく見れば彼の周りには幾つもの焦げた紙くずが落ちていて、それが彼の持っていた札であることは容易に想像が付いた。
「紫苑、そっとここへ来い」
「それは何」
「サネにはよくないもの……と聞いているかな」
「よくないもの……」
森に害を与えるもの。そしてそれは、時を破壊するもの。蟲が排除するもの。
紫苑はそれを思い出しながら、狗に言われたようにゆっくり、その光を放つ塊に近づいていることが分からないように、そっと近づいた。
「これ……なに」
彼の耳元で、囁くように問いかける。近くにいるのだから、首を絞めようとするこの忌々しい腕を払いのけられたらと思うのに、それをすると今の状況が悪化しそうな気がして出来なかった。
しかしそれで正しかったのだろう。狗も声を殺して、まだ触れるなよ、と注意を促す。
「物怪だ。この人の感情に漬け込んで取り憑いたんだろう。今この世界は、彼女の望むような時間に作り替えられている」
「人って……これ、沙代さん?」
「そうだよ。見事なまでに蟲まみれで、キミには彼女の姿なんてちっとも見えないだろうな。僕にはもうだいぶ彼女の姿が見えているのだけど」
綺麗な人?と聞きかけて、口を閉ざした。今聞くべき事じゃない。
「札では駄目だったのでしょう?私、何をすればいい?」
「物怪を払うには彼女の心を変えなければならない。今の状況を見れば、彼女が旦那の帰りを願って時を早めたことは明白だ。そして自身の死を悟って、時を繰り返すよう願い、しかしその家族が回帰をしていないところを見れば、彼らが変化を続けることも願ったのだろう」
「直崇さんを呼んでくればいい?」
「いや。多分彼女には今、何も見えていないはずだ。彼女自身はずっと回帰を続けていた。僕がこの部屋に入ったとき、彼女は隣に誰もいないにも関わらず、ずっとあの少年の身を案じていたよ。病が治るだろうかと」
「……レンが、五年前のこの時期に熱を出したのだと言っていた」
「それだろうな。彼女は五年前の時を繰り返している。彼女の目には、自身の子供が熱に苦しむ姿が映っているのだろう」
「でも……じゃあなんで狗を殺そうとしてるのよ」
「物怪が自身に危害を加えるものを排除しようとしてるだけだ。いいか、僕はもう疲れた。そう長くは持たないし、少しでも沈めようと張った札は見ての通り全く効かない」
そんなの見れば分かる。結論だけ言って欲しくて紫苑は言葉を遮ろうとしたが、逆に時間がかかってしまいそうな気がして慌てて口を閉じた。
「今から彼女にまとわりついている蟲を一度引きはがす。剥がれたら、すぐに彼女に触れて、ここに入ってきた時のように時を読め」
「そこで、また構造を直せばいいの?」
「いや、中に入って、彼女の意識を見つけて、説得してくるんだ」
「は?待って、意味が」
「行けば分かる。直すのではなく、入るんだ。ずっと奥へ進むだけでいい」
「でも」
「言っただろう。時を作るものは、意思だ。強い意志が物怪によって氾濫しているなんだよ。彼女を説得できれば物怪は剥がれる。剥がれれば、僕が斬ることが出来る」
でも、と紫苑は食い下がる。そんなことを一人でしろというのだろうか。どうやればいいのかも、彼女を説得できるかも分からない。狗は導いてくれないのだろうか。
「悪いけど、僕はいけない。姫様から力を与えられたキミしか、他者の意識の深層へは入れない。分かったら行くぞ」
「待ってよ!」
しかし言うが早いか彼は鞘ごと伸ばされた手を横へ流すと、彼女が体勢を立て直すより早く懐から紫苑の見たことのない札を出してその頭のあたりに張り、何事かを叫んだ。
それと同時に蟲が一気に剥がれ、紫苑は狂気に満ちた表情の女性を目の当たりにする。
「紫苑!」
その痩けた頬、目があるべき所に広がる闇、骨の浮いた腕、その全てが骸骨のようだ。あんな肉の付いていない腕で、どうやって狗を押し倒すほどの力があったのだろう。
怖いと思った。蟲が取れたことで気持ち悪さに拍車がかかり、あまりの吐き気に口を押さえる。頭痛と、腹痛と、めまいとが同時に押し寄せて、気を失いそうだった。
倒れそうになる紫苑の身体を、やっと解放された狗がとっさに支えた。
「蟲が戻る、急げ」
「気持ち悪い。吐く」
「分かってる。戻ったらいくらでも看病してやる。行け」
ぐりんと首だけが動いて虚ろな闇が紫苑を見つけた。狗よりも倒すべき優先順位の高いものを見つけ、その骨の浮いた腕がすぐさま排除するために紫苑の首へと伸ばされる。その手が届く前に狗は紫苑の身体を引きずるようにしてその場一歩横にずれ、勢いを付けすぎて倒れ込んだ沙代の背に、紫苑の手を無理矢理触れさせた。
「紫苑。説得は、キミならきっと簡単にできるよ」
「……やるわよ」
ふらふらと沙代の身体が二人の方を振り返る。その前に紫苑は目を閉じ、この繰り返す秋の世界を読んだ時のように、しかし全く出鱈目にならんだ柱のようなものを見た。
「こんな放り出され方するとは思わなかったわ」
「ごめん」
その会話を最後に、紫苑は身体から意識を離した。
意識を失った紫苑の身体がずしりと狗の腕に落ちる。それと同じように、立ち上がろうとしていた沙代の身体も力を失って頽れた。
剥がされた蟲たちが一斉に固まって、天井を一度旋回してから沙代の身体を再び包み込む。
そうして、静寂が訪れた。




