壱-来訪-
「紫苑!今日は棚卸しの手伝いをしなさいって言って……?」
文句を言いながら出迎えに来た母は、紫苑の姿を見るなり絶句した。面白いほど顔が青くなって、何度か白目になりかける。
「ただいま、母様」
玄関先で足の裏をはたく彼女は姿は、母にとってはこの世のものとは思えないほど汚らしかった。
着物は泥だらけで、元の鮮やかな紅色なんてこれっぽっちも見えやしないし、何よりも本来足にはまっているべき下駄は切れた鼻緒をつままれて、右手の先にぶら下がっていることが驚異的だ。当然彼女の足は洗ったって座敷に上げたくないほどドロドロだし、それをせっかく綺麗に掃除したばかりの玄関先で払っている様があり得ない。
「棚卸しなんて、私がいなくてもお店の人がいくらでもいるんだから、大丈夫でしょ」
落ちないなぁとか言いながら、その汚い着物で玄関先に座り込んで乾いた土を爪で削り落とし始める。あまりのことに母はやっと我に返って、紫苑!と声を荒げた!
「あなたその着物いくらしたと思っているんですか!?それにその下駄!持って帰ってくればいいってもんじゃないですからね!そんな汚い格好でそこに座らないでちょうだいっ!」
「はいはい」
「返事はいいから外で洗ってらっしゃい!」
返事はいいのか、いつも返事しないと怒るくせに。と紫苑はあきれたような視線で母を見て、大きなため息をついてから玄関から出て行った。庭師が手入れした豪奢な庭園を回り込んで、池の側にある井戸で足を洗い流す。右足だけはサネに手当てしてもらった場所を濡らさないようにして、井戸から引き上げた桶にそのまま足を突っ込んで、爪の中まで綺麗に濯ぐ。
着物もとりあえずその場で脱いで、新しい水をくんだ桶の中に放り込んで、雑に擦り合わせて泥を落とし、力の限りそれを絞る。やっと露わになった華の刺繍も今度はひしゃげてしまった。それでも紫苑は綺麗になったじゃない、なんてつぶやいてそれを腕に引っかけて、汚れた水を近くの植物に向かって撒き散らす。
そこで彼女はやっと、いつもなら使われていない客間に明かりが灯っていることに気がついた。この見事な庭園に面した縁側の向こうの部屋で、影絵のように人が動いている。
紫苑は無意識にそちらへ向かって、音を立てないように縁側に腰掛けた。一人は紫苑の父。もう一人の客人は、歳のいった男性のようだ。浮かび上がる影も父のものに比べて随分と小さく、時折上がる手は小枝のように細い。
「……いえば……」
「……い……」
よく聞こえない。紫苑はそっと障子に近づいて、耳を欹てる。
「きっと娘が帰ってきたのでしょう」
「あぁ、もう大きくなったでしょう」
「今年で十七になりましたがね、中身は幼子のままですよ。未だふらりと出かけては、こんな時間に帰ってくる。一体どこに行っているのやら……」
「ははは。幼子ならば一人で親元から離れたりするまい。成長している証でしょうよ」
「とんでもない。あの放浪癖は十歳の頃からですよ。まぁ、それでも最初の頃は何かあればすぐに家に帰ってきていましたが。綺麗な花が咲いていたとか、ウサギが跳ねていたとかその程度のことを知らせに戻ってくるんです。それがぱったりと無くなったのは、五年前でしたかね」
「何が彼女の心を惹いたのでしょうねぇ」
父は茶をすすって、深く息を吐いた。
「……わたくしどもには子が一人しかおりませんから、いつかはあの子にこの家を任せるつもりでおります。あの子もそうなるのはわかっているのでしょうが、まるでそれを知らないと言わんばかりに無関心だ」
「焦るものではありませんよ。今は目を背けていても、いつか親の知らぬところ大きくなり戻ってくるのが子というものです。信じて待ってあげるのが親の仕事でしょうよ」
「ならば焦っているわたしは親失格なのでしょうか」
父は思い出したように言った。紫苑は少しだけ、胸がどきりとする。それほど父の声は思い詰めたようで、それでいながらここにいないはずの紫苑を責めるようにも聞こえた。そうであったはずはないのに、こうなったのはお前のせいだと怒られたような気がする。
老爺は落ち着き払った声でそうではあるまいよ、と取りなしたが、影の父はゆるゆると頭を振った。
「わたしはあの子を自由に育てたいと思っておりました。この村はこんな場所にありますし、あの子が外を知る機会もあまりに少ない。母上もあの子が外に出る事だけは許しませんでしたしね。だから何が起こったとしてもいつかはこの店に戻ってくるだろうと思っていたのです。それなら幼いうちは自由に遊ばせてやろうとしていたのです」
「その考えは酷く正しいように思えるが」
「いいえ。わたしは、自由と放任とを間違えていたのでしょう。どれほど記憶を探しても、あの子と遊んでやった記憶など無いのですよ。妻も同じでしょう。あの子は生まれたときから、わたしの母が育てたのですから」
紫苑の祖母は、六年前に死んだ。紫苑がやたらと外に行くようになったのも、確か祖母が病床に着いた年だ。あの頃から紫苑は妙にやることが無くなって、家の外へと足を運ぶようになり、やがては森へと入るようになったのだ。村は小さく、子供は紫苑と同じ年の子などいやしないし、大人たちは優しいが、遊び相手には到底ならない。
「わたしは仕事ばかりでしたよ。こんな場所の商家ですから、気を抜けばすぐにどこかで皺寄せが来る。それを言い訳にして、あの子と触れあうことから逃げていたのです。いっそ全て放り出して畑でも耕せば、貧しくとも他の村の子のように育ってくれただろうに。わたしはこの家を守ることに固執して、そのことにすら眼を背けたように思う」
紫苑はそれ以上聞いていたくなくて、そっとその場を離れた。
無性に腹が立つ。何故かはわからないけれど胸がむかむかする。頭の中では、その怒りを正当化しようと必死に理屈を探してる。自分の部屋に着いて、一番手近な場所にあったものを、それが何か確かめもせずに壁に叩きつけた。
「好き勝手言って!」
叩きつけられたのは手に持っていた着物だった。汚され、雑に洗われて、くしゃくしゃになった着物。母にいくらしたと思っているのと責め立てられた、あの着物だ。母はお金のことばかり。子供の頃からそうだった。
「はっ……」
思わず笑ってしまう。わたしが構ってやらなかったから?誰がそんなことを言った。勝手に決めつけるな。私は父様や母様が構ってくれないから森へ行ったわけじゃない。そんなことにも気づいてもらえないなんて。
幼い頃から一生懸命家のことを考えていた私が馬鹿みたいじゃないか。
幼いながら父と母を気遣って、仕事の邪魔にならないようにと家を離れた私が、まるで何も知らない愚か者みたいじゃないか。今になってもそれが伝わらないなんて、道化師でもここまで笑わせてはくれないだろう。
(どうせ哀れな子だと思い込んで、子供想いな親だと勘違いしたいだけでしょう?)
紫苑が森へ行ったのは、初めてその衝撃を受けた時のことだ。初めて父が哀れな子を見るように私を見て、何故そんな年になっても家を留守にするんだろうねと悲しげな声で紫苑にそう告げた。そんな年と言っても紫苑は十二歳で、まだまだ遊びたい盛りだった。
最初は紫苑だって仕事を手伝おうとしたけれど、幼い子が出来る仕事なんてありはしない。やったところで、大人が瞬時に出来るようなことを、時間をかけてするだけだ。だから幼いながらに考えて、親や他の者たちの邪魔をせぬようにすることが私の仕事なのだとして、病床に着いた祖母のことも考えて、家の外へ一人で遊びに行くようになった。
仕事が出来るようになったと思ったのなら、呼び戻してくれればよかっただけなのだ。
お前にもこの仕事ならもう出来そうだから任せるよといって、仕事を与えてくれればやっただろうに。それをあんな眼見るから。あんな事を言うから。全てが厭になってしまった。
両親に言えば、そんな屁理屈をと言ってまた怒ることだろう。そうなら何故今も仕事を手伝わないのだと言って、責めるだろう。それに紫苑は答えられない。だからこれは本当にただの屁理屈なのかもしれない。けれど紫苑にはそれ以外、この怒りをちゃんと理解することが出来なかった。
だから私は怒っているのだと言うことをなんとか伝えたくて、家出するつもりで夜に森へと入った。
(夜の森は美しく……とても優しかったもの)
すぐにサネに見つかったけれど、彼女は追い帰したりしなかった。優しく話しを聞いてくれて、一日だけ泊めてくれた。次の日には、また家出したくなったらここへおいでなんていって、笑顔で山の麓まで送ってくれた。
帰る頃にはすっきりしていて、家出していたことなんて忘れていたけれど。
(また森に行こうか。さっき帰ってきたばかりだけれど)
あの森は信じられないほど居心地が良い。自分の家以上に落ち着ける場所。
あそこがあんなに落ち着くのは、きっとサネがいるからだ。サネがちゃんと、私の話を聞いてくれるからだ。子供扱いしないからだ。子供だと思って、無知だと思い込んでいないからだ。
紫苑は落ちた着物を足でどけて、机の向こうにある襖を開け、その先の縁側へ向かった。
そこで膝を抱えてうずくまる。汚れたのは着物だけだったのに、長襦袢にまで土の香りがついていた。太陽を失った空には悠然と月が輝いて、蝋燭の灯らない紫苑の部屋を青く照らす。近くでコオロギが鳴いていた。
遠くでは母が大声で何かを話している声が聞こえる。
数人の使用人が返事をする声に、食器同士がぶつかり合う音。水を流す音に紛れて、時折笑い声が聞こえる。家の夜は、酷く孤独になった気がした。
(私なんかいなくても世は変わらないんだなぁ、みたいな)
私のものである生活を、第三者として遠くから見ているような気がする。
体から魂が少しだけ離れて、私の肩越しに何も出来ないまま世界を見ているような。
(くだらない)
ただ拗ねているだけだ。他人に好き勝手言う父親にただ腹が立っただけ。それだけ。
夏特有の湿った温い風が力なく体を通り過ぎていくと、そのたびに体の温度が下がっていて、そのたびに頭の中も整理されていく。そこまで来てやっと、紫苑は父の話し相手が一体誰だったのかを考えた。
とても穏やかな声だった。何かを悟りきった声音。誰かに似ていると思ったけれど、あれはサネの話し方に似てるんだ。人を諭すようにゆったりとしていて、相手の気を静めていく。決して俗世の意見になど惑わされないような、全てを知っている者の話し方。
あの人は、明日もまだいるだろうか。話すことが出来るだろうか。少しだけ話しをしてみたい。色んな事を聞いてみたい。色んな事を教えて欲しい。サネのように教えてくれるだろうか。サネのように話しを聞いてくれるだろうか。
「お嬢さん」
部屋の外。廊下から、若い青年がそう呼んだ。若いと言っても、紫苑よりも三つ年上だ。彼は二年前から春宮家に詰めている。出身はこの村よりもずっと海沿いにある漁師町だと聞いたことがある。
「お風呂の支度が調ってます。先に入るようにと奥さんから言付かってきました」
手首に着いた鈴を、りんと鳴らす。それを聞いて青年は立ち去った。
紫苑はしばらく膝を抱えてそうしていたけれど、遠くで食器が割れる音とともに叫び声が聞こえたのを契機にして立ち上がり、ふとサネの住む山を見た。
殆どの山は蟲の放つ光で淡く輝いているけれど、サネの住む山は一際その光が強い。
あの光は、大人には見えないのだという。大人になると見えなくなるのだという。
そこに住む蟲の姿も、彼らの放つ明るい光も見えない森は、ただの暗い夜の森。あの幻想的な世界が見られなくなると言うだけで、大人になるのが憚られた。
(でも、サネは見えている)
紫苑は部屋を出て、風呂場に向かう道すがらサネのことを思い描いた。
サネは大人だ。紫苑の両親以上に大人だと思う。なのに彼女が蟲を見ることが出来るのは何故だろう?あの世界を失ってしまう原因は、年齢を経ることや、精神的なものではないように思える。
あの緑色の瞳。
黒よりもずっと浅い色のはずなのに、紫苑の瞳よりも遙かに深い色をした碧。彼女は何故あんな眼をしているのだろう。もしあの瞳が蟲の姿を失わせない要因なのだとしたら、それは何故?蟲が見える必要が、彼女にはあるから?
わからないことばかりだ。
本当に自分は何も知らないなとあきれつつ、紫苑は襦袢を脱ぎ捨て、肌着ごと湯の中に飛び込んだ。傷がずきりと痛み、外れた布が巻いてあった葉とともに浮かびあがる。少しだけ薬草の匂いが香ってきたが、それはすぐに消えてしまった。
「紫苑。入っているの?」
風呂場はただでさえよく響くのに、さらに声量を上げた母の声が紫苑の思考を一気に打ち砕いた。
「……えぇ、母様」
「今日は客人が来ているから、広間で夕餉にします。綺麗な格好でいらっしゃいね。間違っても寝間着なんかで来るんじゃありませんよ」
湯の中に顔の半分を沈めて、ぶくぶくと息を吐いた。
客人と話しはしたいけれど、それはあくまでも親や他の人がいないところでだ。夕餉なんて場所で落ち着いて話しが出来るわけがない。
(私が口を開けば、すぐに横やりを入れるんだから)
「紫苑!返事なさい!」
「……はぁい」
浮いている葉をつまんで、くるくると回す。
「精々綺麗にしていきますとも」




