金風ノ玖―憑―
溢れ出した蟲たちが竜のごとく空へと上がっていく。狗には見慣れた光景ではあったが、それでもその勢いは凄まじく、目を細めて蟲に飲まれる覚悟をした。襖を開けた老婆の姿はすでに見えず、雪崩のように迫った蟲に一歩足を引いて、その嵐のごとく吹きすさんだ風に耐えた。
一度一気に蟲が出てしまえば、その風はすぐに収まって視界が元に戻る。襖を開け、突然の風に驚いた顔の老婆が、妙な風が吹きますねぇと暢気に言って狗に中へ進むよう促した。何も見えないことは幸せなことだと、狗は軽く笑む。この蟲が狗よりも更によく見えるであろう紫苑は、もう狗の目には届かない場所へと行ってしまった。
「お義母様、レンは大丈夫かしら」
そんな声が聞こえて、狗は膝を突いて座敷に上がり薄暗い部屋を覗く。そこには布団が敷いてあったけれど、そこにいる人にはその姿が全く見えない。直崇にまとわりついた蟲など物の数にも入らないほど多くの蟲がまとわりついて、まるで子供が粘土で作った人型のようになっている。
ただその合間から漏れ出す声は、弱く、細く、今にも泣き出しそうな声だった。
「はぁ?どこまで行ったことがあるかぁ?なんでそんな事聞くんだよ」
「レン!ちゃんとお答えしないか!」
「うるせぇ!」
紫苑はまた口げんかを始める親子を見て、腰に手を当て、呆れたとため息を漏らした。
「レンって言ったかしら。あなた、本当にお父さんが何の事情も無しに帰ってこなかったと思っているの?」
そう言うと、少年は紫苑を睨め付ける。
「あのな姉ちゃん。俺は優先順位の話をしてんだよ。確かに俺たちが喰ってくためにはこいつが出稼ぎに出なくちゃいけなかったんだろうけど、何より母様はこいつに側にいて欲しかったんだ。そりゃ俺たちの家は裕福じゃねぇけど、それでも俺とこいつ一人一食ぐらい我慢すれば一年ぐらい全然やっていけたんだ」
「一年?でも、今は五年たったのでしょ?」
「はぁ?ねぇちゃんひょっとしてなんか誤魔化そうとしてる?」
「え?」
「確かに五年経ったよ。俺たちは五年、ここでこいつの帰りを待ってた。でも俺は気付いてるよ。婆ちゃんは信じたくねぇみたいだけど」
少年は小さい身体で偉そうに腕を組んで、不満げに口を尖らせて視線を逸らした。
「最初は気付かなかったけど、でもここがなんか変なのは三年目になって気がついた。それで母様が壊れちゃった理由も何となく想像できたよ」
「何に気付いたって言うの?」
「なんだよ、本当にその事じゃないのか?んじゃいいよ」
「なにがいいのよ。全然よくないし。早く言いなさいよ」
「でも姉ちゃん、こいつには話してないんだろ?」
こいつ、と顎で示されて直崇は憮然と腕を組んでため息を漏らした。その姿がまったく同じで、間違いなく親子なのだと笑ってしまいそうになる。
「んじゃあさ、姉ちゃんだけに話してやるよ。そしたらお前も俺の質問に答えろよ」
「まぁ、答えられそうな所だけね」
「紫苑さん」
子供同士で話がまとまりかけたのを見て、直崇は慌てて紫苑の肩を掴んだ。
「出来るなら私も説明して頂けないでしょうか。自分家族のことなのに、蚊帳の外なのは我慢がなりません」
「勝手に蚊帳の外に出たのはお前だむ……」
また口喧嘩が始まりそうだったので、紫苑は自分の胸元ほどしか身長のない少年の顔を掴んで黙らせた。にっこりと狗のまねをして笑ってみせる。
「私今回が初めてなので、上手く説明できるか分からないんです。とりあえずレンからいろいろ聞かなくちゃいけないので、それを聞いて、今何が起こっているのかしっかり把握できたら、狗と一緒にしっかり説明します」
直崇はそう言われて肩を落とした。
「……分かりました」
「あぁそれと、狗から今は奥さん……沙代さん?には会わないようにと」
「それは何故?」
「さぁ。でもなんとなく、会わない方がよいだろうと。狗の勘みたいなので特に理由はありませんが、彼は兎に角経験を多く積んでいるので、従った方がよいかも知れません」
「では私はどうすれば」
「そうですね……」
紫苑は少しだけ考えた。確かに家にも戻ってはならぬ、レンと紫苑に同行してもならぬでは、彼は折角帰ってきたのに行き場所が無いだろう。
「直崇さんは、ここのことに当然詳しいのですよね?」
「それは、当然」
「では、直崇さんがここを出る以前と比べて変なところがないか探しておいて下さいませんか?何でもいいんです。近所の人の様子とか、畑の様子、山の様子。何か変わったことがあったら、詳しく教えて下さい。いつもここにいるレンには気付かないこともあるかも知れませんし。あぁ、変な事って言っても、毎年の秋と比べて……ということで。季節が少し、おかしいようですから」
「分かりました」
「それじゃあ、行こうレン」
「おう」
何でか息の合う二人を見送って、直崇はどこか釈然としない気分で青い空と、頭を垂れた美しい金の田を振り返った。
自身の家族や、家が守れなかったのが悔しい。それに関わることすら出来ないのが歯がゆい。なにより一ヶ月留守にしている間に、自身の故郷だった場所が、居場所のない全く別の国になってしまったことが一番悲しく辛かった。
その頃狗はしきりに何事かを心配げに言う光に包まれた沙代を無視して、敷かれた布団の四方に底の浅い皿を置き、その上に懐から出した袋に入っていた砂のような物を盛って、その天辺に火を付けた。白い煙と、薬草の不思議な香りが部屋に満ちると、人に付いた蟲たちがふわりと離れて部屋の中に均等に散った。
そこから現れたのは痩せ細った女性。つぎはぎの白っぽい寝間着を羽織り、病の所為か少ししんなりとした黒い髪がその背から流れ布団の上に広がる。かつては美しかったであろうその顔は、今は頬が痩け、恐らく今の年齢よりも十も二十も年を取って見えた。
光のない目は虚ろに狗の方を向くが、恐らく彼を見てはいないだろう。そう思って狗は札を出し、彼女の時がどうなっているのかを探ろうとしたのだけれど、彼女に触れようとしたその瞬間、札を持った手を掴まれた。さすがに驚いた狗は慌てて手を引くが、掴まれた手は離れずに、圧倒的な力で引きずられて女性の身体は床の上に倒れた。
「沙代!?」
ミツも悲鳴に似た声を上げ、倒れた沙代の身体を起こそうと駆け寄るが、いつの間にか表情の消え失せた沙代の顔を見て思わず足を止める。真っ青な顔が気味悪く、この細い身体のどこにこんな力があったのか、狗の手首が赤くなるほどの力で握られる。
「ミ……るナ……」
「はっ……少しそうじゃないかと思ってたよ」
おろおろとするミツをよそに、力を込めて抗いながら狗は皮肉に笑む。骨がギシギシと悲鳴を上げて、凄まじい痛みが走った。
「これは僕の手には負えない。通りで色々混じっているはずだ。面倒だなぁ」
「狗さん、あの、沙代は……」
狂気の目の奥に闇が見える。それを冷たく見やってから、困惑するミツに暖かい笑顔大丈夫ですよと答えた。
「弱った心につけ込んで、良くない物に取り憑かれたようだ」
腕がミシリと嫌な音を立てる。狗はその音と共に訪れた激痛に顔を歪めながら、もう一方の手に握られた札を彼女の額に叩きつけた。




