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時宮  作者: 鷹凪 悠
金風ノ章
18/26

金風ノ捌―想―


それは五年前の夏のこと。直崇が薬代を作りに行ってくると、今年出来る予定の米を買い取って貰うために旅に出た、その三日後のことだった。


彼の妻、沙代は、その更に一昨年前から病に伏せっていて田にも出られない状況だった。多くは一間しかない家の中で横になっているが、体調の比較的良い日は縁側に出て、自身の子供と義母の手伝いをしたり、ただぼうっと空を眺めたりしているのだという。


しかし不治と医者に言われたその病は、急激に死に繋がることはなかったが、薬代は莫迦にならず、直崇はその頃から頻繁に家を空けるようになったのだとか。


そうして、直崇の帰らぬ時が始まった。


最初の秋、直崇が帰らなくなってから家の空気が異様なほど暗く重い物になったころから、沙代の病状は少しずつ悪くなっていった。


頻繁に頭痛を訴え、吐き、胸を押さえて痛いと苦しむのだという。その発作はしばらくすれば治まるが、その苦しんでいる間中、ずっと直崇の名を呼んで涙を流すという。そうして治まっている間も、ふと空を見上げては、あの人はどうしているかしら、と言うのだそうだ。


しかしそんな想いは届かず、直崇が帰らなくなってから初めての春の終わり。直崇が旅立った日の三日前に、沙代は危篤に陥った。その日朝からずっと苦しんでいた御代の意識はその日の夕方には消え失せ、しかも直崇が帰らぬ所為で金すらない家に医者すら来ないまま、その日の夜に、彼女はそのまま眠るように息を引き取ったという。


そして直崇の母、ミツは泣きじゃくる孫の身体を抱きながら、我が子を心底呪ったという。嫁も子もほったらかしにするような、そんな子では無かったのにと、彼を育てた自身さえ恨んだのだと。そう思う一方で、立派な葬式をしてやらねば、と次の事を考えた矢先、それは起こった。


沙代が息を引き取った次の日の早朝、近所の者に手伝いを頼もうと玄関先に立ったところで、死んだはずの沙代がむくりと身体を起こしたのだという。そして何食わぬ顔でミツの顔を見、「あら、義母さま、もうお出かけになるのですか?」と、そう尋ねたのだそうだ。


その時は子も、ミツも、神様が奇跡を起こして下さったのだと天に感謝した。


けれどその丁度一年後、沙代はまた生死の境を彷徨い、そうしてやはり同じようにして死んだ。さすがに今回でもう終わりだと思った。そうして今度こそ葬式の準備をと立つと、また同じように、むくりと身体を起こして「あら」と言うのだという。


そんな事が五年。繰り返された。


「さすがに気味が悪くなりまして。それにあの子はまるで、私や孫のレンが見えておらぬようなのです」


「ど、どういうことでしょうか」


そう訊いたのは狗でなく、紫苑だった。けれどこれは、狗につつかれての質問だ。ミツと三人で縁側に並んで、声を潜めて話している。ミツは目を軽く伏せてから、襖の向こうにいる、紫苑たちがまだ見ぬ嫁を気に掛けた。


「何しろ長い一年のことなので不確かな事で申し訳無いのですが、どうも、彼女はそちらの方がおっしゃるように、病が悪化し始めてから死ぬまでの間の時を繰り返し生きているようなのです」


「具体的に言っていただいても?」


「そうですね、例えばいつもは私が夕餉を作っておるのですが、お金も無いので大抵は同じ献立なのですけれど、時折何かの節にその食材さえ手に入らず別の料理を作ることもしばしばあるのです。それなのに」


(義母様、今日のこのお味噌汁も、とても良い味だわ。いつもの食材でも、こんなに毎日味が違うのね)


「そう、言うのです。それで、そういえば彼女は一年前にも同じようなことを言ったと」


そう言って、ミツは暗い顔で項垂れた。ちらりと狗を見てみれば、彼はなにやら考え込んでいる。直崇はレンという少年を追って、黄金の波の中に小さく見えた。


「もう五年も、近所の者たち以外この家を訪ねてこんのです。前は米を買うために、何人も人がこの家を訪ねて来て下さっていたのですが……。ひょっとして、何か異様なことが起こっているのでしょうか?」


そう訊かれて、紫苑は言葉に詰まった。答えて良いかどうか迷って狗を見るのだけれど、それに気付いている癖に、彼は視線を少しよこすだけだ。好きにしろって事だろうか。


「あの、えぇ。どうやらここの空間だけ外と切り取られているようで、誰も入れないみたいなんです。私たちはそれを直すために来たのですが、そのためには今のここの状況を詳しく知る必要があるので……」


「なら、是非嫁にお会い下さい。もし何か良くないもんが憑いておるとすりゃ、あの子に間違いありゃしません」


「僕らはもちろん会わせていただきます。けれど、直崇さんはまだ近づけさせないで下さい」


「狗……」


突然話し始めた狗は、言うなり立ち上がって腕を伸ばした。


「まぁ、大体何が起こっているのかは分かりました。その沙代さんって方が要なのは間違いが無いようですが、直崇さんが帰ってきたとはまだ絶対に知らせてはなりません」


「それは、何故」


「さぁ、何となくとしか今は言えませんが。経験上の勘とでもいいましょうか。兎に角、沙代さんのためを思うなら、まだ会わせない方がいい気がする」


「でも狗。会いたがっているのに」


「だからだよ」


そう言われて、紫苑は彼が言いたいことが何となく分かった。もし沙代がこの時を狂わせている根源ならば、その想いが時を歪ませている可能性があるのだ。


時は強い意志によって決められるもの。その想いが直崇に会いたいというものであるのなら、彼と会わせれば何が起こるか分からない。


「それと、沙代さんに会う前にもう一つ確認しておきたいのですが、直崇さんが出てからのその五年間で、一番遠くまで行った場所というのはどこでしょう?」


「私はここらをうろうろしているだけですが、レンがどうだったか……」


「というと?」


「薬を取りに、下手をすると二日は帰らんことがあります。最初は心配して辺りを探し回っていましたが、最近は帰ってくることが分かっているのでどこへ行ったかも聞きませんが、いつもどこからか母のためにと薬草を摘んできます」


「なるほど。じゃあ紫苑。探してきて」


「うん……えぇ!?私が!?」


「そうだよ。これも経験だし、直崇さんが向かう方に行けばきっといるよ。子供の足でそんな遠くへ行けるとは思えないし。僕は先に、沙代さんに会ってるよ。ちゃんと直崇さんにまだ会えない旨と、レンって子から詳しい場所を訊くんだよ」


「えー?沙代さんに会う方こそ私の役目じゃない?」


「だって紫苑に任せちゃったらうっかり直崇さんが帰ってること言っちゃいそうだし」


「失礼ね!そんなに口は軽くないわ」


そう?と彼は笑った。


「それに多分僕が聞いた方が色々早そうだし。というか、多分聞けないと思うんだよね」


そうだと思います、とミツが頷いた。


「私たちの話など、恐らく聞こえちゃおりません。逆に私たちがいないのに、一人で目の前に私たちがいるように楽しげに話しているときもある」


「そのようですね。と言うことだから、最後はどうせ紫苑が必要になると思うし」


「分かったわよ」


それでも不満げな顔をしながら、紫苑は立ち上がって直崇の元へ走っていった。畦道を小走り抜けて、風に揺れる稲の向こうへと行くと、まるで彼女は光の中で泳いでいるようだった。強い風が吹いて光を放つ者たちが空へと舞い上がると、それだけで一枚の絵のように見える。


紫苑もその美しさに、声を上げて空を見た。そうしてさっきまであんなに不満そうだったのに、もう狗の方に笑顔を向けて、見て、と空を指さす。それに手を振ってやると、彼は楽しそうにまた空を見やって、それからやっと再び走り出した。


狗は焔になってから何人もの時宮の面倒を見てきたが、彼女はその中でも特別幼い。特に年齢ではなく精神は、まるで十かそこらの少女のままだ。我が儘で、人に気を遣うことを知らなくて、それでも自分の思い通りにならないことを沢山呑み込んでいるように見える。


狗は彼女を護っていたサネという女性をよくは知らない。ただ師である、彼女が焔翁と呼ぶ、焔一族全員から慕われたあの古き焔から、彼女については良く聞かされていた。


聞けば聞くほど哀れなサネの人生。狗だって別に幸せな人生を歩んでいる訳ではないけれど、彼女の話を聞いてしまえば、自分は何故こんなにも恵まれているのだろうと不思議に感じた。


「子供のような方ですねぇ」


そう呟いたミツに、狗はすっかり腰に差したまま存在を忘れていた刀を外しながらそうですね、と答えた。


「あれほど無垢なまま育てるのは大変だったでしょう」


「ミツさんはよく見ていらっしゃる。あれを小生意気な女と見ずに無垢と呼ぶのは並大抵なことではないですよ」


「生意気というのとは、少し違うように思います。失礼かとも思いますが、レンと似ておる」


狗は笑みを浮かべて、そして狗の時で遙か昔に聞いた、師の苦言を思い出していた。


「あれが彼女を育て護った悲しき女性の、天に対するささやかな抵抗ですよ」


意味が分からず老婆は首を傾げたが、狗は何でもありません、と答えてやはり好青年の笑みを浮かべた。


「さて、それじゃあ会わせていただいてもよろしいでしょうか」


「どうぞ。見てやって下さい」


そういうと、ミツは襖の奥に向かって沙代、と声を掛け、しかし返答を待たずにそれを開けた。そこから、まるで鉄砲水のように溢れ出した蟲たちの数に、狗は思わず顔を顰めた。



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