金風ノ陸-波壁-
森の中は美しかった。シンとした空気に、緑色からこぼれる柔らかい白の光。冷たく湿った苔に集まる蝶達。時折出来た日だまりに咲き誇る花々。その日だまりの中で過ごす時間は、どんな極上の時よりも代え難く、そうして周囲に耳を澄ましている間は、あらゆる束縛から解放されたような気分になって、ふわりふわりとした意識がその大地に吸い込まれていくようだった。
でもここは、本当は待合室なのだ。太陽の注ぐ天から少し視線を下げれば、そこには蔓や木々の根に呑み込まれた古めかしい石造りの廟があって、殆ど崩れているくせに、しっかりと閉まったその扉の向こうには、あの恐ろしい暗い世界が広がっている。
でも今はどうでも良い。今はこの暖かな時間の中に浸っていればいい。何も考えず、この柔らかい草花の感触を楽しみながら、とろりとした甘い蜜を口に含んだような気分を味わえばいい。
ぱたりと倒れて身体の全てを冷たい大地に預ける。優しい葉が一枚、頬に優しく触れて、その冷たさが気持ちよかった。
今はこうしていればいい。そうすればきっと、この突くような頭の痛みも消えるだろう。
「……ん……?」
「紫苑?起きた?」
紫苑が眩しそうに目を開くのを見て、狗は呆れたように笑った。もう出発しなければならない刻限だというのに、狗の連れはちっとも目を醒まさないので、見送るつもりだった籐野も、とっくに準備を済ませた直崇も心配そうに彼女をのぞき込んでいた。
「頭がとっても痛いわ」
「あれだけの量で二日酔いとは恐れ入るよ。籐野さん、水を一杯お願いできますか」
「はいはい。目が覚めて良かった」
もそりと身体を起こすと、寝間着の着崩れを気遣って狗が上着を被せた。直崇は安堵したように微笑んで、店の方で待っていますと言って部屋を出ていく。紫苑は上着をかき合わせて、鐘が打ち鳴らされているような重い頭を膝に埋めた。
「大丈夫?」
「……私、どうやって布団に戻ったのかしら」
「僕が運んだんだよ。籐野さんに感謝するんだね。彼女が手水に起きてきてくれなかったら、キミは未だに縁側で寝ていただろうから」
「そう。ありがとう。でも狗が悪いのよ」
「それはもう後悔済みだよ。出られそうかい?」
「行くわよ。二日酔いで出発が遅れたなんて下らない。唯でさえ籐野さんにお世話になりっぱなしなのに、これ以上迷惑かけられないわよ」
「そうだね」
そう笑った時に、籐野が水を持って帰ってきた。それを一気に飲むといくらか頭がすっきりして、それが消えないうちにと狗を部屋から追い出し、慌てて出かける準備をした。食べ損ねた朝食は籐野が弁当にしてくれて、出る前には何度も何度も感謝した。
忘れられないのは、籐野の狗を見る瞳だ。助けられたという恩と、彼の見目麗しさにどうやら惹かれているようだ。だのに一緒にいる紫苑に嫉妬の目が向かないのは、紫苑がそんな対象になりえないほど幼く見えることなのだろう。
若干納得できない物を抱きつつ、まだまだ目新しい物ばかりの街を進む途中、街に狗よりも詳しい直崇が様々なことを教えてくれた。
「ここは都に近いので宮に出入りする行商人がいろいろな物を落としていってくれるんですよ。貴族の方も多くいらっしゃいますし、この道から少し離れればそれはもう立派なお屋敷がありますよ」
「へぇ。きっととても広いのでしょうね」
「それはもう。何しろ庭に船が浮かべられるほどの池があると申しますから」
「凄いわ」
そんな屋敷に住む人は一体どんな人なのだろう。薺姫のように優美な人なのだろうか。きっとサネのように優しくて、賢い人に違いない。
「狗は、そんな立派な人に会ったことがある?もちろん、私が知る人以外でね」
「会ったことがあるだけなら、数人いるよ」
声を出さずに、この時代の人じゃないけどね、と呟いた。
「いつか会わせてもらえる?」
「会いたいのならそのうちね」
嬉しそうに目を輝かせる紫苑を、直崇は微笑ましい表情で見下ろした。
「なんだかお二人を見ていると、師弟関係と言うよりご兄妹のようですね」
「似たようなものですよ」
そんな会話を紫苑は聞かないことにした。目の前を行く長身の男二人の背を追いながら辺りを見ると、だんだん店が閑散としてきて、同時に建物も減ってきた。代わりに家の周りには畑が目立つようになり、道行く人も少なく、田畑で土を耕す人が目立ち始める。
酒屋を出たのも遅かったせいか陽はあっという間に傾いて、明日の天気の良さを象徴するように空は真っ赤に染まっている。少ない雲の淵も赤い光を帯びて、金糸で刺繍された紅衣のようだ。柔らかいさわやかな風が紫苑の髪を翻弄し、彼女はそれを押さえるように髪を纏めた。
そうして、そう言えばと思い立つ。
時が凍結した世界とは一体どんな物なのだろうかと。
風は凍り付くのだろうか。川も固まるのだろうか。緑はさざめいたまま止まるのだろうか。この世界はきっと、絵のように永遠を手に入れるのだろう。
そしてその時を蟲が食べて、無に返す。そうして終わった時にはきっと、また新しい時宮が与えられて新しい時を築くのだろう。
この世界はきっと、そうやって時宮たちの手によって支えられてきたのだろう。
サネもきっと、そうやって時を築いていたのだろう。
サネよりも前に時代を支えた人の時に続くように、試行錯誤しながら。
「あぁ、見えてきました。あそこです」
そうやって直崇が指さした先には、広大な田が広がっていた。そして絆狸が言ったように、その真ん中にぽつんと藁葺き屋根が見える。けれどそこに人影は全く見えず、唯その稲穂が風にさざめき、波のように揺れていた。
まだ収穫には及ばない、緑色の稲穂たち。それは本当に緑色の海のようで、とても清々した光景だった。
「街に戻った場所はどこら辺でしょうか」
「家のある三つ手前の畦が交差したところです」
直崇が手を動かす度に、彼にまとわりついた蟲がふわりと飛び立って吸い込まれるように田の方へ飛んでいった。狗はそれを追うように歩き出して、直崇も紫苑も戸惑ったようにそれを追いかける。
広大な土地は歩く者の距離感を狂わせて、近くに見えるその場所にたどり着くのには結構な時間が掛かった。東からは闇が迫り、一番星が輝いている。今日はどこに泊まるのだろうと紫苑が余計なことを考えて空を見上げたところで、狗は足を止めてそっと何も無い場所へと手を伸ばした。
ゆっくりゆっくり手を伸ばし、伸ばしきる前にびくりと手を振るわせて引っ込める。何をしているのだろうと二人が揃って首を傾げたところで、狗は紫苑の名を呼んだ。
「こっちへ来て、そっと手を伸ばしていってごらん」
「何かあるの?」
「ここに境目がある。紫苑なら僕よりもはっきり分かるはずだ。手を入れてしまっては駄目だよ。戻されてしまうから」
一つ頷いて、紫苑も狗と同じようにゆっくりゆっくり手を伸ばした。きっと何かあるであろう感触を見逃さないように恐る恐る、結局最後まで腕を伸ばしきって、一歩踏み出したところでやっとそれに触れることが出来た。
「あった。水の表面を触ってるみたいだわ。するするしていて、波紋が立つのが分かる」
「それが境界だ。歪みがあるところには必ずその感覚を持った障壁がある。歪みが起こるのは何もキミが渡ったときだけではないから、これからも違和感があればすぐに身を引くことが重要だ」
「でもこんな微妙なの、いつも気を張ってないと分からないわ」
「今回は偶然起こったものではないからこんな場所に境界があるけれど、偶発的に起こった歪みの境目は大抵何かしら門になるような場所にある。何かに囲われた場所というのは空間が切り取られやすく、その所為で歪みの門になりやすい」
「へぇ」
「だからまぁ、そういった所をくぐり抜けるときには気をつけろって話だね」
「ふぅん。それで、どうやってこの壁を通るの?」
「僕らは普通札を使う」
そう言って、彼は自分の懐からいつか見た札を出した。札には何か文字と模様が描いてあるようなのだけれど、何が書いてあるのかは分からない。
「この札はその土地の時宮の力を一時的に引き出すもので、これさえあれば例え近くに主がいなくても修復に必要な術ぐらいは使える。ただ今回はキミがいるからこれはいらないだろうけれどね」
「でもこちらに来るときそれを使ったのは何故?私がいればいらないんじゃないの?」
「それは……」
狗はチラリと直崇がいるはずの背後を見た。彼は聞いても分からないと悟ったのか、それとも聞いてはならない事を悟ったのか、離れた場所で稲穂の出来を確認していた。
「時を渡るためには、作り上げられた時を一度壊して、渡った後もう一度その場所を作り直す行程を取っている。無理矢理綻びを作って、その穴を潜った後にもう一度縫い直している感じかな」
「術にその行程が入っているのなら、私たちが直す必要無いじゃない」
「それがあるんだよ。上手く説明できないかも知れないけれど、そうだな、空間というのはこうやって二枚の布が重ねてあると思って欲しい」
狗は顔の前に手を目線に対して水平にして上下に並べた。右手を上にして、少し間隔を開けてその下に左手を広げる。紫苑は頷いた。
「右手の上が、元々いた時の世界。左手の下がこれから行きたいと思っている世界だ」
「じゃあ、この間は?」
「何も無い。時もなく、よって世界もない。時がないから僕らは認識できないが、大君は大きな隧道のようなものだと言っていた。僕たちは時を渡るために、この右手の部分の布に綻びを作る。そしてその隧道に飛び込むわけだ。飛び込んだ後は術式に組み込まれた修復過程によってこの右手の布は再び縫い合わせられる」
紫苑はふんふんと頷いた。
「そして隧道に飛び込んだ僕たちは、その勢いでこの左手に該当する布を突き破るんだ」
「勢いで突き破るの?術でもう綻びが作ってあるんじゃなくて?」
「この術はね、元の世界に綻びを作って修復するまでの行程しか組み込まれていないんだ。そこからは勢いでもう一つの世界に穴を開けることになる。だから当然、それで広げられた穴は修復されない。だから時を構築した者以外が時を渡るときには、必ずこういった修復が必要になるんだよ」
「ふーん。それで?」
「つまり、札は僕だけでは操りきれないほどの力を扱わなければ綻びが作れないから使ったんだよ。力は液体のようなもので、その力が与えられる者には必ずその液体が入るだけの器も手渡される。知っているかい?時を多少操るだけの力なら、みんな誰しも持っているんだよ」
「そうなの?」
「もちろん僕もね。だから昨日、キミが激怒していたような事が起こせたんだ。ただ無から時を構築したり、時を渡るほどの力は持っていない。だから当然それだけの力を受け取る器も持っていない。この札はその器代わりなんだよ」
「分からないわね。もしその札に力を集めなければ時に大きく干渉できないというのなら、今札の力を使わなくていいのは何故?私がいれば出来る事なのでしょう?」
「それは今したいことに僕が含まれていないからだ」
「どういう事?」
「時を渡るとき、キミをこちらに送るだけなら札は入らなかったということだよ。あの時敷いた陣は僕一人を隧道へ落とすためのもので、キミの分は含まれていなかった。キミはあんな物無くてもその体内にあの陣を有しているようなものだから、僕はそれを操る手助けをしただけだ。そして今回は力を有さない僕は全く関係なく、ずれた時を構築し直すことが目的になる。だから札の力はいらず、僕がキミの力を引き出してやればいい」
紫苑は眉間に皺を寄せた。
「単に時をいじくるだけなら、近くに時宮がいれば事足りるって事?」
「そういうこと。ただ時を渡ったりする場合には、渡る本人にそれだけの力が備わっていないと渡れない。札は擬似的に僕にその力を与えるために使ったって事だよ」
「でも、私が天界に言ったときにはお風呂に放り込まれただけだったけど」
「天界へは必要なときにしか行けないし、必要があれば勝手に門が開く。ただ出る道は自分で開かなければならないけれどね。あそこと地上を一緒にしたら駄目だよ。あそこは人の住む土地ではないのだから」
「そう。それで、ここを通ってあの家に行くためにはどうすればいいの?」
「やっと本題だね。今回は僕が補助するから、キミは僕に言われた通りの事をして欲しい。そしてその感覚を忘れないようにして」
一つ頷くと、狗はニッと笑った。
「それじゃあ目を閉じて、キミの言う水面とやらに手を当てて。平で水面を触るように」
紫苑は言われたように目を閉じて、手の平に意識を集中させて、そっと波打つ水面に触れた。




