金風ノ伍-雨ノ隙間-
まただ。
また、あの夢。
蝋燭に照らされた赤い廊下。
その先も、後ろも闇に吸い込まれる。
そして一面に敷き詰められた時計が時を刻む音。
あぁ。また……あれが来る。
厭なモノがこちらに来る。
耳を閉じて、目を瞑って、またおびえなければならない。
………………
(……天井)
また見知らぬ天井だ。見慣れた木々の年輪も、染みも見あたらない。
紫苑は目が覚めたときが、一番家が恋しくなった。あの見慣れた天井が見えないと、もうここが自分の家では無いと分かっていてさえ胸がどきりとする。
そして匂い。紫苑の生家は夜になると緑と線香の残り香ばかりがしていたが、それが無いとそわそわする。それでどうにも眠れなくなって、仕方なく身体を起こした。
まだ辺りは暗い。隣には部屋を貸してくれた籐野が静かに寝息を立てて眠っている。今何時だろうと思ったが、すぐに今は丑の刻なのだと分かった。
時を知らせる鐘の音を聞いたわけではない。そもそも鐘が鳴る時間でもないことすら紫苑は理解していた。今は丑の刻を少しばかり過ぎた時間で、夜はまだ深い。そういうことが何となく頭に浮かび、紫苑を納得させるのだ。
(これが姫様に与えられた力だというのなら、随分小さいものよね)
そんな不敬なことを思う。けれど紫苑は未だ自分に与えられた力というものを目の当たりにしていないのだから、無理もない事かもしれなかった。せめてここに来るまでの時を自分の力だけで渡ってきていたら、納得できたのかも知れないけれど。
(狗のようなことが、私にも出来るのかしら)
ほのかな月明かりに照らされた手を持ち上げて、そう思う。今日……もう昨日になってしまったが……籐野の時間をずらしたよう、紫苑も自分の意志で誰かの時をいじれるようになるのだろうか。
(怖い)
露わになった籐野の首筋には、昼間傘を被った男に叩かれた痕が未だ明瞭に残っていた。首筋だけでなく、背にも、腕にもその痣はあって、頭にはたんこぶが出来ているという。
狗はその痕を見てとても申し訳なさそうにしていたけれど、それでも人が死ぬよりはましだと言っていた。例えそれがその者に定められた運命であろうと、機会があれば助けてやりたいと。そしてあの時彼は、紫苑に時の仕組みを教えるという大義名分を得て、あの男の命を救ったのだ。狗はそれを後悔していないという。
傷ならば治るが、失われた命は戻らないのだと言って。
(でも……あの男が命を救うに値する者だっただろうか。籐野さんを傷つけてまで)
籐野はいい人だ。何かと見ず知らずの紫苑の世話を焼いてくれる。それも助けられたという恩を感じているからなのかも知れず、そう考えると益々胸が痛んだ。こんな無垢で薄幸そうな人が、あんな男のために傷つけられたのだ。紫苑はそれが納得いかない。
けれどもし紫苑があの男が殺される場にいたらどう思っただろうか。その男の命を救う術も、名分もあったなら、彼と同じようにあの男を救っただろうか。
(分からない)
一つため息をついて、紫苑はそっと布団を抜け出した。部屋の隅にある衣桁から着物を取って、それを羽織って部屋を出た。
部屋に囲まれた暗い廊下を当てもなく歩いていくと、しとしとと雨音がどこからが聞こえてきた。雨が降っているのだと思って、何となくそちらへ足を向ける。すると雨戸の閉められていない縁側に出て、涼しい風が紫苑の髪を揺らした。
春宮邸よりも大分狭い中庭は、それでも雨に煙ってとても優しく穏やかに見える。あまり手入れがなされていないのか、それともそれこそが今の時代の風流なのかは分からないが、のびのびと茂った葉が雨水を溜めて頭を垂れ、しばらくするとそれを大地に落として背を正す。まるで添水のようだと思った。
「紫苑、どうしたの」
突然声を掛けられて、びくりと身体を震わせた。見れば縁側には狗がいて、紫苑と同じように寝間着の上から着物を肩に掛け、片足だけを組んで座っている。
「寝られないの?」
「いえ、目が覚めちゃって……それ、お酒?」
狗の隣には小さな丸いお盆が置いてあって、そこには徳利が置いてあった。おちょこは今狗の手に握られていて、今は空になっているそれに酒を注ぐ。
「このお店のなんだって。飲む?」
「でも、私」
「お酒を飲んだことがない?」
「えぇ」
そう答えると、本当に子供だな、と言って彼は笑った。
「なによ。あなただって私と大して年齢変わらないじゃない」
「言っておくけれど、僕が二十歳だったのは焔になったときの年齢だ。そこから時は喪失したから見た目の年齢こそ変わっていないけれど、僕自身が認識している時間では、もうそれから五十年は経っていると思う」
「五十……?」
「そのぐらい生きてる感覚があるって事。言っただろう?僕たちにとって時とは自身の認識だ。だからもう、焔になってから僕は五十年経っているんだよ」
「こういう場所では、さすがに絆狸様の時の流れに従うようだけれど」
「そうだね。それに、こうやって時宮が管理する時の流れの中にいる間は年を取る」
「そうなの?」
「うん。まぁその仕組みはめんどくさいから、また追々教えるよ。座ったら?」
促されて、紫苑は少しだけ躊躇ってから、盆を挟んで狗の隣に腰を下ろした。
しとしととした静かな雨が地面を打つ。雨の音が始終するのに、なぜだか普通の夜よりもずっと静寂に満たされている気がした。
しばらくの間ぼうっとその静寂に心奪われていると、不意に目の前に白い小さな器が掲げられ、思わずそれを受け取ってしまった。驚いて狗を振り返ると、彼は穏やかに笑っている。こういう笑い方をすると、彼は本当に焔とよく似ていた。
「飲んでみるといい。僕も久しぶりに飲んだ良い酒だ。作り手の人柄が分かる」
そう言って、器に少しだけ酒を注いでくれる。
甘い芳しい香りが、飲むまでもなく思考を蕩けさせるようで、紫苑はそれを求める身体の欲求に逆らうことなく、それを口に含んだ。
初めは花の蜜のように甘く、呑み込む頃には喉の奥が熱くなる。その熱は体中を駆け抜けて、たった一口なのに視界が狭くなった気がした。
「あう……」
まずかったわけではないし、むしろとても芳しく美味しかったのだけれど、その後に来る酒特有の辛さとでも言えばいいのか、その刺激に耐えることが出来なかった。思わず口元を押さえて、おちょこを狗に向かって突き返す。彼は彼で大爆笑していた。
「まずかった?」
「とっても辛いわ」
「そう?僕には随分甘いお酒だけれど」
「いや……最初は甘かったんだけど。そうじゃなくて」
「あぁ、言いたいことはわかるよ。まぁ、初めはそんなものだよ。僕も初めて飲んだときは、たった二杯で潰れてしまったしね」
それがよくぞここまでと、なみなみと注いだ酒を煽る狗を横目で見た。身体がもう火照り初めて、頭がくらくらしてきている。
「あつ……」
意識がふわふわと漂っているようだ。全ての輪郭がぼやけて、白く煙った世界は更に美しさを増す。そのまま夢の世界に誘われそうだった。
「今回の時の修復で、キミに時の構築法を教えようと思ってる」
「え?」
ふわふわとした頭では、理解に少しばかり時間が掛かった。
「時を扱うことに躊躇するな。迷えばそれだけ時が歪む。時が歪めば、それだけ世界が歪む。僕たちがほんの少し弄るだけでも、そこに迷いがあれば街を丸ごと歪ませることもあるんだ。キミのように時宮の力を持つものが迷えばどうなるか分からない」
「何が言いたいの」
「今日僕がしたことを考えていたのだろう?」
狗はそう言って、庭に魅入っている彼女を見た。うつらうつらと瞼が今にも閉じてしまいそうで、上着を寄せる手にも力がない。それでも彼女は、そうね、と肯定した。
「でも、もし私もあの男の運命を知っていたら、って思うと何も言えない。私はあの男のことを知らないから、今は紫色の痣を身体に散らす籐野の方が可哀想だと思うし、あんな男を生かす価値があるのかも分からない。それでも、狗は間違ったことをしたとは思っていないのでしょ?」
「まぁね」
「なら私は何も言わない。あなたが私に教えるためにやったことを、私はとやかく言えない。それにあの場の事を知らない私は、元々口を出す資格もないのだから」
「けれど迷っているだろう?あの時本当はどうすれば良かったのか。自分だったら、どうしたか」
紫苑は答えずに、星すら見えない漆黒の空を見上げた。こんなにも暗いのに、それでも何故あの廊下の闇よりもほのかに明るいのだろうと不思議に思って。
「いつか選ぶときが来る」
「……薺の姫様が、人を不幸にするために力を使ってはならないと言った」
「うん」
「けれど、私には何が人の不幸なのか分からない。それはきっと、人の幸せが分からないからだわ。だから、私は沢山の事を学びたい。せめて私の周りの人が、一体何を幸せと感じるのか分かるくらいには」
うつらうつらと、彼女はついに瞼を落とした。体勢を崩しそうになって、狗がそれを支える。紫苑はそれで一度目を開けた。
「眠いなら戻りなよ」
「うん……。ねぇ、狗」
「なに?」
「狗は……私が、サネの所に連れて行ってと言うと思っていたでしょう」
狗は頷いた。
「私ね、本当はそうしたかった。サネにもう一度会って、沢山訊きたい事とか、謝りたいこととか……話したいことが沢山あった」
「うん」
「でもね、思ったの。ここで今サネに会ったって、きっとサネは笑顔を見せてくれないわ」
「何故そう思うの?」
「分からない。でも、そんな感じがするの。サネとはずっと一緒にいたから、何を考えているかは分からないけれど、こういうとき、どんな顔するかはわかる」
「うん」
「だから、せめてサネが何を望んでいるのか分かるようになったら、自分の力で会いに行きたいの。彼女の護っていたものが、一体何だったのか、分かるぐらいには成長して……」
「そう」
「そしたらきっと……全部戻ってくる。何も分かってくれなかったけれど、私を大切にしてくれた家族も……私の事を何だって知っていたサネも……」
「そうだね」
「だから……」
ふわりと、紫苑は意識を失った。
狗は慌てて彼女の身体を揺らすが、もう固く閉ざされた目は開きそうにない。
狗は深くため息をついてお盆を下げ、彼女の頭を自身の膝の上に乗せた。それから残った酒を器に注いで一口飲む。
紫苑の寝ていた部屋には籐野がいる。彼女を運ぶにしたって、女性の寝所に無断で入るわけには行かないだろう。
「困ったな……」
飲ませるんじゃなかったと、今更になって後悔した。




