金風ノ参-蟲跡-
「あの、ありがとうございました」
そう言って頭を下げたのは、狗に勝手に時間を弄られ、酷い目に遭いながらも狗に助けられた女性。彼女のそんな健気な姿を見て、お礼をいう必要なんか無いわよ、と紫苑は心の奥底で舌打ちをした。
「大きな怪我が無くて良かった。キミはあの酒屋の娘かい?」
「一応というべきでしょうか。養女なので。よろしければお茶でも飲んで行かれませんか。お礼もしたいですし」
「じゃあそうさせて貰おうかな」
「お連れ様もご一緒に」
そうにっこり笑顔を向けられては紫苑も笑顔を向けざるを得ない。ただし、彼女が踵を返した瞬間に思いっきり狗の耳を引っ張った。
「どういうつもりよ!」
もちろん先を歩く彼女に聞こえないような小さな声でそう咎める。すると彼は大丈夫だから、と答えて紫苑の手をそっと払った。
「キミが言いたいことは分かるよ」
「じゃあ」
「とにかく行こう。中に入ってからでも説明は間に合うだろう」
そうとだけ言って、消えた女性の後を追って店の中に入ってしまう。紫苑はそれから少しばかりその場で戸惑っていたが、結局どうすることも出来ず、彼の後を追った。
店の中はとても涼しかった。日の強さを屋根に受け、外とは真逆に転じた店内は、暗くひんやりとした空気で客を迎える。そしてその暗がりの隅で、紫苑は狗に問うまでもなく、彼がこの店に入った理由を見た。
(蟲……)
ふよりふよりと宙を泳ぐ光がまた一つ。見回してみれば、並べられた樽の隅に隠れるように泳ぐ蟲が更に二匹見つけられた。
「狗」
少しばかり焦って声を掛けると、すでに一段高くなった座敷に腰掛けている狗はにっこりと笑って見せる。女性はお茶をいれに行ったのか、もう紫苑の見える場所にはいなかった。
「いつ気付いたの?」
「彼女を助けた時に。彼女ではないようだが、この店に今いる者だろう」
「会えるかしら」
「さて。ただこの運の良さからすると、恐らく会えるだろうと踏んでいる。座ったら?」
今度はおとなしく狗に従い、彼の横に腰を下ろした。しばらく沈黙が流れるが、すぐに女性がお茶を運んできたから、その沈黙も長くは続かない。趣のある茶碗に注がれた茶は良く冷やされていて、丁度乾いていた喉を潤した。
「今更ですけれど、お名前を伺ってよろしいでしょうか。私はトウノの呼ばれております。藤の野で、籐野」
「僕は狗と呼ばれています。いぬと書いて狗。こっちは紫苑。花の紫苑ですね」
「紫苑です。よろしく」
「この町の方ではありませんよね?旅をなさっているのでしょうか」
「えぇ……まぁ」
「というより知り合いに会いに来たんです。もう何年も会っていなかったんですが、久しぶりに連絡が来たものですから」
口ごもる紫苑に、狗がつらつらと嘘を並べ立てはじめる。
「では、何度かこの町にも来られたことが?」
「えぇ、最後に来たのはもう何年も前になりますが。けれど随分と町の様子も変わっていて、初めて来たのと大差ないようです」
「まぁまぁ。どちらに行かれるおつもりで?」
「この町の先だったと思うのですが。広い田の中にある一軒家だっだと」
「あら。それなら丁度、そちらから来た方が家に滞在しておりますよ。田の持ち主で、米を取引させていただいている方なのですけれど。良かったらお会いになってみますか?ひょっとしたら道案内をなさって下さるかも知れません」
「では、是非」
「どうぞ上がっていて下さい。今お願いして参ります」
「ありがとうございます」
籐野は嬉しそうに微笑んでから、茶を入れに行った場所とは違う襖を開いて出て行った。そしてその足音が聞こえなくなるのを待ってから、紫苑は狗を見、狗も紫苑を見た。
「何か訊きたい事があるみたいだね。言ってみなよ。今なら聞く者もいないだろうし」
「私、蟲は森を護る者だと思ってた。というか、そうサネから聞いていたわ。実際サネが住む山が山火事になった時や嵐によって荒らされた時も、森を護るためにその命を捧げていた。彼らの命を得た森は、信じられない速度で回復したわ。けれど何故それが人に付くの」
「正しいけれど、少しばかり言葉が足りない。蟲は森を護る者でもあるが、正確には時宮の作り上げた時を確保する者というのが正しいだろうな」
「時を……確保?」
「確保というか、維持というか。言うなれば蟲は時宮の補佐をする者。僕たちがここへ飛んできたことで歪みが出来たように、時は何かの拍子に時宮の想いを外れることがある。蟲はそれを排除するためにいるんだよ。小さな現象であればすぐに排除できるけれど、人が二人時を渡って作り出した歪みを取り除く力はない。だからそれが周りに影響を及ぼさないよう押さえ込むだけなのだけれど、その時に蟲は歪みの原因となっている者に付く」
「その周りの者にも?」
「そう。特に一番近しい者に。理由は、一番近しい者が一番影響を受けやすいからだ。絶え間なくその者を遅襲う時の歪みを、その者に付くことで喰っている」
「喰う」
「その表現が一番正しいと思うのだけど。まぁ、兎に角原因となっている者が更に歪みを広げないようにする。森の修復は彼らの主を護るため、そして住処を護るためのものでしかない。彼らがこの世界にいる理由は、正確にはそう言うことなんだよ」
「ふーん」
「まぁこの数ならそんなに付いてはいないだろうね。そんなに近しい人物ではないのか、それとも原因となっているものから長く離れているのか」
「話してみれば分かるわね」
「そうだね」
「あと一つ。あなたは時を弄ったと言ったけれど、それは時宮の特権だったんじゃないの?」
「時宮の特権は時を渡ることと時を決めること。その時を少しぐらい弄ることは焔にも出来る。そうでなくちゃ山を閉ざしたりは出来ないからね。けれどあまり大規模な時の干渉は出来ない。精々人一人が精一杯で、山を閉ざすとなれば札の力を使わないと無理だ」
そして時宮の力を借りて時を渡る時だって、あれほどの札が必要になる。
「僕たちは監視をすることが目的なんだ。それ以外の能力はなくていい」
「そう……」
そう頷いたところで襖が開き、籐野と連れだってもう一人部屋に入ってきた。
現れたのは狗よりも更に背の高い、頑丈そうな男だった。




