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時宮  作者: 鷹凪 悠
緑眼ノ章
10/26

玖-渡-

「……あれ?」


「ん?」


紫苑が声を上げたのは、天女達と別れてからしばらく経ち、日の暮れることのない空の元、狗がせっせと何かの陣を地面に書いている時だった。


場所は紫苑が最初にいた宮の庭。狗と初めて会った東屋の脇だ。


「私、結局力を貰ってないんですけど」


「そんなはず無いよ」


なんだそんな事といった感じで、狗は一度止めた手を再び動かし始めた。地面に幾つもの文字を生み出しているのは一本の枝だ。


「桃を食べただろう?」


紫苑の方を見ることもなく、声だけでそう問うと、紫苑は起きてすぐに食べたあの桃を思い出した。とても瑞々しくて美味しく頂いたあの桃だ。


「あの桃に力が宿っているんだ。まぁ、食べれば良いってものじゃないけどね」


力を与えるためにも奪うためにも、必ず大君に会う必要があるのだと焔翁が言っていた。つまり、力自体はあの桃で得られるが、その力を操るためには大君に会うことが必要なのだと、紫苑はここに来てからずっとしているように、深く考えず漠然と物事を呑み込んだ。


「よし、出来上がり。紫苑。その札を持ってきてくれ」


陣はかなりの大きさがある。直径は紫苑が三人縦に並んだほどで、そこには文字ばかりではなく、桔梗や百合の模様が見えた。


紫苑はその陣を踏まないように気をつけながら、中心にいる狗に向かっていって、持たされていた札を手渡す。札は全部で八枚あり、その全てに同じ文字のようなものが書かれていたけれど、紫苑にはあいにく読むことが出来なかった。


「どうやったら時を渡れるんですか?」


「今回は僕がキミの力を使って飛ぶ。本来はキミ一人で出来るはずだけれど、まだキミは飛んだことがないから感覚も分からないだろうしね。まずは感覚を知って、その感覚をいつでも思い出せるようにする。そうするといつの間にか自分で時が渡れるようになってる。どの時宮も最初はこうやって時の渡り方を学ぶんだ。最初はどうやったって目的の時間や場所からずれるけれど、何度も練習するうちにしっかり飛べるようになる」


「あぁ、それで……」


「そう。あの女はしっかり飛べるようにならないうちに事を起こした。ひょっとしたらもう自由に時を渡れるようになっているかも知れない。けれどキミがここに来ることで、ほぼ無限にあったキミの時の流れは一本になった。過去も未来も現在ここにいるキミの持つ時間しか無くなった。あの女が世界を構成する全ての人の時の糸中からキミのたった一本の糸を見つけるのは酷く困難になっただろう。そして同時に、僕たちも無限と存在する糸の中から、あの女が持つたった一本の糸のうちのどこかを断ち切らなければ成らない」


「……凄く無理な気がしてきたわ」


まだ時というものがどういうものか全く理解できていないけれど、なんだかとても途方もない話のように思えた。砂浜からたった一粒の米を見つけろ、みたいな。


「まぁ、最初はとにかく練習からだね。いろいろな時へ飛んで、まずは世を見てみるのが良いだろう。サネを探すのも良いが、あの土地へ飛ぶのはまだ難しいだろうからね」


「何故?」


「焔が陣を敷いているからだ。今あの場所にはサネと焔以外誰も入れない」


「そう言えば、サネが山を捨てたと言っていた」


「捨てた訳じゃ無い。作り直すために、一度あの土地の時をあそこで切ったんだ。普通はあそこで流してしまうものだけれど、今ここにいるキミとの時間をよほど取り戻したかったのだろうね。あの土地の糸だってまた幾万とあるのだから、別の時で同じようにキミとの時を過ごせば良かったものを」


「よく……分からない」


「理解しようとするから分からないんだよ。時なんて幾つもの矛盾を抱えた生き物だ。そのくせ理が通ったような岩みたいな顔をして存在してる。そんな者だと思っておけばいいよ。分かったことがあれば呑み込んで、それ以外はそのまま考えずにいればいい」


「適当なんですね」


「適当じゃなきゃやってられないよ。僕たちは神じゃない。目に見えないもの、触れられないもの、不確かなもの全てを把握できる訳じゃ無いのだから」


紫苑が納得いかないと言わんばかりの顔で狗が置いた札を見つめていると、彼は顔を上げ、言っておくけどね、と棒を投げ捨てながら言った。


「僕だって、時をしっかり理解している訳じゃ無い」


「そうなんですか?」


「当然だよ。僕は人間だ。神が箱庭をどのように作っているかなど知らない。だからさっきキミにした説明だって、矛盾だらけだよ」


「まぁ……確かに」


「この場所に来て、キミ達の時の流れで考えると随分長い時間が経ったけれど、未だこの程度しか時について理解できていない。だからね、キミだって無理に理解しようと思わなくても大丈夫なんだよ」


紫苑はふぅむと首を傾いで、再び札を置くことに専念し始めた彼の手を視線で追う。

その程度の理解で大丈夫なのだろうかと思う一方で、時宮も焔も、この程度しか理解していないのだなと恐ろしくなった。


例え世界の時が神である薺の意志で動いていようとも、実際動かしているのは彼女の手足たる時宮だ。その時宮や、彼らを監視し護っている焔が時に対してこの程度の知識や理解しかしていないことは、包丁を知らない子供がそれを積み木か何かと同じように扱っているのと同じように思えた。


膝の上に置かれた手を一度閉じて、もう一度ゆっくりと開いてみる。

それからもう一度狗の手を見ると、先ほどからずっと同じ動きを繰り返し、地面の上に札を一枚置いては、そこから少し離れた宙に二本の指で文字を書く。するとその札の文字は赤く変じて、ただ土の上にのせられていただけの紙が、まるで意志を持ったかのように地面にへばりつく。


そこから視界を上げれば、故郷の森よりも遙かに多くの蟲たちが明るい光を放って木々を照らし出している。


「今の私たちの時間は、一体誰が流しているんですか?」


「流しているのは自分自身。だからこの場所で時とは意識の流れであり、こうして僕とキミが同じ場所、同じ時にいるためには、お互いの認識が必要だ。……といっても、ここは宮の中だから、時守がしっかりした基盤の時を作っていて、僕たちが意識しなくとも同じ時の流れに居られるのだけど。誰かに教えられなかった?」


「焔翁に聞きました。時守は時宮よりも姫様の信頼篤い一族だとも」


「そう。時守は殆どが大君が生み出した仙女たちだ。多くは大君の身の回りの管理が仕事で、僕たちのような外からの訪問者のために、こうした宮の時を管理している」


「神様に近いんですね」


「ここにある植物も全て、彼女たちの管理しているものだ」


狗はそう言って手を止めて、蟲の宿る木々を見上げた。


「与えられた種がいつ芽吹き、いつどれほどの大きさまで成長し、そしていつ頃実を付け枯れるのか。それを全て管理している。木々が足りなくなれば、それは僕たちにとってほんの数秒で起こることだけれど、いつもはこうして地上の木々と同じように、ゆっくりとした時の流れの中を生きる」


時とはすなわちその者の意識の流れ。

意識とは無限にあるその者の過去、現在、未来。

その意識をその者の意志に囚われることなく操る者こそ神と呼ばれる者。


「私……少し勘違いしていたのかな」


翁は姫様が時宮に時の管理を丸投げしているといったような言い方をしたけれど、本当はそうじゃない。


こんな何の知識もない状態で、自身の時さえ操れているとは思えない。


誰かが導いてくれているからこそ思考でき、意識をもてる。そしてその意識が時を流しているというのなら、それはやはり、薺姫が時を流していることになるのだろう。


時宮や焔が彼女の手足だなんてとんでもない。彼女の手足というのなら、世界中の人々全て、命あるもの全てがその対象だ。紫苑が今ここにいるのも、彼女がそのように意志を促したからじゃないのか。あの時翁の手を取らせたあの感情は、あの動作は、一体誰がそうさせたというのだろう。


決めたのは紫苑自身でも、決めさせたのはきっと紫苑ではない何か。


(でも……じゃあ……)


あのまだ名も知らぬあの女が、紫苑の家族を殺した意志は、一体誰が決めたのだろう。


(違う)


この考え方自体が、やはり間違えているのだろうか。


それとも間違えるように、誰かが紫苑の考えを促したのだろうか。


神ではないのだから、神が箱庭をどのように作るかなど分からない。


なるほど。これほど理にかなっていることはない。


「紫苑。キミは時を操る神になる訳じゃ無い。キミは人に戻るために、神やらあやかしやらとは無縁の者になるために時を渡るのだから、あまり深く考えない方が良い」


「けれど、あなたは気持ち悪くないんですか?実際時を操っているという者を前にして、実際時の流れなるものがあると知っていて、実際私たちの行動や運命全ての時を流しているという時宮を前にして、彼らが何も知らないなんて思ったら……」


「時宮は人の運命を操っている訳じゃ無い。大君に至ってはどこまで僕らに語っているかは知らないけれど、僕らの知る限り、人の運命を決めているのは別の神だ。彼女たちにとって時とはそれほど独立したもので、僕やキミが考えるほど、人の意識や運命に深く関与している訳じゃ無い」


「あなたはさっき、ここでの私の時は、私の意識だと言いました。私の意識が、私の時の流れだと」


「そうだよ。少なくとも僕はそう理解している。けれど紫苑。キミは神とか言う僕らとはかけ離れた存在の者たちが、僕らと同じような方法で時を決めると思うのか?」


「そうは……思いませんけど」


「ここでの僕達の時だって、所詮は大君が決められた規則の上に成り立っているものに過ぎない。僕の意識が僕の時であり、キミに意識を向かわせることでキミと時を共有するようになると、薺姫がお決めになった規則にのっとって今がある。彼女が一体どうやって時を決めているのかなど分からないよ。そして僕らにとって、時とはやはり目に見えることのない、不可解なものでしかない」


「……そう、ですね」


理解すること自体が不可能なのだろうか。

知ることは怖いことだと誰かが言っていたけれど、知らずにそれを扱うことも、知らない者に扱われることも等しく恐ろしい事だ。


「ただ、こうして時という物を考える機会がなかったから、酷く物事全てが奇妙な物に思えるんです。私がこうして手を動かしたり、蟲が木々に群がったり。そしてこんなに何も知らない私と同じような時宮達が、私たちの世界の時を決めているのだと思うと、それはとても怖いことに思えます」


「僕が僕なりの理解を持っているように、時宮は時宮なりに時という物を理解している。それが真実だとは決してないだろうけれど、僕たち焔の役割に必要な理解の仕方や、大君の意志を預かって時を動かす時宮なりの理解という物がある。そしてそれらの理解は、全て経験からたどり着いた答えのような物だ。まだ何も知らないキミが、キミの頭の中だけで結論づけたような状態のまま時宮達が時を管理している訳じゃ無いよ」


「経験」


その言葉を繰り返す。


紫苑の祖母は、紫苑に外を見せることを嫌がった。村の内での用ならともかく、隣の村へ行くことや、山を下りた街へ行くことさえも執拗に拒んだ。


だから紫苑は村以外の場所を何も知らない。本で読んだことや、屋敷を訪ねてくる人の話を聞いたことはあっても、彼女自身の目で見たことなど、何も無いに等しい。


紫苑は祖母が大好きだったけれど、その頑なな意志だけが唯一嫌いだった。

何故外を見せてくれないのか、全く理解できなかった。


紫苑には経験と呼べるものが何も無い。知識だって、文字ばかりで本当に理解している物は数えるほど。彼の言う通り、いつだって頭の中でかたづけて終わることが多い。それが合っているかどうかなんて関係なくて、自身の頭の中で矛盾無く終われることが重要だった。


「そうよね……経験が無いんだわ」


「ん?」


「行きたいところ、決まりました」


紫苑がそう言うと、狗は驚いた風もなく最後の札を貼り終えると、紫苑の顔を見てから先を促すように首を傾いだ。


「あなたが今まで行った場所で、一番面白いと思った時が良いわ」


「僕が?」


「何度も時を渡って、いろんな時代を知っているのでしょう?いろんな場所も、いろんな物事も知っているのでしょう?」


「まぁそれなりに」


「経験が無いというのなら、積めばいいのよね。いろいろのことをして、いろいろなところへ行って。この十七年間、そもそも村の外へ出なかったのがいけなかったのだわ。隣の村へおつかいに行ったことすら無い私が、突然こんな場所へ来て、突然訳の分からないことを言われたって、そりゃ理解できないわよね。なんにも知らないんだもの。理解できるだけの知識が何にも備わってないのだから、当然よね。だから、私はとりあえず色んな事を経験することにしたわ」


まくし立てるようにそう言うと、狗はちょっと驚いた顔をしてそれを聞いていた。

よく考えたら、こんな風に話したのは彼の前では初めてだ。


「ということだから、取り合えずは面白い所へ行ってみたいの。だって始まりは明るい方がいいものね?」


「あぁ……うん。そうだね。面白い所か……」


「ある?」


「まぁ、無くはないけど。キミにとって面白いかはわからない」


「いいわよそれで。行って見なきゃわからないもの」


紫苑は、なんだか俄然やる気になって、地面に描かれた美しい陣を満足げに見下ろした。そしてその作り主を見て、にっこりと笑う。こうしてみると、随分と久しぶりに笑ったような気がした。


「言い忘れていたけれど、これからよろしくお願いね。あと、私お嬢様育ちだからあまり敬語になれていないの。だからこれから敬語はやめる。何しろ長い付き合いになるみたいだし。こういう言い方がとっても失礼なのは分かっているんだけど、もし気分を害したらごめんなさいね」


「いいよ。僕も敬語を使われるのは慣れていないしね。こう言うとキミは不安になるかも知れないけど、僕も焔としてはまだまだ修行中だから。だから時に対しては理解が甘い」


「不安になんかならないわよ。何しろ神様があなたを選んで付けて下さったんだもの。あなたが未熟だと思うなら、一緒に学べば良いだけだしね。知ってる?自分が知らないことについて理解を深めるためには、誰かにその事を教えながら考えることが良いそうよ。だからあなたはあたしが分からないことをあたしに教えて、もっと修行を積めばいいのだわ」


そんな勝手なことを言うと、狗はそれでも笑いながら紫苑の手を取った。そうだね、なんていいながら。


「それじゃあ、行こうか」


「よろしくお願いするわ」


陣の中心へ導かれ、狗が不思議な呪文を印を結ぶと淡く輝く陣だけを残し、二人の姿は掻き消えた。


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