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時宮  作者: 鷹凪 悠
緑眼ノ章
1/26

「これで終わりですよう」

 彼女はそういって、にんまりと笑った。

 その笑顔は実に猟奇的で、殺人的で、挑戦的で、勝ち誇った笑みだった。

 千年のうちに、狂った彼女。千年もかけて、その異常に気づかなかった私。

 彼女はずっと救いを求めてた。

 ずっと言葉にしていたし、

 ずっと態度に表していた。

 ずっと私に断固としたその意志を伝えていた。

 伝えていたはずなのに。

 私は気がつかなかったんだ。

 気づかないのは、斬り捨てたも同じ。

 私が救おうとしなかったと同じ。

 だから彼女は狂っただけのこと。

 彼女がまさかあれほどの殺人衝動を抑えていたとは誰も感じなかっただろうけれど。

 全て仕方のないこと。

 あるべくしてあるように、

 なるべくしてなっただけ。


 それだけのこと。



+ + +



シャンシャンと鈴の音が夏の空に響く。

それに負けないくらいの声で、蝉が鳴く。

紫苑はそれらの音に耳を傾けながら、山の麓とも山頂ともつかないなんとも中途半端な位置で倒れていた。

病ではない。

暑さからでも、水が足りなかったからでも、空腹だからでも、疲れたからでも、ない。

ただ単純に、こけただけ。

先ほど上がったばかりの通り雨で山道はぬかるんでいて、滑ってしまったのだ。

その所為で臑を木の根にぶつけ、今必死に痛みをこらえているところである。


「………………っ!」


こらえていると言うよりは、あまりの痛みに声も出ないと言った方が正確だろう。

耳を真っ赤にして、臑を抱えて土の上に転がっているせいで、こんな場所に不釣り合いな上等な着物も、目も当てられない有様だ。

紫苑とは当然山間部に咲き誇るキク科、多年草の紫色の花を咲かせ、去痰や利尿作用を目的とした生薬となる「君を忘れず」を花言葉とする植物のことではなく、今泥まみれになって膝を抱え、痛みと闘っている彼女の名前である。


春宮紫苑はるのみやしおん


山奥にある小さな村の小さな商家、春宮家の跡取り娘で、今年で十七歳になるが、未だ商いを手伝うでもなく、当然勉学にいそしむわけでもなく、こうしてこっそりと家を抜け出しては一族の不評ばかりを買っている少女だ。


「うあぁ……痛い……」


やっと痛みになれてきたところで、うっすらと涙さえ浮かべながら、それでも彼女は手をついて体を起こした。


「あぁ……」


裾をめくってみてみれば、ぶつけるついでに擦ってしまったのか、じんわりと血がにじみ出している。傷を見ると今度は鼓動に合わせた痛みが際だってきて、思わずため息をついた。こんな場所でこけた事なんて今まで無かったのに。


仕方なしに、丁度近くに突きだしていた根に腰を下ろして、幹に背を預け、高い高い緑の天井を見上げると、手に引っかけていたはずの鈴が木の枝に引っかかって揺れていた。こけたときに飛ばされてしまったのだろう。風に揺られてしゃらしゃらと小さく音を立てている。


深い森の中だ。

ごろごろ転がっている岩は見事なほど苔むして、それを縫うように高齢の樹木が天へと伸びる。夏にしては空気はひんやりとしていて、土は軟らかく冷たい。雨が降る前からここの土は十分な水を含んでいるから、雨上がりには森中が霧がかり、葉をすり抜けてくる光は柔らかく森を照らし出す。


神々が住む森と呼ばれたこの森は、いつでも外とは違う時間が流れている気がする。

驚くほど静かで、驚くほど美しく、いつだって紫苑の心を魅了する。

木になりたいと、思わせる。

この森の一部になって、永遠を生きたいと思わせる。

紫苑はこの森に一日中いたって飽きないだろう。


「今日は用があってきたんだけどなぁ」


何故用がある日に限ってけがをするのだろう。幸先が悪い。


小さな蟲が独り言に応えるように光を帯びて飛び回る。

蟲がいるのは森が豊かな証拠。

汚されていない、清い森にのみ住んでいる。綺麗な水にのみ住む蛍のようなものだ。

ただ蟲には実態がなく、目に見えても触れられはしない。ちょっと臍が曲がった人なら光のいたずらだと言い出すだろう。けれど彼らは確実にそこに息づく生命だと言うことを、紫苑はよく知っていた。

命無き者なら、決して世に影響を及ぼすことはないけれど、蟲は信じられないほど大きな影響を森や、訪れる人、森に生きる動物に与えている。


苔むした木々に住む彼らは森に生きる代わりに森を育て、嵐で傷つけば彼らはその命を捧げて森を癒し、悪意あるものが森を訪れればそれを惑わす。この森は二年前雷が落ち、山火事に見舞われたけれど、一年も経たないうちに元の姿へと戻っていた。その代わりに森に入ってみると蟲の数は驚くほど減っていて、今のような明るさが失われていたことをよく覚えている。


他のものに命を与えることが出来るものたち。それが蟲の総称なのだそうだ。

こうしている間にも、紫苑の足には蟲が集まってきていた。痛みをぬぐうために。傷と、流れ落ちた血に触れると、ひときわ強い光を放って消える。そのたびに、気のせいかもしれないほど少しだけ、痛みが和らいだ気がした。


体中の力を抜いて、背を預けた樹と融け合ったように動かずに目を閉じた。

蝉の鳴き声以外にも、たくさんの生き物の声がする。

木々の葉のこすれる音は当然のこと。遠くで動物が走る物音。鳥の鳴き声。虫の飛ぶ音。

たくさんの音が聞こえるのに、なぜここは村よりも静かなんだろう。ひとつひとつの音がとても小さい所為だろうか。それだって、村よりは遙かに多くの生き物たちが合わさって演奏している音なのに。


目を開けばそこは緑の世界だ。ほんの少しだけ樹にもたれかかっただけで、自身がその一部になったような気さえする。湿った空気を吸って、地に根を下ろして、天に向かって光を求めて手を広げる。


(このまま、本当に森の一部になってしまおうか)


出来るわけがないことを、それを願うように心に浮かべた。

紫苑はいつもそうやって、願えばそうなるかもしれないという希望が捨てきれずに、本気で神様に懇願する。心の中で何度も何度もつぶやいて、何とか現実にならないだろうかと頭の中で思い込むのだ。

幸いにも、それが現実となったことは一度足りたも無いけれど。


随分と長い間そうして木にもたれかかっていたけれど、痛みがだいぶ治まってきたところで目を開き、立ち上がる。蟲たちが慌てたように飛んでいった。


「いきますか」


そう叱咤して、再び山を登り始めた。

ただ今度は下駄を脱いで、柔らかいこけの絨毯を踏みながら上っていく。その感触が気持ちよくて、紫苑は思わずほほえんだ。

子供の時も、こうやって裸足で森を駆け回っていた気がする。あのときは何もかもが目新しくて、何もかもが綺麗に見えたけれど、今ため息が出るほど美しいと思うのはこの森だけ。


大人になるのはいやだな、と紫苑は思う。

今だって大人な訳じゃないけれど、何も知らない幼かった頃は、いろんなものがきらきら輝いて見えていた気がする。本当にそんなのは気がするだけで、実際きらきらしていたかと言われれば首を振らなければならないが、少なくとも子供の頃は毎日が楽しかった。


成長するにつれて毎日が平坦なものになるのを感じる。残るのは異質なほど美化された過去のことばかりで、あぁあの頃はよかったなぁというくだらない感想ばかりを口に上らせる。そして気がついてしまうのだ。子供の頃あんなに逞しく、憧れであったはずの大人という生き物が、近づいてみればこれほどにもつまらない物だったと言うことに。


だから時折、もしも一日で寿命が終えられたらどんなにいいだろうと思うのだ。

朝に生まれ、昼には成人し、夜にはその命を終える。そんな人生が繰り返せたら、きっと世界は常に新しく輝いているに違いない。

そんな戯れ言が紫苑の頭の中ではぐるぐると回っている。


世の中には子供のまま成長したようだ、なんて言われる大人がいるけれど、そんなのは嘘だ。彼らは子供という憧れをあきらめきれないために、必死にまねをしている紛い物。子供が必死に大人振ろうとするのと全く同じ。子供が何も大人のことをわかっていないように、大人だって子供のことがわかっていない。ひょっとしたら忘れているだけかもしれないけれど。本当は思い出したくないだけかもしれないけれど。


(おばあさまは、こんな考えをもつ私を叱ったけれど)


お前はどうしてそんなことを考える。子供には子供の、大人には大人の良さがあるんだよ。そんなことを考えるのは、お前がまだ世界を知らないからだ。そんなことを考えるのは、何もかも知っているふりをして、実は何も知らないからなんだよ。まだ何にも見ていないくせに、そんな事を考えるもんじゃない。まだ何も知らないくせに、過去にすがるほど愚かなことはないよ。

そんなことを言って。


(何も知らないことなんかわかってる)


何も見ていないことだってわかっている。けれど、そんな私がすでに辟易している事こそが重要なんじゃないのか。これ以上素晴らしいものを見いだせないから、大人は過去に逃げるんじゃないか。私がこんな事を考えるのは、これ以上何も見いだせないことがわかっている証拠でしょう?

それでも私がなにも知らないというなら、外の世界に行かせてよ。色んなものを見させてよ。それをさせてくれないくせに、わかったようなことを言わないで。


「…………」 


唇を噛みしめて最後の岩に飛び乗ると、目の前に小さな湖が姿を見せた。

透き通った碧の水の底に、いくつも折り重なって朽ちた木々が沈んでいる。

その湖の向こう側に、紫苑はやっと目的の場所を見た。

その半分を巨大な木の根飲まれ、苔に覆われた古い小屋。その前に煙管を加えた着物姿の女性が腕を組んで立っている。


伸ばしっぱなしの黒い髪で、鋭い瞳は森のような深緑だ。なぜかいつも男物の着流しを着ていているが、彼女はそれに見劣りしない体格をしている。太っているのではなくて、身長が高くすらりとしているのだ。

顔立ちも鷹のように精悍だが、その顔はどこからどう見ても日本人女性。だのにその肌は白く雪のようで、目の色ときたら明らかに紫苑とはかけ離れた色をしている。


「サネ!」


紫苑が嬉しそうに名を呼んで手を振ると、緑目の女性も口元に笑みを浮かべた。紫苑はウサギみたいに跳ねながら湖を回り込み、あっという間にサネの目の前にたどり着く。


「お前も飽きないな。こんな場所に来ても、何にもないことぐらいわかっているだろうに」


女性にしては低い落ち着いた声で、それでも明るい声音でサネは紫苑を迎えた。


「何にもなく無いなんてことないわ。ここには私の必要としているものが沢山あるもの」


「それに、下駄をどこに捨ててきた」


「あれ?」


 そういえば、脱いだ下駄をどこに置いてきたっけ?というか、脱いだ場所に置いてきたに決まってる。


「いいじゃない。サネだっていつも裸足なんだから」


「私はもう慣れているし、この森から出ることも無いだろうしね。お前は外に出るんだから、ちゃんと拾って帰るんだよ。何か足に刺さったら痛いだろう?」


「そうね。それにまた下駄を無くしたっていったら、いい加減母様も買ってくださらなくなるだろうし」


「……いつかこの森はお前の脱ぎ捨てた下駄で埋め尽くされてしまいそうだな」


さぁお入り、と今にも壊れそうな小屋の引き戸を開いてサネは紫苑を招き入れた。

入るとすぐに、薬草の匂いが鼻を突く。


薄暗い小屋の中には小さな蝋燭が一つだけ灯っていて、小さな竈や天井いっぱいに干された薬草、雑に積み上げられた本の山と、机に置かれた蝋燭の側に美しい硯と使い込まれた筆が見える。

この部屋にあるものと言ったらそれ以外に小さな箪笥一つだけ。サネはもう何十年もここで生活しているのだという。


「これなぁに?」


 紫苑が指さした先には、赤い実をつけた小さな葉の束が干してあった。


「それは龍の実だよ。実を絞れば傷薬になる。絞ったものがその瓶に入ってるから足に塗っておけ」


「……おお?」


「何だその顔は」


指を指したまま、目を丸くしている。

もうそんなに痛まないのに、なぜわかったんだろう?着物の裾が長いから傷は見えないし、ここに来るまでに着物が泥だらけになるのはいつものことなのに。


「足から血が流れてりゃ誰だってわかるよ」


「あう」


「手当てしてやるから座りな」


足をおろしたまま、座敷に腰掛けて裾をめくると、傷から足首まで血が垂れてるのがよく見えた。小さな傷はかさぶたになっているけれど、大きな傷は塞がってすらいない。サネは腰を落としてそれを眺めて、あきれたように目を細めた。


「蟲に治してもらうんじゃないよ。あれらは人のためにいるわけじゃない」


「勝手に寄ってくるのよ」


「それでもさ。人があまり、森に関わるもんじゃない」


「サネだってここに住んでいるじゃない」


瓶からすくってきた水で傷を洗い流してから、小瓶のふたを開けて黄色味がかった汁をそのまま傷口に垂らしていく。その上に天井から下がっていた長い葉を巻いて、それから布を巻いてくれた。痛みはもう無かったけれど、その冷たさが熱を持っていた傷口に心地いい。


サネはきゅっと布を縛ってから、私はね、と諭すように言った。


「私はここから動けないんだよ。出ようと思ったって、出られない」


「なぜ?」


手当てが終わっても、サネは立ち上がらずに紫苑の眼をまっすぐに見つめてる。深い深い緑色の瞳。森のように美しいが、その瞳には信じられないほどの憂いが隠れている気がする。


「知っているのに訊くもんじゃない」


「出て行けない理由があるからでしょう?でも私、その理由を知らないわ。それを訊いているのよ」


サネは立ち上がって煙管をくわえ、ゆっくりと吸ってから煙を吐き出した。


サネの吸う煙は、たばこと違って厭な匂いがしない。まるで春に咲く花のような甘い香りだ。その原材料を紫苑は知らないけれど、何かの薬草なのだという。その煙を見るたびに、紫苑は国中のたばこがこれになればいいのにと思う。そうすれば父が煙管をくゆらせるたび、部屋から出て行かなくてもすむのに。


サネはこの質問をするといつも口を閉ざしてしまうから、今回もどうせ答えてはくれないだろうわかっている。だから今回も紫苑は目の前を漂う煙の龍を視線だけで追いかけて、次の言葉がかけられるのを待った。

紫苑がここに通い始めて五年になるけれど、サネの過去のことは何も知らない。彼女が何故ここにいるのかも、今何歳なのかも、結婚しているのかも、子供がいるのかも、生まれはどこの里なのかも、どうやってここに来たのかも、昔は何をしていたのかも、何故眼が緑色なのかも、何も知らない。


紫苑が知っていることと言えば、彼女が薬に詳しいことと、時間に驚くほど正確なことくらい。あと知っていることは、


「……そうだな。私はお前に何も話していない。けれど」


その言葉の続きだけ。


「それはお前の人生には何の関係もないことだよ」

 

紫苑は目を閉じる。


「たとえ森から出られなくても、お前がこうしてきてくれるから私は幸せだ」


過去のことなど関係ない。お前が知るべき事など無い。大切なのは今で、必要なのはこれからで、過去のことなどただの足跡でしかない。お前にとって、私の過去ほどどうでもいいことはないんだよ。だから私は答えない。


そんな言葉を聞きながら、紫苑は目を閉じたまま、湧き上がってくるいくつもの言葉を再び心の奥底に押し込めた。


そんなのは嘘だ。過去がただの足跡だなんて、そんなこと絶対にあるはずがない。大切なのは今だなんて綺麗事、私は絶対に信じない。だって私にだって過去は美しいもので、離れがたい記憶なのだもの。そんな綺麗事を言うのはただ自身の過去から顔を背けているだけだ。忘れたいほど汚れた記憶を消し去るために、本当は忘れたくなかった素晴らしい事も一緒くたにして見ないようにしている。そうでしょう?


「さぁ、お茶でも入れよう。そしたら今日はキノコを採りに行きたいんだ。手伝っておくれ」


紫苑はサネを見上げて、にっこりと笑って見せた。


「もちろんよ。それが終わったら、また私の知らない薬草を教えてくれるでしょう?」


「あぁ。お前は勉強熱心だから、いつか立派な医者になってしまいそうだなぁ」


「そうなれたらいいのに」


「なんだお前。医者になりたいのか?」


「そういうわけじゃないけど」


「おかしな奴だな。ほら、湯を沸かしてくれ」


「はぁい」


 私はね、サネのようになりたいの。

 あなたのように、なりたいの。

 そしてあなたの闇を理解して、そっと取り除いてあげたいのよ。


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