風が教えてくれたもの
風が吹いた。
そのとき、僕は階段を上っていた。誰かに呼ばれたわけじゃない。けれど、確かに風が言ったのだ。
──ここに行け、と。
屋上の扉は少し硬かったけど、すぐに開いた。
そして、そこにいた。
制服のスカートが、風に揺れていた。
フェンスのそばに立ち、空を見上げている少女。
その背中が、どこか壊れそうで、まるで一人きりで浮かんでいるみたいだった。
僕は迷わず声をかけていた。
「……やっぱり、ここにいたんだね」
彼女がゆっくりと振り返る。
目が合う。けれどすぐに、少しだけ警戒したように眉が動いた。
「……誰?」
その声は、かすかに揺れていた。
攻撃的ではない。けれど、簡単には人を信じられない音だった。
「ごめん。驚かせたね。でも……なんとなく、風がここへ導いてくれた気がしたんだ」
「風……?」
小さく首を傾げる仕草は、ほんの少しだけ幼さを残していた。
けれどその瞳は、大人びていた。
たぶん、いろんなものを見すぎた目だった。
「君は……よく、ここに来るの?」
言葉を選びながら、ゆっくり問いかける。
彼女は少し間を置いて、短く答えた。
「……たまに。ここなら、誰も来ないから」
「そうだね。静かだし……空も広く見える」
彼女の視線の先にある空は、ほんのり赤みを帯びていた。
夏の終わりと秋の始まりが混ざる、どこか曖昧な色。
「……人と話すの、苦手なの」
ぽつりと、彼女が言った。
「学校、嫌いってわけじゃないけど……声がうるさすぎて。頭が痛くなる」
その言葉はまるで、ずっと誰にも言えなかった本音のようだった。
だから、僕は静かに返した。
「わかるよ。全部の声が混ざると、自分の声が消えそうになる」
彼女は少しだけ、目を見開いた。
その反応に、僕の中でなにかがほどけるのを感じた。
「……君も、そう?」
「似たようなものかも。だから、こうして空を見てるのが好きなんだ」
言いながら、彼女の横に少しだけ距離を空けて立つ。
無理には近づかない。でも、彼女の視界には入るように。
「ここ、君の“秘密の場所”なんだよね?」
彼女は一瞬だけ視線をこちらに寄越し、そしてまた空へ戻した。
「秘密ってほどじゃない。ただ……誰にも邪魔されたくないだけ」
「安心して。僕は邪魔しない。……少しだけ、一緒に空を見させてくれる?」
彼女は何も言わず、でも拒絶する素振りも見せなかった。
それだけで、今は十分だった。
──彼女の中にある何かが、今にも壊れそうなのが分かった。
言葉にはならない痛み。思い出したくない記憶。
もしかしたら、誰にも頼れずここに立っているのかもしれない。
僕は天使だ。
人間の生きる姿を見守る存在。
……それだけのはずだった。
けれど、今だけは違った。
壊れかけた心に、そっと寄り添いたい。
それが、恋ではないとしても。
彼女がまた歩き出せるまで。
自分の声を思い出せるまで。
僕は──この空の下で、彼女の隣にいたいと思った。