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天使は恋をする  作者: 水瀬 凛
第2章
3/17

風が教えてくれたもの

 風が吹いた。


 そのとき、僕は階段を上っていた。誰かに呼ばれたわけじゃない。けれど、確かに風が言ったのだ。

 ──ここに行け、と。


 屋上の扉は少し硬かったけど、すぐに開いた。

 そして、そこにいた。


 制服のスカートが、風に揺れていた。

 フェンスのそばに立ち、空を見上げている少女。

 その背中が、どこか壊れそうで、まるで一人きりで浮かんでいるみたいだった。


 僕は迷わず声をかけていた。




「……やっぱり、ここにいたんだね」




 彼女がゆっくりと振り返る。

 目が合う。けれどすぐに、少しだけ警戒したように眉が動いた。




「……誰?」




 その声は、かすかに揺れていた。

 攻撃的ではない。けれど、簡単には人を信じられない音だった。




「ごめん。驚かせたね。でも……なんとなく、風がここへ導いてくれた気がしたんだ」


「風……?」




 小さく首を傾げる仕草は、ほんの少しだけ幼さを残していた。

 けれどその瞳は、大人びていた。

 たぶん、いろんなものを見すぎた目だった。




「君は……よく、ここに来るの?」




 言葉を選びながら、ゆっくり問いかける。

 彼女は少し間を置いて、短く答えた。




「……たまに。ここなら、誰も来ないから」


「そうだね。静かだし……空も広く見える」




 彼女の視線の先にある空は、ほんのり赤みを帯びていた。

 夏の終わりと秋の始まりが混ざる、どこか曖昧な色。




「……人と話すの、苦手なの」


 ぽつりと、彼女が言った。


「学校、嫌いってわけじゃないけど……声がうるさすぎて。頭が痛くなる」




 その言葉はまるで、ずっと誰にも言えなかった本音のようだった。

 だから、僕は静かに返した。




「わかるよ。全部の声が混ざると、自分の声が消えそうになる」




 彼女は少しだけ、目を見開いた。

 その反応に、僕の中でなにかがほどけるのを感じた。




「……君も、そう?」


「似たようなものかも。だから、こうして空を見てるのが好きなんだ」




 言いながら、彼女の横に少しだけ距離を空けて立つ。

 無理には近づかない。でも、彼女の視界には入るように。




「ここ、君の“秘密の場所”なんだよね?」




 彼女は一瞬だけ視線をこちらに寄越し、そしてまた空へ戻した。




「秘密ってほどじゃない。ただ……誰にも邪魔されたくないだけ」


「安心して。僕は邪魔しない。……少しだけ、一緒に空を見させてくれる?」




 彼女は何も言わず、でも拒絶する素振りも見せなかった。

 それだけで、今は十分だった。




 ──彼女の中にある何かが、今にも壊れそうなのが分かった。

 言葉にはならない痛み。思い出したくない記憶。

 もしかしたら、誰にも頼れずここに立っているのかもしれない。




 僕は天使だ。

 人間の生きる姿を見守る存在。

 ……それだけのはずだった。


 けれど、今だけは違った。




 壊れかけた心に、そっと寄り添いたい。

 それが、恋ではないとしても。


 彼女がまた歩き出せるまで。

 自分の声を思い出せるまで。




 僕は──この空の下で、彼女の隣にいたいと思った。


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