その名前を、まだ呼べない
今日も、空は青かった。
人間の世界の空は、思っていたよりもずっと広い。
天界から見下ろしていたときよりも、
この高さで見る空のほうが、なぜか遠く感じる。
教室の窓から差し込む光が、ノートに影を落とした。
静かなはずの自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる。
──このざわめきに、まだ慣れない。
人間たちは、朝からこんなにも話すのか。
挨拶、笑い声、噂、冗談。
言葉が絶え間なく交わされていることに、戸惑いを感じる。
僕は静かに席に座り、文字を書く。
ノートに書かれた日本語は、まだどこか形ばかりで、
意味と感情をきちんと結びつけることができていない。
でも書くことで、少しずつこの世界に触れていける気がしている。
「ねぇ、聞いた? 昨日、天野くん屋上にいたって」
「ほんと? 誰かと一緒だったって話もあるよね」
……また、僕のことが話題になっているようだった。
人間たちの声は時に鋭く、心に刺さる。
でも今日のそれは、不思議と遠く感じた。
──彼女が、この教室にいるからかもしれない。
みう。
昨日、屋上で出会った少女。
静かで、けれど心の奥に強い風を感じる子。
言葉少なでも、その眼差しは確かに、何かを語っていた。
彼女を初めて見たとき、
どうしてか、空よりもそちらに目が向いた。
それが「感情」なのかどうかは、まだわからない。
でも、あの場所で、彼女の声を聞いたとき、
この世界に“寄り添う”という意味を、少しだけ知った気がした。
今日も彼女は静かに席に着いていた。
髪が揺れる。指先が膝の上でそっと動く。
そのささいな仕草に、僕の視線は自然と引き寄せられる。
──彼女は、きっと何かを背負っている。
話さずとも伝わるもの。
沈黙の中にある声。
僕はそれに気づけるようになってきた。
彼女の視線を感じた。
ふと顔を上げると、目が合った。
わずかに驚いたような表情をしたあと、
彼女はすぐに目をそらした。
でも、ほんの一瞬だったその視線に、
僕は確かに“やさしさ”を見た。
──どうして、そんな目をするんだろう。
僕はまだ、彼女の名前を口に出して呼べない。
名前とは、魂に触れる鍵のようなものだと教わった。
それを簡単に口にするには、まだ僕の心は整っていない。
でも、心のどこかではもう、彼女のことを「みう」と呼んでいる。
その音を、大事に、大事に、胸の奥にしまっている。
誰にも知られずに、彼女を見守りたい。
ただそれだけなのに、
どうしてこんなにも、心が揺れるのだろう。
今日も、屋上の風が恋しい。
でも、彼女がいるこの空間もまた、
いつか僕にとって“居場所”になるのだろうか。
それを決めるのは、きっと──彼女の笑顔なのかもしれない。