この胸に生まれたもの
再び屋上に立った。
風は穏やかだった。
空は昨日とよく似ていて、ほんの少し秋に傾いていた。
この場所は静かだ。
人間の声が遠くなって、心だけが自分の中に戻ってくる。
……けれど、今日は、少し違った。
僕は、“誰か”を待っていた。
理由は、説明できない。
ただ、そうしてしまっていた。
昨日、みうさん──いや、みうと話したことで、
僕の中に何かが残っていた。
彼女の声。
戸惑い。
それでも、立ち止まらずに声をかけてくれたこと。
「また、空、見に来る?」
あの言葉を、僕は自分で言った。
何のために? なぜあの時、それを口に出したのか。
……たぶん、答えはわかっていた。
──来てほしかったから。
ただそれだけの願いが、
こんなにも胸を締めつけるとは思わなかった。
風がひとつ、フェンスの間を抜ける。
音もなく、僕の頬をかすめて通り過ぎていく。
足音は聞こえない。
ドアも開かない。
空には、僕しかいなかった。
……期待するという感情は、こんなにも重たいのか。
天使だった頃は、ただ見守るだけでよかった。
届かなくていい。触れなくていい。
想いを持ってはいけなかったから。
でも今、こうして人の姿で彼女を待っている。
それだけで、僕はもう、天使ではないのかもしれない。
「──何を、しているんだろう、僕は……」
思わず漏れた独り言に、自分の声が硬く響いた。
いつのまにか、“天使としての言葉遣い”も少しずつ崩れてきている。
誰かの隣で、誰かを思うことで、僕は少しずつ、変わっていく。
けれど。
……変わることは、悪いことなのだろうか?
その答えは、まだ出ない。
けれど、みうと話したときに感じた“あたたかさ”は、
嘘ではなかったと、確かに思える。
──彼女が来なくても、それでもいい。
そう思おうとした。
でも心のどこかでは、
もう一度だけ、彼女の声を聞きたかった。
「天野くん」って、不器用に呼ばれるだけでいい。
それだけで、この胸の何かが少し軽くなるような気がした。
……それが「恋」なのかどうか、まだ分からない。
でも、
“誰かを待つ”ということが、こんなにも苦しくて優しいのだと知ってしまった以上──
僕は、もう以前のようには戻れない。
そして今、
空を見上げながら、ひとつだけ確かに思っていた。
──また、彼女と話したい。
ただ、それだけを。
何の見返りもなく、ただ純粋に。
彼女の声を、表情を、今度はもっと近くで知りたいと、
初めて“心から”そう思った。
それが、
この世界に生きる者の感情なのだとしたら──
……きっと僕は、もう、それを手放せない。