心を持つものとして
空を見上げていた。
理由はなかった。
ただ、何も言わずに空を見ていると、少しだけ心が静かになった。
「空は嘘をつかない」──
かつて誰かが言ったその言葉が、今は少しだけわかる気がする。
けれど、心は嘘をつく。
自分にさえも。
「天野くん」
背後から、小さな声がした。
その名を呼ばれることに、まだ慣れていなかった。
なのに、その声はすぐにわかった。
振り返ると、そこにいたのは――彼女だった。
みうさん。
驚いた。
彼女が自分から声をかけてくるとは思わなかった。
その瞳には、迷いと、ほんの少しの決意が入り混じっていた。
「……こんにちは」
「……あ、うん。あの」
彼女は、何か言いたそうにして、けれど言葉を探すように目を伏せた。
その仕草が、どこか不安定で、でも痛いほどまっすぐだった。
「きのう……というか……前に、屋上で会ったとき……」
「はい。覚えています」
僕の声は、やはりまだ硬かった。
でも、伝えたいと思った。
ただ、彼女の声をもう一度聞けたこと。
その場に立ってくれたこと。
それだけで、心が熱くなったこと。
「別に、何か話したいとかじゃなくて……ただ、その……」
「……僕は、話せて嬉しいです」
その一言が、口からこぼれた瞬間、
自分の胸が軽く震えた。
あれが、“感情”だった。
誰かの存在に、何かを動かされるということ。
これが、「心を持つ者」の証なのだと、今はわかる。
「……あなたって、不思議な人だよね」
みうさんが、ぽつりと呟いた。
「クラスにいるのに、そこにいないみたいな。……でも、ちゃんと見てくれてる気もして」
「……それは、僕が……少し、人と違うから、です」
「違うって……なにが?」
答える言葉が、見つからなかった。
だけど、彼女は問い詰めるような目ではなく、ただ、探るように僕を見ていた。
彼女自身も、まだ誰かを完全に信じるには怖すぎる世界にいるのだとわかった。
「……たぶん、僕も、居場所を探してるところなんです」
その言葉は、思っていたよりもずっと人間らしく響いた。
自分の口から出てきたことが、少し不思議だった。
風が吹いた。
彼女の髪が少しだけ揺れて、細い指で押さえられた。
その何気ない仕草が、妙に胸に残った。
「……また、空、見に来る?」
その問いが、自分から出たことに驚いた。
でも、彼女は少しだけ目を見開いて、それからほんのわずかに笑った。
「……うん。たぶん」
その笑顔は、きっと誰にも見せていないものだった。
僕の心は、その一瞬で、静かに熱を帯びた。
それが何という感情なのか、まだ名前を知らない。
でも、
その名前を知る日が来たら──
きっと、今とまったく同じ気持ちではいられない。
──そう思った。